太田述正コラム#10219(2018.11.28)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(付け足し)(その18)>(2019.2.17公開)

〇杉山全能論に見えてしまうが?

 人間には画然とした知力差があり、その差は上澄み(と最底辺)内で級数的に開いている、ということは厳然たる、統計学上かつ実経験上の事実です。
 戦前の日本で、この上澄み中の上澄みが集まっていたのが帝国陸軍の上層部でした。(注10)

 (注10)大東亜戦争時点で、主要参戦国の首脳達の知力/能力を比較すれば、杉山が飛び抜けていたいたと思われるが、首脳達の「幕僚達」の比較においても、杉山の(帝国陸軍を中心とする)幕僚達の知力(試験成績)/能力がと飛び抜けていたはずだ。米国の軍人達や一般官僚達の知力/能力レベルはそう高くなく政治任命者達も必ずしも知力/能力で選抜されるわけではない・・だからこそ、ハル国務長官は岩畔にぞっこんほれ込んだ(コラム#省略)・・のだし、英国の場合も、一般官僚達はともかく軍人達の知力/能力はそう高くないからだ。蒋介石の幕領達やスターリンの幕領達や日本の与国ドイツの首脳たるヒットラーとそのナチ幕僚達の知力/能力など、暴力団の上層部のそれに毛が生えた程度であって、杉山らと比較するにも値しないだろう。

 この上層部の大部分が杉山元を中心に組織的に杉山構想実現に動いたからこそ、日本は、当時の諸列強の中で相対的には小国力であったにもかかわらず、世界史的大事業をわずか14年間で完遂することができたのです。
 これは、もう一つの、アジア人によるところの、武力を用いた、文明圏を超えた国際的大偉業であったところの、チンギス・カンが始めた、モンゴルによる空前絶後の大帝国建設を、遥かに超えた大事業だった(注11)と言っていいでしょう。

 (注11)チンギス・カンによるそれは、1211年に開始され、15年後の1227年のチンギスカンの死の時点ではまだ道半ばであった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%AE%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%B3#征服事業
ということに加えて、クビライが1276年には南宋を滅亡させ、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%93%E3%83%A9%E3%82%A4
その頃、モンゴルの支配地域は概ね最大になったものの、「事業」開始から約90年経過したところの、14世紀に入った頃には、モンゴルは、「分立した諸王家の政権がモンゴル皇帝の宗主権を仰ぎながら緩やかな連合体を成す形に変質し」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83_(%E7%8E%8B%E6%9C%9D)
てしまい、爾後モンゴルは総体的に衰退に向かっていき、現在、ロシアにモンゴルの軛症候群を残したことを除き、もはや歴史にその痕跡を殆ど留めていないのに対し、帝国陸軍の世界史的大事業の方は、開始から90年近く経過した2018年現在、アジアの復興が、引き続き着実かつ力強く進行中だ。
 両者のどこが違っていたかと言えば、第一に、動機が、モンゴルの場合は、利己主義だったのに対し、日本の場合は、人間主義だったこと、第二に、モンゴルの場合は、独自の文明を有さず、イスラム文明や支那文明を適宜継受しつつ大事業を遂行していったのに対し、日本の場合は、(至上性と普遍性を兼ね備えた)日本文明を背負って大事業を遂行したこと、そして、第三に、首脳達の選抜を、モンゴルの場合は、首脳は血統主義の枠内での能力主義(クリルタイ)で行い、それ以外は、この首脳による選抜で行ったのに対し、日本の場合は、「注10」で記したように、首脳達ほぼ全員の選抜を、知力に係る試験成績と能力主義によって行った点だ。
 (最後の点が、前述した、首脳達の知力/能力の差異をもたらしたに違いない、というわけだ。)

 すなわち、杉山が全能だったのではなく、杉山ら、帝国陸軍の首脳達、ひいては日本帝国の首脳達が、他の主要国の首脳達に比べて、遥かに優れていた、ということなのです。

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[帝国海軍の無能さの不可思議]

 日本帝国では、(中2前後での)試験成績(知力)に関し、陸軍首脳/幕僚>海軍首脳/幕領>一般官僚首脳/幕領、だったとの私の指摘が正しいとして、能力に関しては、陸軍首脳/幕領>一般官僚首脳/幕領>海軍首脳/幕領、だったように見受けられる。
 ここでは、終戦時の海軍中の、永野修身元帥、豊田副武軍令部総長、大西瀧治郎軍令部次長、の継戦論、そして、終戦派の米内光政海軍大臣と豊田や大西との関係、の摩訶不思議さから窺うことができるところの、彼らの無能さだけを取り上げよう。

 まず、大西、及び、米内と大西との関係、についてだ。↓

 「1944年10月5日、大西が第一航空艦隊長官に内定した。この人事は特攻開始を希望する大西の意見を認めたものともいわれる。・・・
 大西は出発前に米内光政海軍大臣に・・・特攻を行う決意を伝えて承認を得た。・・・
 <特攻はやむを得ないものだったが、その発案者を、その後、軍令部次長にした終戦派の米内の判断は、私には信じられない。部下を大勢必殺する特攻を発案するような人間は継戦派、と、概ね相場が決まっているからだ。↓>
 1945年5月19日、軍令部次長に着任。・・・
 <「戦局挽回は可能」と恐らく本当に信じ、これを唱えた時点で大西は軍人失格だ。↓>
 終戦が間近になると、大西は「二千万人の男子を特攻隊として繰り出せば戦局挽回は可能」という「二千万特攻論」を唱え、豊田副武軍令部総長を支えて戦争継続を会議で訴えた。・・・
 <その前に、米内は、大西を馘首しておくべきだった。↓>
 8月9日、最高戦争指導会議に現れて徹底抗戦を訴える。12日、豊田が陸軍の梅津美治郎参謀総長とともにポツダム宣言受諾反対を奏上すると、米内海軍大臣は豊田と大西を呼び出した。米内は大西に対して「軍令部の行動はなっておらない。意見があるなら、大臣に直接申出て来たらよいではないか。最高戦争指導会議(9日)に、招かれもせぬのに不謹慎な態度で入って来るなんていうことは、実にみっともない。そんなことは止めろ」と言いつけ、大西は涙を流して詫びた。
 <下掲↓のような大西の動きを封じるためにも、この時点でも米内は大西を馘首すべきだった。>
 8月13日、大西は「我々で画策し奏呈し、終戦を考え直すようにしなければならない。全国民2000万人犠牲の覚悟を決めれば、勝利はわれわれのもの」と主張した。内閣書記官長迫水久常のもとにも現れ、手を取って「戦争を続けるための方法を何か見つけることはできませんか」と訴えた。
 <これは、特攻で死んだ部下達への謝罪のための切腹、と解すことができよう。↓>
 1945年8月16日渋谷南平台町の官舎にて大西は遺書を残し割腹自決した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%A5%BF%E7%80%A7%E6%B2%BB%E9%83%8E

(続く)