太田述正コラム#10253(2018.12.15)
<皆さんへの問いかけ(続)>(2019.3.6公開)

 昨日が、「活動量調査」(コラム#10247)の(一週間目の)最終日だったのですが、夜のウォーキング兼買い物の時に機器を付け忘れ、仕方なく、その後、駅とは反対方向のスーパーに、再度、ウォーキング兼買い物に出かけました。
 「活動量」的には前者の半分くらいにしかなりませんが、応急措置ってやつです。
 また、数日前、1階への往復の時に付け忘れた分も、更にその後で、補っておきました。
機器と一緒に届いた注意書きに、平素以上に「運動」をやっちゃう人がいるけれど、それは止めてくださいってあったけれど、私のは問題ないでしょう。
 で、本日朝、目出度く、貸与機器を最寄りの郵便ポストから返還送付しておきました。

 さて、本題です。
 昨日のコラム#10251を書いている時点において、既に、Aさんとの間で下掲のやりとりが行われていたところ、まずはそれをご紹介しておきます。

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<A>

 太田さんがこの戦いをご存じなのは勿論だと思いますが、聞く(読む)と見るとは大違い、日本軍が何か月も立てこもった穴はとても人間が暮らせるようなところではありません。鬼気迫る精神力です。そして、ベリリュー島は小さな島ですから、事前の米軍の砲撃はすさまじく、島の密林をほぼ破壊し焼き尽し丸裸にしてからの上陸です。
 ミニッツの碑文(写真添付)については、後ろの玉垣で分かるように1994年に日本が作った神社に文章としては唯一置かれているもので、複雑なというか恥ずかしい(申し訳ない)気持ちになりました。このような場所に置くべき言葉は、日本のしかるべき人がもっと早い時期に何故誰も言っていないのか、という思いです。ひどい目にあった敵方のニミッツが称揚しているのは全滅した部隊に誇らしくはあっても傍証で、従の立場(それにしてもすごい)です。
 何といっても指揮官の中川大佐の統率力がすごいのですが、既に海軍が要塞化していたこの島に満州関東軍精鋭の中川大佐以下が到着したのは戦いの半年足らず前です。そして、陸軍が自身の陣地構築をにわかに始めるに当たって、陸軍に頼まれても海軍はつるはし一本貸さない、というところから始まっているのです。海軍と陸軍のつぶし合いは、海軍軍人の南方戦線におけるある言葉「全力をもって陸軍と戦い、その余力で米軍と戦う、といった有様で…」に象徴的ですが、ベリリュー島でも同じ事が起こりました。それを中川大佐の人徳と統率力で一体化していきました。(このような官僚の省利省益は戦後も変わらず続き、何十年後のバブル期に日米貿易摩擦が激烈を極めた際、ある通産官僚が「全力をもって外務省と戦い、その余力でアメリカと戦う」とつぶやいたとか。でも、こんな言葉をピンと分かる人も今は少ないでしょう。)
 蛇足ながら中川夫人について。日本軍が全滅したあと、アメリカ軍は中川大佐の遺骸を敬意をもって丁寧に葬りました。そして戦後遺骨を返還しようとしたところ、中川夫人(未亡人)は、「中川は1万人を超す兵の司令官であった。夫の遺骨は兵全員の遺骨が帰還した最後にしてほしい。」と断ったそうです。そして米軍が撤退したあと年月が過ぎ、米軍が作った中川大佐の墓も不明となり、未だ遺骨は見つかっていないとの事です。遺骨収集団は今でも来ていて新たに遺骨も見つかっていますが、今でも不明の遺骨が2千体とか。・・・
P.S. 日本軍の精神力の強さについては、私は大田さんのように一般化しません。私の故郷の鳥取連隊はビルマ戦線で悲惨な体験をしています。私の故郷で、近くの村の帰還兵が晩年になって手記を書いています(親戚の私の同級生から入手)。これを読むと、日本軍は軍規もモラルもイギリス軍に劣ることはなはだしい。指揮者に破廉恥な軍人が多かったのも戦後の軍アレルギーの原因になっていると思います。

<太田>

>日本軍の精神力の強さについては、私は大田さんのように一般化しません。

 全て、物事には例外がつきものです。
 私は、一般化しているのではなく、(例外に対置されるところの)一般に注目しているのです。

>私の故郷の鳥取連隊はビルマ戦線で悲惨な体験をしています。私の故郷で、近くの村の帰還兵が晩年になって手記を書いています(親戚の私の同級生から入手)。これを読むと、日本軍は軍規もモラルもイギリス軍に劣ることはなはだしい。指揮者に破廉恥な軍人が多かったのも戦後の軍アレルギーの原因になっていると思います。

