太田述正コラム#10269(2018.12.23)
<映画評論53:ラ・ラ・ランド(その1)>(2019.3.14公開)

1 始めに

 買ったばかりのAmazon Fire Stickに関しての「懸案」であったところの、Amazon (暫定)Prime会員向けの映画『ラ・ラ・ランド』鑑賞をしようと、Stickからの入力にTVを切り替えたら、Stickのファームウェアだったかのアップデートが始まり、ようやくそれが終わったと思ったら、今度は、TV画面で見えている『ラ・ラ・ランド』のロゴに辿り着けません。
 そこで、Amazonのサポートに電話。
 Stickの電源コードをコンセントから抜かせられるわ、リモコンの電池を外させられるわ、で、あれこれ試した後、結局、単に、私がリモコンで押していた各種ボタンがことごとく間違いであっただけであったことが判明。
 (実は、それを私がボタンである、と認識していなかったものが、「前後左右移動/決定」ボタンだったのです。)
 これでもって、かれこれ40分も空費しました。
 (もう、我ながらどうしょうもない、と自嘲することしきりです。)
 で、視聴した結果は?
 ヤマハのサウンドバー(シアターバー)/サブウーファーの威力はスゴイ、の一言です。
 この種の音楽映画だと、これだけのシステムであっても、自宅にいることを忘れ、映画館に行った気分になっちゃいます。
 これが、サラウンド効果って奴なんですねえ。
 これに、更に、発注済みのリアスピーカーx2が加わったら、一体どうなっちゃうんだ、恐ろしい、というくらいの迫力です。
 (そう言えば、4歳の時に始めたピアノはヤマハのアップライトだったし、現在でもヤマハの電子ピアノを持っており、ヤマハには随分お世話になってきたもんだ、なーんて感慨にまで耽りました。)
 さて、この映画は、アカデミー賞で6部門を受賞した2016年の米国映画であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89
たいていの人なら、この映画のことを、少なくとも小耳に挟んだことくらいはあるでしょう。
 いやそれどころか、まだ、見てなかったのは、読者の中で私くらいだったりして・・。

2 取敢えずの感想

 本来の私流の映画評論・・私流はストーリー評論であり、それは必ずしも正統派の評論ではありませんが・・を行う前に、私の妄想的感想を記しておきます。
 その妄想的感想とは、米国人達が、この映画の主人公2人がまさにそうであるように、自分達の能力を最大限用いて成功を掴み取ろうと日々必死に努力をしている、という「事実」を改めて突き付けられた、というものです。
 (黒人達に関して言えば、必ずしもそう言えないわけですが、ここでは立ち入りません。)
 改めて、というのは、私が1974~76年に米国に留学した時に、初めてそう思ったからです。
 対して、我が日本はというと、江戸時代においても、武士も町人もヒマだったという話を書いたことがあります(コラム#省略)が、現在でも、職場、とりわけホワイトカラーの職場、は、スラックだらけで生産性はお世辞にも高いとは言えませんし、女性の多くは専業主婦として、或いは不正規雇用者として、能力の甚だしい出し惜しみをしつつ生涯を終えていますし、また、私の見るところ、退職後の官僚や大企業の社員達は、仕事であれ趣味であれ暇つぶし程度のことしかしない人が多数を占めています。
 スラックだらけの職場に関しては、かなり以前から、日本では職場が遊び場を兼ねているからだ、と弁護してきたものの、それ以外については、米国の方がまっとうかもしれない、とつい最近まで考えていたのです。
 しかし、これについても、考えを改めつつあります。
 日本が20世紀末に高度成長を止めたのは、縄文モードの深化のせいだ、と、私は指摘してきたところ、人々が能力の最大限発揮を回避する、というのも、縄文モード深化の賜物なのではないか、と。
 というか、縄文時代、遡っては、狩猟採集時代、の人々もそうだったのではないか、それこそ、人間の本来の姿ではないか、とも。

(続く)