太田述正コラム#10305(2019.1.10)
<金文学「毛沢東は日本軍と共謀 「阿片」で巨利!」を読む(その1)>(2019.4.1公開)

1 始めに

 表記を見てお気付きなったむきもあろうかと思いますが、「読む」対象が、『』ではなく、「」で示されているのは、それが、本ではなく、雑誌『歴史通(れきしつう)』(2013年1月号)に掲載されたコラム(146~154頁)だからです。
 しかもこれは、曲がりなりにも典拠が原則として付されていたところの、謝幼田『抗日戦争中、中国共産党は何をしていたか』とは違って、典拠が碌に付いていないこともあって、論文ではなくてコラムでしかないわけですが、毛沢東の邦字ウィキペディアの重要記述が拠っていることから、取り上げることにしたものです。
 ちなみに、筆者の金文学は、「1962年、中国瀋陽で韓国系三世として生まれる。85年、」東北師範大学日本文学科卒業。[同志社大修士、広島大博士課程修了。日本に帰化。]現在、呉大学、福山大学で教鞭をとる。日本を中心に日中韓三カ国語による執筆活動を行っている。」(154頁)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%96%87%E5%AD%A6 ([]内)
という人物です。

2 金文学「毛沢東は日本軍と共謀 「阿片」で巨利!」を読む

 「・・・和製漢語が、中国人、朝鮮人の近代意識を育てるうえで大きな役割を果たしました。
 言い換えれば、中国は日本を通して近代化に向かうことができたのです。
 ところが中国人も朝鮮人も、そして当の日本人ですら、古来、中国から朝鮮半島を経由して日本に文明が伝わったという通念のとりこになっていて、百余年前に文明の優劣が逆転し、日本が文化的優位に立ったことを忘れているのです。・・・

⇒そうではなく、縄文性と弥生性を兼ね備えた、すなわち、人間主義とその人間主義防衛メカニズムを兼ね備えた、日本文明は、一貫して支那文明や朝鮮亜文明に対し優位に立ち続けてきたのです。(太田)

 立憲民主制をめざした戊戌変法維新は結局、西太后ら守旧派の弾圧を受けて失敗しましたが、康有為は伊藤博文を清国政府の首相、あるいは最高政治顧問として招聘しようとしていました。・・・

⇒典拠が付されていませんが、ありうる話でしょう。(太田)

 <また、>中国革命の土壌は真の意味では中国ではなく、日本の首都東京にあり、革命の種を播いたのも日本人だったと言っても過言ではありません。
 日本人や日本政府に支えられた親日派中国革命家が存在したからこそ、中国が救われ、革命が成功した。
 これも揺るぎない歴史的事実です。

⇒その通りですが、それが、日本の島津斉彬コンセンサス信奉者達によって、具体的には、民間のその信奉者達が中心となって、帝国陸軍内のその信奉者達の指導、支援を受けつつ、戦略的、計画的に実行されたことまでは、(無理もありませんが、)筆者は気が付いていません。(太田)

 なかでも「中国近代革命の父」とされる孫文が最大の親日派革命家だったことは、中国ではタブーのようになっていますが、彼ほど日本を愛した中国人もいませんでした。・・・

⇒必ずしも間違いではありませんが、孫文の親日派革命家ぶりなど、毛沢東のそれの足元にも及ばなかったところ、筆者はそのこまで言い切る自信はなさそうですね。(太田)

 中華人民共和国の成立以後、毛沢東・<トウ>小平の時代は「親日的」で、江沢民時代から「反日的」に変わったことは衆目の一致するところです。

⇒中共当局は、実は、毛沢東時代から、親日どころか、日本文明総体継受戦略を追求してきたところ、欧米諸国がそれに気付かないように、一貫して日本と距離を置くポーズを取り続けてきた、というだけのことであって、その間、「親日」が前面に出た時期と「反日」が前面に出た時期が繰り返された、というわけです。
 江沢民時代に「反日」が前面に出たのは、1989年の天安門事件後、欧米から厳しい目を向けられた中共が、天皇の訪問を含め日本に助けられたことで、欧米が、中共と日本との関係に疑惑の目を向け始めていたところ、この疑惑を打ち消す必要があったからだ、と私は見るに至っています。(太田)
 
(続く)

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