 インパール作戦の話をすると長くなるので止めておきますが、例えば、南京事件の時の指揮官の柳川平助、や、シンガポール華僑粛清事件の時の参謀の辻政信、は、「軍紀もモラル」もへったくれもない、殆ど凶悪犯罪人的資質の人物達であるところ、だからこそ、陸軍中央は、彼らを、あえて、劇薬的に使った、と私は見るに至っています。
 帝国陸軍の人事の凄さと言いましょうか・・。
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 今、読み返していて、Aさんが、「ビルマ戦線」と書いていて「インパール作戦」とは書いてないことに気付きました。
 テルモピレーを思い出してしまった(?)名越(下出)に対するに、「ビルマ」と「悲惨な体験」が目に入った瞬間、インパール作戦を思い出してしまった私、といったところですね。
 では、次に、コラム#10251を読んだUSさんと私とのやりとりをご披露しましょう。
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<US>

 本質的な質問ではないのですが、ペリリュー神社の石碑の裏側に記載してある
“諸国から訪れる旅人たちよこの島を守る為に日本軍兵士が いかに勇敢な愛国心を持って戦い玉砕したかをつたえられよ。”
は、
“諸国から訪れる旅人たちに、この島を守る為に日本軍兵士が いかに勇敢な愛国心を持って戦い玉砕したかをつたえられよ。”
の方が正しいと思うのですがいかがでしょうか?
 英文中 should be told となっているので、旅人たちは、日本軍兵士がいかに勇敢であったかを伝えられるべきである、というのが直訳の意味になると思います。
英文メッセージは、神社を訪問した全ての人に、日本人は勇敢であったんだよと伝えていると思いました。
 でも日本語訳の、”旅人よ、玉砕したかをつたえられよ” では、旅人にメッセンジャーになってくれという意味になってしまい、英文とはニュアンスが違ってしまうと思いました。
 倒置法なのかどうかわかりませんが、原文をすぐに訳せなく、あちこち調べたら上記の疑問が湧いてきてしまいました。

<太田>

 いやあ、おっしゃる通りですね。
 こんな明白な誤訳に、私
http://blog.ohtan.net/archives/51160060.html
もAさんも気付かなかったとは。
 そもそも、最初に件の詩文を「発見」した名越二荒之助が、誤訳してしまっていたようです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ペリリューの戦い
 名越
https://ja.wikipedia.org/wiki/名越二荒之助
が、テルモピレーの戦いの時のことを知っていてそれに引きずられた、ということであれば、同情の余地がありますが・・。
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 USさんとのものだけではなく、Aさんとのものも、「本質的な」やりとりではないわけですが、どちらも、なかなか面白い、と私自身は思った次第です。
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<GHq.f0N2>(「たった一人の反乱(避難所)」より)

 コラム#10251の問いかけだけど、我々が不思議に思わない理由は、何事によらず持ち場で出来ることをやり抜くのが当たり前だと思っているから、かなあ。
 外人さんは労働は苦役だと思ってるようだし、基本的に言われたことしかやらないし使用者もそれ以上のことは期待してない環境だから、不思議に感じられるのかも。

<太田>

 一番予想される解答であり、無関心説(視界に入ってこない説)とも言えるけれど、不十分です。
 Aさんは「日本軍の精神力」に大いに関心を持っているけれど、ペリリュー島での話を、軍人としても人間としても傑出した指揮官の賜物である、と自分なりに理解しようとしつつ、同様のことが、島嶼戦だけに限定しても、ペリリュー島、硫黄島、沖縄、等、太平洋の全戦域で繰り返されたことが不思議だ、とは思っていない(思いたくない?)ようだからです。
 また、Bさんは、「私の単位マニアぶり」に大いに関心を持っているからこそ、(実は、遡ればスタンフォード大学当時から、)みんなの前でそのことに何度か言及しつつも、そして、ここでは、具体的には書かないけれど、どうして私がそんなことをやらかしたかについて、一応の説明らしきことを示唆しつつも、自分の「説明」に完全には納得していない様子が伺え、にもかかわらず、私に直接理由を尋ねるほど不思議なことだ、とは思っていない(思いたくない?)ようだからです。
 なお、ここで、もう一つ、蛇足的ヒントを申し上げておきますが、私の想定している解答は、AさんやBさん等をディスるものでも、私自身を卑下するものでもない、ということです。
 (というか、そんな解答を想定していたなら、AさんやBさんを含む、仲間達にこんな問いかけをするワケ、ありませんよね。)