太田述正コラム#10311(2019.1.13)
<學士會報より(その1)>(2019.4.4公開)

1 始めに

 直近の學士會報2冊から、興味深かった論稿をいくつかご紹介しましょう。

2 高梨修「列島南縁における古代・中世の境界領域」(學士會報2018-IV)             
 「・・・<現在、>南西諸島・・・は、鹿児島県側が「薩南諸島」、沖縄県側が「琉球諸島」と呼ばれている。・・・
 薩南諸島の奄美群島は、15世紀中ごろから17世紀初頭にかけて、琉球国の統治下に置かれていた・・・
 『日本書紀』『続日本紀』には、7~8世紀に南西諸島の島嶼社会が、古代国家へ朝貢の使者を派遣していた様子が記録されている。・・・
 宋は、周囲を金・西夏等の強国に囲まれ、戦乱が絶えない環境に置かれていた。
 火薬兵器は、唐の時代に開発され、宋の時代に実用化されていたようである。
 火薬の原料は、木炭・硝石・硫黄である。
 硝石・木炭は入手できるが、宋が位置する周辺には活火山がほとんどないため、硫黄が手に入らない。
 そのため、宋は、硫黄を豊富に産出する地域として、海を隔てた日本に着眼していたのである。
 その日本貿易における硫黄輸出の中心と考えられているのがキカイガシマ・イオウガシマと呼ばれていた硫黄島である。
 さらに日本貿易では、もう一つのキカイガシマである喜界島も重要な役割を果たしていた。
 螺鈿装飾で大量に使用される夜光貝貝殻の輸出である。
 国産螺鈿は、宋でも高い評価を受けていて、日本貿易の主力輸出品に位置付けられていた。・・・
 <この>硫黄交易・夜光貝交易が開始されはじめてまもない1429年、琉球国は誕生するのである。
 二つのキカイガシマにおける日宋貿易の重要交易品が、琉球国の年貢となり、琉明貿易で<も>輸出されていた事実は注目に値する。・・・」

⇒軍需品と奢侈品の支那への輸出を通じて琉球国が形成された、というわけですが、こういったことからも、日本と支那の歴史が切っても切り離せない密接なものがあったことを痛感させられますね。
 なお、高梨修は、奄美市立奄美博物館長です。(太田)

3 田中大喜「(平泉)北方に築かれた武士の都」(學士會報2019-I) 

 「奥州藤原氏の初代清衡・・・が・・・<南下して>平泉に本拠を移したのは、康和年間(1099~1104年)のことと考えられている。・・・
 清衡は、当時、列島規模で教線を拡大させつつあった天台宗延暦寺と連携したため、中尊寺<や毛越寺>の建立にもその関与が想定されている。・・・
 清衡は、前九年合戦(1051~62年)における父経清(つねきよ)の惨殺や、後三年合戦における妻子皆殺しという惨禍を経験してきた。
 こうした経験と、前九年・後三年の二度の戦争に巻き込まれた奥羽の民衆の平和希求とが相俟って、清衡を<こ>のような「仏国土」の建設に駆り立てたのだろう。
 平泉の仏教は、天台法華思想を根幹とする「法華経の平和」を追求したものだったのである。・・・
 <しかし、>源頼朝の侵攻<以降、>・・・平泉は衰退していった。」

⇒奥州藤原氏が、幕末時の南九州の島津氏・・ご存知のように、島津斉彬は、やはり、法華思想を根幹とするところの、日蓮正宗の信徒でした・・に比べて、より縄文性の勝った弥生的縄文人達であったこと、かつまた、島津氏と違って中央に余り足掛かりを持っていなかったこと、そして何よりも、彼らが生きた時代が縄文モード末期で時期的に遅すぎたこと・・別の言い方をすれば、次の縄文モードの到来より時期的に早過ぎたこと・・、が、その悲劇的な最期をもたらした、という見方もできそうです。
 なお、田中大喜は、国立歴史民俗博物館准教授です。(太田)

(続く)