太田述正コラム#10307(2019.1.11)
<金文学「毛沢東は日本軍と共謀 「阿片」で巨利!」を読む(その2)>(2019.4.2公開)

 昭和36年(1961)に日本社会党訪中団が会見したときに毛沢東が語った言葉はよく知られています。
 「日本の侵略がなかったら、中国人民は覚醒しなかったし、一致団結できなかった。
 この意味で、日本の皇軍はわれわれに良いことをしたから、われわれは日本皇軍に感謝するのだ」・・・
 これは毛沢東の率直な”告白”でした。

⇒これは、日本側に記録があるはずの有名な挿話で、典拠は必要ありますまい。
 なお、「毛沢東の率直な”告白”は、「日本皇軍に感謝する」の箇所だけであることは、改めて指摘するまでもありません。(太田)

 日本軍が南京を陥落させたニュースを延安で聞いて大喜びした毛沢東<は>祝杯をあげ、大酒を飲んだ・・・

⇒これも有名な挿話ですが、典拠を付けて欲しかったですね。(太田)

 在米中国人歴史学者の辛灝年<(注1)>(しんこうねん)は、『新中国は誰のものか』<(注2)>という著書のなかで、毛沢東が親日路線に固執し、日本軍と阿片販売で結託していたという衝撃的な事実を暴いています。・・・

 (注1)1947年~。武漢大卒。作家。
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%9B%E7%81%8F%E5%B9%B4
 (注2)『誰是新中国–中國現代史辨』(美國藍天出版社。1999年)(上掲)

 辛灝年はこの事実を、タス通信特派員として延安に駐在していたコミンテルン代表ピョートル・ウラジミロフの『延安日記』<(注3)>から検証したそうです。

 (注3)サイマル出版会から1975年に、上下からなる邦訳が出版されている。
https://www.amazon.co.jp/%E5%BB%B6%E5%AE%89%E6%97%A5%E8%A8%98%E3%80%88%E4%B8%8A%E3%80%89%E2%80%95%E3%82%BD%E9%80%A3%E8%A8%98%E8%80%85%E3%81%8C%E8%A6%8B%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%9F%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E9%9D%A9%E5%91%BD-1975%E5%B9%B4-%E3%83%94%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%83%9F%E3%83%AD%E3%83%95/dp/B000J9DSR4
 原著は、「中ソ論争が悪化した時期<である>・・・1973年・・・にソ連が刊行したもの」
https://ameblo.jp/nob6568/entry-12381233701.html

 そこには、以下のような記述があります。
 「彼ら(注・中共の軍隊)は積極的に占領区内の日本軍と商売を行っていたのだ。…
 実際、晋西北の各県はいろいろな日本の荷物で溢れていたが、これらの日本製品は、すべて占領区の日本軍倉庫から直接提供されたものである」
 「わたし(注・ウラジミロフ)は偶然に新四軍総本部の電報に目を通した。
 この電報は、中共主導者と日本派遣軍最高司令部の間で長期間連携を保っていた事実を明らかにしていた」
 「中共指導層は数人ほどしかこの秘密を知らず、毛沢東の代理人は、南京の岡村寧次(やすじ)大将総本部隷属の人物だ。
 いつだって彼は日本の反スパイ組織の厳密な保護下で、南京と新四軍総本部の間を思う存分に往来することができる」
 こうした中共指導者と日本人の結託は、大陸で出版された『南京誌史』<(注4)>にも出てきます。・・・

 (注4)不明。

 <また、>70年代に国務院副総理だった陳永貴<(注5)>が、日中戦争のとき「漢奸」・・・だったことを告白したとき、毛沢東はそれを一笑に付してこういったそうです。

 (注5)1915~86年。「山西省昔陽県大寨の人民公社大隊書記を務めていた60年代に・・・農業に全く適しておらず、災害も多発していた大寨の傾斜地を切り開いて棚田に作り変え、食糧生産を7倍に増やしたとの報道が1964年2月10日の人民日報に掲載されると、革命精神で山地を切り開いたとして中央政府の評価を受け、毛沢東が「農業は大寨に学べ」と号令、陳永貴は全国の模範となった。
 ・・・[1969年に]第九回党大会代表、中央委員会委員となる。1973年、第十回党大会では林彪一派が抜けた中央政治局入りを果たす。
 1975年、第四期全人代で国務院副総理、山西省革命委員会副主任(副省長クラス)に就任し全国の調査に出るが、大寨での経験のみに基づいて他地区の農地を批判をするなど臨機応変に乏しかった。<トウ>小平が「実践は真理を検証する唯一の基準である」を提唱すると副総理を辞任し、北京東郊農場の顧問に降格された。実質的に軟禁状態に置かれていたという。
 ・・・最期まで毛沢東を敬愛して止まなかったとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B3%E6%B0%B8%E8%B2%B4
http://japanese.beijingreview.com.cn/jd90/2011-06/14/content_367255.htm ([]内)

 「日本人はわが救命恩人だ。
 命の恩人の手伝いをし、漢奸になったということは、つまりわたしに忠誠を尽くしたということだ」・・・

⇒ここにも、典拠が付されていないのは残念です。(太田)

(続く)