太田述正コラム#10319(2019.1.17)
<丸山眞男『政治の世界 他十篇』を読む(その1)>(2019.4.8公開)

1 始めに

 「大昔にやったことがあるところの、<丸山眞男(1914~96年)>批判を、よりラディカルな形で、そのうち、改めて行いたいと考えています。」(コラム#10025)という約束手形を落とすことにしました。
 主菜として調理するのは表記のアンソロジーですが、その前に、まずは、消化諸器官を活性化する目的で、ちょっとヘビーな前菜を味わっていただきたいと思います。

2 前菜–近代主義者丸山批判

 近代主義とは、次の通りです。↓

 「古典的な君主制や神政政治や封建主義などの権威主義的な思想や体制に対し、啓蒙主義以降の人間の理性中心の思想や体制を指す。
 <ちなみに、>「近代」(モダン)は、ポストモダニズムの立場から、その人間中心、進歩主義、産業中心、画一化などを批判されることがある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%80%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0

 以下、ネット上で見つけたコラム等を引用し、私のコメントを付ける形で進めたいと思いますが、丸山が日本の戦後における近代主義者達の代表的存在であることは、下掲の最初のコラムのタイトルが示唆しています。↓

 「「日本政治思想史研究」<書評:>近代主義者としての丸山眞男・・・
 丸山眞男の所論は、近代に向かう進歩史観に貫かれている。<欧州>の歴史をモデルとして江戸時代にあてはめ、日本と<欧州>の歴史の平行性、しかも、日本が一歩遅れて、不完全であることを明らかにしようとしている・・・

⇒丸山が、アングロサクソン文明と欧州文明の違いに盲目である点はとりあえず措きますが、欧州、就中、ドイツの歴史と日本の歴史に「平行性」があるとか、日本がドイツに比べて、「遅れて、不完全である」とか、彼は、根拠なき、自国卑下的思い込みを垂れ流している、と言わざるをえない。(太田)

第四節 「自然」より「作為」への推移の歴史的意義
・<欧州>の中世から近世への移行において、社会を自然的な有機体から手段としての機械として考えるようになった。

⇒この近世観は、ボルケナウ(下出)の説をヨコ(ドイツ語)からタテ(日本語)にしただけであるところ、そもそも、アングロサクソン文明は最初から、その社会の個人主義性と親和性のあるところの、ゲゼルシャフト性を特徴としており、ドイツ等のプロト欧州文明諸国は、その社会の階級社会性と親和性のあったところの、ゲマインシャフト性を、アングロサクソン文明を継受することで、克服しようと試みてきた、ということをボルケナウは正視していないわけだが、丸山には、ボルケナウ自身を、例えばこういった具合に批判的に理解しようとする姿勢が全く見られない。(太田)

 近代市民社会の形成において、ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへの意識の転換があった。政治的=社会的秩序が自然に存在するとする朱子学的思惟から、主体的人間によって作為されるものとする徂徠学的論理への展開は、<欧州>中世の社会意識の転換過程にほぼ対応している。
・しかし、徂徠学は全面的に近代的=市民的思惟様式にの上に立っているわけではない。
 近代のゲゼルシャフト的思惟様式においては、「社会契約説」のようにすべての個人が主体的に社会秩序を作為すると考えられるが、徂徠学においては社会秩序を作為するのは聖人と君主に限られている。
 <欧州>では、自然秩序思想から作為的秩序思想に転換する際に、絶対君主の時代を経ている。
 自然的秩序思想から転換する過程において、まず、神がすべての自然、社会の秩序を恣意的に創造するという思想が現れ、次に、社会秩序を絶対君主が自由意志で制定する段階に至った。
 徂徠学の聖人による作為、そして、君主による作為という思想と共通している。」
http://yagian.hatenablog.com/entry/20100624/1277384990

(続く)

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