太田述正コラム#10377(2019.2.15)
<杉山元と日本型政治経済体制(その5)>(2019.5.5公開)

3 杉山元と日本型政治体制

 表記については、前にも(コラム#10042で)少し触れたことがありますが、木戸幸一に焦点を当てる形で再度取り上げておきます。
 木戸が「1930年<に>・・・近衛文麿の抜擢により、商工省を辞し、内大臣府秘書官長に就任」した(前出)ところ、木戸に言い含めた上で近衛にそう仕向けさせたのは、恐らく杉山でしょう。
 当時軍務局長だった杉山は、翌年、満州事変を起こす予定で、杉山構想実現の第一歩をその成否にかけており、宮中に自分の腹心を送り込んで、情報を得るとともに構想への妨害を除去する工作を行う態勢を構築する必要があったはずだからです。
 そして、満州事変を皮切りに、1936年の二・二六事件の時にも、木戸は期待以上の働きをしてくれ(前出)、杉山は目出度く昭和天皇のお気に入りリストに加えられるのです(コラム#省略)。
 その木戸を、今度は、「1937年・・・の第1次近衛内閣で文部大臣・初代厚生大臣(1938年1月11日就任)、・・・1939年・・・の平沼内閣で内務大臣を歴任」させたのも杉山でしょう。
 その狙いは、木戸に議員連中との面識を深めさせた上で、日本型政治体制作りを行わせるためだったはずです。
 1940年5月26日に「新党樹立に関する覚書」作成を果たした木戸を、やはり杉山でしょう、今度は、6月1日に内大臣として、再び宮中に戻します。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E5%A4%A7%E8%87%A3%E5%BA%9C 
 ここで、日本型政治体制構築までのあらあらの事実関係を、近衛のウィキペディアでもって振り返っておきましょう。↓

 「近衞<は、>・・・1939年(昭和14年)1月5日に内閣総辞職する。 ・・・
 <下野した>近衞は新党構想の肉付けに専念した。1940年(昭和15年)3月25日には聖戦貫徹議員連盟が結成され、5月26日には近衞が木戸幸一や有馬頼寧<(注7)>と共に、「新党樹立に関する覚書」を作成した。

 (注7)1884~1957年。「旧筑後国久留米藩主有馬家当主で伯爵有馬頼万の長男として東京に生まれる。・・・旧制学習院高等科<卒、>・・・東京帝国大学農科(現農学部)・・・卒業・・・1年2か月欧州を外遊する。帰国後、農商務省に入省して農政に携わり、東京帝国大学農科講師、助教授となり母校で教鞭をとった。」その後、衆議院議員、貴族金議員。・・・1937年に第1次近衛内閣の農林大臣となった。<その後、>・・・大政翼賛会の設立に関わり、1940年に翼賛会初代事務局長に就任するが、翌年の翼賛会の改組により辞任、これを機に公職を退いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E9%A6%AC%E9%A0%BC%E5%AF%A7

⇒「風見章<(注8)が、>・・・1940年5月、近衛を党首とする新党の結成を目指す新体制運動を有馬頼寧らと共に開始。近衛文麿、木戸幸一、有馬頼寧の3名が5月26日付で「新党樹立に関する覚書」を作成した際には、既成政党を全て抹消するよう進言している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E8%A6%8B%E7%AB%A0
と、ここでも木戸が登場させられていますが、どちらにも直接の典拠が付されておらず、他方で、「<1938>年九月七日・・・近衛が新党党首として乗り出すという話を松井から聞いた木戸は、この夜近衛に事実をただしている。・・・木戸はこれにつよく反対した」
http://www.c20.jp/text/it_konoe.html
ともあり、こちらの方は典拠が「木戸幸一日記」で、典拠そのものに信頼性がないところ、そんな木戸が「「新党樹立に関する覚書」を作成した」ことに疑問は残りつつも、取敢えずは、私は、木戸関与説を採用しておきたいと思っています。(太田)

 (注8)1886~1961年。茨城県の農家の子。早大政経卒。新聞記者を経て衆院議員。1937年6月の第一次近衛内閣の内閣書記官長。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E8%A6%8B%E7%AB%A0 前掲

