太田述正コラム#10249(2018.12.13)
<謝幼田『抗日戦争中、中国共産党は何をしていたか』を読む(その7)>(2019.3.4公開)

 「中共の真の企みは近年、徐々に明らかにされてきた。
 1936年4月9日、彭徳懐<(コラム#2748、4940、5892、6023、8628、8852)>と毛沢東は張聞天<(注8)>にあてて電報を送り、「現在は蒋討伐令を出すべきではなく、人民に告げる書と通電[中国で、広く各地に送る電報]を発表すべきである」と指摘し、次のような説明を付している。

 (注8)1900~76年。「1921年カリフォルニア大学に留学し,25年中国共産党に入党。 27年モスクワの孫逸仙大学に留学。 30年帰国して李立三路線に反対し,共産党中央農民部長,宣伝部長を歴任した。 33年江西ソビエト区に入り,中央委員会書記局書記,宣伝部長などをつとめ,34年中華ソビエト政府人民委員会主席,35年遵義会議で総書記に選ばれた。 39年共産党中央委員会書記局第一書記を経て,45年七全大会で中央委員,政治局委員となり,51年第2代ソ連駐在大使,54年外交部副部長を兼任,55年同副部長専任 (1959退任) ,56年八全大会で中央委員,中央政治局委員候補に選ばれたが,59年盧山会議で右傾分子として批判された。さらに文化大革命時期に反党分子として再批判され監禁された。」
https://kotobank.jp/word/張聞天-98175

⇒中共の事実上の指導者となっていた毛沢東が、どうして彭徳懐との連名電報を打ったのか、知りたいところです。(太田)

 「この時機に蒋介石討伐令を発することは、戦略的に我々の最高の政治的旗印を曖昧にしてしまう。
 われわれの旗印は日本討伐令であり、内戦停止の旗印のもと一致抗日を実行し、日本討伐令のもとで蒋討伐を実行することである。
 これは国内戦争を実行し、蒋討伐を実行するのに最も有効な政治的旗印であり、その中心となるスローガンは内戦の停止である。
 このスローガン以外は今日において不適切である」・・・

⇒このくだりの典拠は、「中国共産党歴史資料叢書『第二次国共合作の形成』中央党史資料出版社(北京)1989年 92頁」とされており(230)、この本における、初めての意味ある引用です。
 著者自身が書いているように、「その後の西安事変はまさにこの中共の策略が成功したものだった」ことは明白でしょう。(太田)

 『中共中央文献先週』<に収録されている>1936年6月20日に出された「東北軍の工作に関する中央の指導原則」(計十条・・・)・・・第六条は、<張学良の>東北軍の中に共産党の小組[グループ]と支部を設けるべきだとして<いる。>・・・
 <また、>楊虎城<(注9)(コラム#8350、8352、8358、8628)>の統率する西北軍<(注10)>に大量の共産党員が浸透していた。・・・

 (注9)1893~1949年。1936年末に国民政府に逮捕された張学良(1901~2001年)は生涯拘禁されるも殺されなかったが、1937年末に亡命先から帰国して逮捕された楊虎城は国共内戦末期の9月に銃殺された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/楊虎城
https://ja.wikipedia.org/wiki/張学良
 (注10)1924年秋に設立された直隷派の馮玉祥(ふうぎょくしょう)の国民軍(中華民国国民軍)の第1軍(国民軍第1軍)が翌1925年に入ると西北軍・・北京・熱河省・察哈爾省・綏遠省・甘粛省などを「管轄」・・と呼ばれるようになり、1926年に国民党軍隷下となった
https://ja.wikipedia.org/wiki/国民軍_(中華民国)
という経緯があるが、その後も西北軍なる呼称が残ったのかどうかはっきりしない。

 <そして、>中共党員が<東北軍の本拠の>西安と<中共の本拠の>延安を往復する際は、楊の第十七路軍がそのルートを提供した。」(49~52)

(続く)