太田述正コラム#10221(2018.11.29)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(付け足し)(その19)>(2019.2.18公開)

 次に、豊田、及び、米内と豊田との関係、についてだ。↓

 「豊田<は、>・・・1944年(昭和19年)5月3日、連合艦隊司令長官に着任<した>。・・・
 <航空機による特攻とは違って、こんな軍事的に意味のない特攻を即刻許可するなど、軍人の資格はない。↓>
 1945年4月、戦艦大和を含む第二艦隊による海上特攻隊が実施された。この作戦は連合艦隊参謀神重徳大佐が参謀長を通さずに豊田から直接採決を得た。豊田は「大和を有効に使う方法として計画。成功率は50%もない。うまくいったら奇跡。しかしまだ働けるものを使わねば、多少の成功の算あればと思い決定した」という。 ・・・
 <恐らく、昭和天皇は私と同じ発想だったのだろう。
 そんな豊田を終戦時期を探るこんな時期に軍令部総長に就けた米内の判断もまた、私には信じられない。↓>
 1945年5月29日、軍令部総長に着任。昭和天皇は「司令長官失格の者を総長にするのは良くない」と豊田の総長就任に反対する旨を海軍大臣米内光政に告げているが、米内は「若い者(本土決戦派)に支持がある豊田なら若い者を抑えて終戦に持っていける」という意図を天皇に告げ押し切った。
 <非合理的な判断をする人間を枢要ポストに就けた米内が無能だった、ということに尽きる。↓>
 しかし結果的に若い者を抑えるどころか押し切られた形になり、米内も親しい知人に「豊田に裏切られた気分だ。見損なった」と述べ、昭和天皇は「米内の失敗だ。米内のために惜しまれる」と述懐している。 ・・・
 8月12日、軍令部総長の豊田は陸軍参謀総長梅津美治郎とともにポツダム宣言受諾の反対を奏上する。同日海軍大臣米内光政は豊田と大西の二人を呼び出した。米内は豊田の行動を「それから又大臣には何の相談もなく、あんな重大な問題を、陸軍と一緒になって上奏するとは何事か。僕は軍令部のやることに兎や角干渉するのではない。しかし今度のことは、明かに一応は、海軍大臣と意見を交えた上でなければ、軍令部と雖も勝手に行動すべからざることである。昨日海軍部内一般に出した訓示は、このようなことを戒めたものである。それにも拘らず斯る振舞に出たことは不都合千万である」と非難し、豊田は済まないという様子で一言も答えなかった。
 <そんな豊田を終戦後とはいえ、後継海相に推すとは、もはや、米内に対して言葉もない。↓>
 8月15日、終戦。終戦直後の幣原内閣発足時、米内は病気を理由に海軍大臣を辞退し後任に豊田を推薦したが、占領軍が豊田の太平洋戦争中に於ける職歴から戦争犯罪容疑で調査を進めており、かつ海軍部内に於いても井上や高木惣吉などから豊田の就任には猛反対があり、ついに豊田の海軍大臣就任は実現せず、米内が海軍省廃官まで大臣を務めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E7%94%B0%E5%89%AF%E6%AD%A6

 最後に永野についてだ。
 終戦時、皇族であった伏見宮博恭王を除けば、永野は唯一の海軍元帥だった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%B8%A5_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
 しかも、「海軍の三顕職である連合艦隊司令長官、海軍大臣、軍令部総長を全て経験した唯一の<人物>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E9%87%8E%E4%BF%AE%E8%BA%AB
と来ているのだが、「永野はあくまで軍人は極力政治に関わるべきでないと言う信条を持っており、政府に対して、役職柄海軍の代表者として海軍の実情について報告はするものの、政府が決めた方針について賛成も反対もせず、日米戦開戦の時も回避のための行動は公には見られなかった。この永野の姿勢には・・・1年半~2年分しか石油備蓄がな<いのに、>・・・6月初旬に日蘭会商からの石油の供給が完全に停止されたという海軍の実情も反映しているともいわれている。・・・
 11月13日、日本の行く末を心配した高松宮が保科善四郎中将(海軍省兵備局長)に開戦後の予想を尋ね、勝算なし、特に航空に関してはまったく勝算なし、と中将が答え<てい>る」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E9%87%8E%E4%BF%AE%E8%BA%AB
ということからすると、海軍は石油備蓄を怠っていたために、米国の対日石油禁輸によって、戦おうと戦うまいと、1年半~2年しか存続できない状態に追い込まれていたために、対英米開戦に反対しようがなかった、ということが分かる。
 (もとより、対英のみ開戦に固執する手はあったのだが、永野は、ハーヴァード大留学、かつ、駐米武官経験迄あった(上掲)のに、英米不可分論を信じ込んでいたと見える。)
 石油備蓄の上積みを怠ったのは、永野自身(1936~37年)、そして米内(1937~39年)を含む、歴代海相
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E8%87%A3
の大過失であると言えよう。
 (潜水艦について詳しくは知らない、と、彼が答えたというトホホな挿話は、以前(コラム#10103)、紹介したところだ。)
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(続く)