太田述正コラム#10359(2019.2.6)
<丸山眞男『政治の世界 他十篇』を読む(その15)>(2019.4.26公開)

 「しかし近代国家を理念的な純粋な型で捉えてみると、ここでは統治者が特別の権威を飾る道具を一切用いず、もっぱら法の執行者として実質的価値と一応無関係に、法の形式的妥当性の基礎上に政治的支配が行われるのを建て前とする。

⇒いずれ、より詳しく論じる機会があるかもしれませんが、このような立論は、マックス・ヴェーバー(注12)の、伝統的ないしカリスマ的支配から合法的支配へ、という所説
http://www2.rikkyo.ac.jp/web/hikaku/bureaucracy.htm
を踏まえたものであるところ、それは間違っている、というのが私の認識です。

 (注12)「日本においては、<ヴェーバーは、>丸山眞男や大塚久雄や川島武宜をはじめとして、多くの社会科学系の学者に強い影響を与えた。ヴェーバーの日本における受容は、日本が太平洋戦争で敗北したのは「合理主義」が欠けていたためであるという問題意識と、社会科学におけるマルクス主義との対置という文脈、という2つの理由が大きかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC
 私が、川島武宜の東大における民法総則の授業をとった、ということも以前書いたことがある。(コラム#省略)

 ご承知のように、私は、近代国家なるものは、戦争を生業とするところのアングロサクソンに対抗するための軍事力を欧州諸国が整備すべく、アングロサクソンの政治経済体制を曲解ないし模倣した政治経済体制を構築しようとしたことを契機に誕生した、と考えているからです。
 (アングロサクソン社会/国家は、それが最初から近代社会/国家であったことを始めとして、この話の対象外です。)(太田)

 そこでは権力はもっぱら法的権力として現われ、従って初めから内面性に属する領域への侵入は断念している。
 ここでは思想、学問、宗教の自由といういわゆる「私的自治の原理」が承認される。
 何が真理か、何が正義かはこの私的自治の領域に属する諸問題であり、国家権力の決定すべきものでないとされる。
 かくて法とか政治はもっぱら外部的なもののみにかかわり、宗教とか思想はもっぱら内部的なもののみにかかわるというのが近代国家の少くとも本来の建て前なのである。

⇒このくだりにも、私は不同意です。
 戦争が生業ではないところの社会の構成員達を(命のやりとりもするところの)広義の戦争に動員するためには、それに資する何らかの宗教的にして思想的なもの・・イデオロギー・・を彼らに注入する必要があるからです。
 それが、プロト欧州文明時代に英仏百年戦争の過程で15世紀前半の封建時代のフランス・・正しくはフランス王太子シャルル(注13)の支配地・・に生起したところの、ジャンヌ・ダルクに象徴される(初めて私の造語として使用するが)プロト・ナショナリズム
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8C%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%AB%E3%82%AF
なのであり、18世紀後半に、同じくフランス、但し今度は近代国家たるフランス、で、フランス革命後にそれがナショナリズムとなり、爾後、欧州、ひいては世界中で継受されるに至り、20世紀になると、これに、マルクス・レーニン主義とファシズムが加わり、それらが同じく世界中で継受されるにようになって、現在に至っている、というのが私の考えです。(太田)

 (注13)シャルル7世(Charles VII。1403~61年)。「一介の羊飼いであるジャンヌ・ダルクの起用を英断して、危機的状況から勝利により<1453年に>百年戦争を終結させた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%AB7%E4%B8%96_(%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%8E%8B)

 ところがこういう近代国家の建て前は、いわゆる立憲国家の段階においては妥当するが19世紀中葉以後マッス・デモクラシーが登場してくると、再び変貌しはじめた。
 「大衆」というものがあらゆる領域において登場してきた。
 18世紀において、エドマンド・バークによって豚のごとき多数と言われた大衆が、豚のごとき存在ではなく、きわめて有力な発言権をもって現われてきた。・・・
 こうして、近代国家によって一旦分離された、外面と内面・公的なものと私的なもの・法的=政治的なものと文化的なものとが再び区別ができなくなってくる。
 政治権力が、ラジオとか映画というような、非常に高度な近代的技術を駆使して、自分のイデオロギーを朝となく晩となく人民に注ぎ込む。・・・
 これは決していわゆる全体主義国家だけの現象ではない。
 デモクラシー国家でも日々そうなって行く。」(55~58)

⇒「全体主義国家」に係る前段はマルクス・レーニン主義とファシズムの属性であり、「デモクラシー国家」に係る後段はナショナリズムの、マルクス・レーニン主義やファシズムに対抗するための新属性である、と私は見ています。
 なお、20世紀においても、アングロサクソンは変りませんでしたし、日本はナショナリズム継受を試みたけれどそれを放棄し、日支戦争/大東亜戦争では、縄文的(人間主義的)弥生人達が主導する形で人間主義を掲げて戦ったところです。(太田)

(続く)