太田述正コラム#10115(2018.10.7)
<木村光彦『日本統治下の朝鮮』を読む(その3)>(2019.1.22公開)

 「・・・日本では牛耕(および馬耕)が衰退し、人力による耕作に替わった。
 これは日本経済史でしばしば「勤勉革命」<(注2)>といわれるが、朝鮮をはじめアジアに普遍的な現象ではない。・・・

 (注2)「日本では室町時代末から江戸時代初期にかけての16-17世紀は耕地面積が急増した時代である。これは[大規模な長距離の農業用水路<の>・・・開発]に起因するもので、[それまで灌漑の主要な地位を占めてきたため池の役割を低下させて河川灌漑が主体<になった。>]江戸時代における耕地開発の3分の2は17世紀中に行われた・・・。また人口についても17世紀中には急速な増加がみられ、1600年において約1500万人であったものが18世紀初頭には約3000万人に達していた。・・・
 しかし17世紀末には平野部も大半が開発し尽くされて18・19世紀には耕地面積は伸び悩み、人口も約3000万人で停滞していた。こうした状況の中、・・・小農達が生産拡大のために採った行動、それが勤勉革命であった。・・・
 <この説は、1979年に速水融が初めて唱えた。>
 <勤勉革命の>日本と<産業革命のイギリス>で・・・対照的な生産革命が進行した原因は、土地の広狭に求められる。元々<イギリス>は日本に比べて利用可能な土地に対する人口は希薄、海外植民地の獲得によってそれはより顕著なものになっており、労働者一人当たりの生産性向上が求められた。他方、日本では17世紀末には可耕地の大半が耕作地化されており、単位面積当たりの生産性向上が追求された。・・・
 利用可能な土地が減少したことで飼料確保と人口を支える食糧生産が競合し、また畜力の有効性が低下する中で家畜の飼育は高コスト化していた。農家は肥料の購入・投下という一種の投資を通じて企業経営的側面の強化を求められ、最少費用・最大効率の経済原理に基づいた行動をおこして家畜の飼育をやめ、畜力から人力への移行を進めた。尾張藩の治める濃尾地方では、1810年頃の家畜飼育数は1660年頃に比べて約45%に減少<した。>・・・
 こうして減少した家畜に代わるエネルギーは人間が負担することになったが18世紀には人口の増加は頭打ちになっており、小農自立により経済的インセンティブを得て生産拡大を図る農民たちは自発的に勤勉に働いて労働時間は長時間化し、勤労・勤勉を尊ぶ倫理観が形成されていった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%A4%E5%8B%89%E9%9D%A9%E5%91%BD
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%8C%E6%BC%91#日本 ([]内)

⇒日本以外の、朝鮮を含むアジアは、「人口は」稠密、で、「海外植民地」なし、の地域ばかりであり、稲作地帯で、日本の勤勉革命的なものが起こらなかった理由に木村は踏み込んで欲しかったですね。
 「17-18世紀の中国の発展した地域でも「勤勉革命」が見られたと言え<そう>」と、2004年に杉原薫が主張しており、
http://www3.grips.ac.jp/~esp/event/group_d-event/%E5%8B%A4%E5%8B%89%E9%9D%A9%E5%91%BD%E8%AB%96%E3%81%AE%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E7%9A%84%E5%B1%95%E9%96%8B/
仮にこれが正しいとすると、日本と支那の間にあって、何故、朝鮮では勤勉革命が見られなかったのか、が一層問題になってきます。(太田)
 
 都市商業は未発展であった。
 それをよく示すのは都市の規模である。
 1910年、最大都市の京城(けいじょう)(ソウル)でも総人口は27.8万人(うち内地人が3.8万人)にすぎない。
 ほかに10万人を超す都市はなかった。
 第二の都市、釜山の総人口は7.1万人、北朝鮮の最大都市、平譲の総人口は4万人に達していなかった。・・・
 併合当時、朝鮮全体を見渡して、工場らしい工場はほとんどなかった。」(10~12)

⇒都市/商業や工業について、日本(や支那)との具体的比較がなされていないのは残念です。(太田)

(続く)