 <そして、>6月24日に「新体制声明」を発表している。これに応じて、7月に日本革新党・社会大衆党・政友会久原派、ついで政友会鳩山派・民政党永井派、8月に民政党が解散する。
 <その後、>陸軍は政府に日独伊三国同盟の締結を執拗に要求。米内<首相>がこれを拒否すると、陸軍は陸軍大臣の畑俊六を辞任させて後任を出さず、内閣は総辞職した。・・・
 <近衛は、>1940年(昭和15年)7月22日に、第2次近衛内閣を組織<すると>・・・新体制運動を展開し、全政党を自主的に解散させ、8月15日の民政党の解散をもって、日本に政党が存在しなくな・・・<っ>た。
 しかし、一党独裁は日本の国体に相容れないとする「幕府批判論」もあって、会は政治運動の中核体という曖昧な地位に留まり、独裁政党の結成には至らず、10月12日に大政翼賛会の発足式で「綱領も宣言も不要」と新体制運動を投げ出した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E6%96%87%E9%BA%BF

 近衛の下野時代、すなわち、第一次近衛内閣の終わりから第二次近衛内閣の始まりまでの時期、は、杉山の中央にいなかった時期・・陸相を辞めた時(1938年6月)から参謀総長に就任した時(1940年10月)・・と、オーバーラップしています。
 杉山が「姿を消した」目的の一つは、近衛が、近衛自身のイニシアティヴで日本型政治体制を構築した、という印象を世間に与えるところにもあった、と私は見ています。
 もとより、より根本的な目的は、対米英開戦という大仕事が控えていたことから、杉山が、軍人における中央勤務と部隊勤務の繰り返しというルーティンを無視して中央にとどまり続けることで、あらゆる国策の黒幕が杉山である、との(正しい!)印象が形成されるのを警戒してのことだったでしょうが・・。
 なお、杉山には、北支那派遣軍司令官として、支那の現地で、毛沢東の中国共産党と杉山構想実現に係る最終的擦り合わせを行う目的もあった、と、私はかねてから指摘している(コラム#省略)ところです。
 ところで、杉山の(参謀総長としての)中央復帰(1940年10月3日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%82%E8%AC%80%E6%9C%AC%E9%83%A8_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
は、近衛の首相復帰(7月22日)より若干遅れるところ、これは、杉山が、近衛が日本型政治体制の考え方の確立と宣明までやり遂げるのを、木戸を通じて督促しつつ見守っていた、ということではないでしょうか。
 1942年6月に完成された日本型政治体制(注9)は、江戸時代のプロト日本型政治経済体制の産業社会にふさわしい形でリニューアルしたところの、日本型政治経済体制の一環だったのですから、改めて振り返ってみれば、大政翼賛会を「綱領も宣言も不要」なものに落ち着かせることは、最初から、杉山の狙いであって、そう彼が陰から誘導した、ということだった、と私は見ています。

 (注9)その一環として、「隣組,部落会,町内会,大日本産業報国会などの組織<も>つくり上げ<られた>」
https://kotobank.jp/word/%E6%96%B0%E4%BD%93%E5%88%B6%E9%81%8B%E5%8B%95-82190
ところ、大政翼賛会は、1942年6月、これらのほか、「農業報国連盟、商業報国会、日本海運報国団、大日本青少年団、大日本婦人会・・・を傘下に収め<た。>」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%94%BF%E7%BF%BC%E8%B3%9B%E4%BC%9A-91487#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2
 「町内会・・・の基本的性格としては、(1)組織の担い手が「個人」ではなく「世帯」(世帯主)であること、(2)町内の大多数の世帯(たてまえとしては全世帯)を網羅していること、(3)町内の住民相互の親睦、葬祭、相互援助などのプライベートな面と、行政サービスの補完・補助ないし調整などのパブリックな面との複合的機能を果たしていることなどがあげられる。」
https://kotobank.jp/word/%E7%94%BA%E5%86%85%E4%BC%9A-98123#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2
 「隣組<は、>・・・町内会、部落会の下に属し、・・・<江戸時代の>五人組,十人組などの制度を継承し・・・互助・自警・配給などにあたった。・・・
 町内会―隣組のシステムは、第二次世界大戦後においても・・・依然として機能し続けている。」
https://kotobank.jp/word/%E9%9A%A3%E7%B5%84-105507#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2
 「大日本産業報国会<は、>・・・労働者を戦争協力に動員することを目的として設けられた産業報国会の中央組織<であり、>・・・単位産業報国会は、職員層をも含む全従業員組織として事業所単位に組織され、会長には社長が就任し、各役員にはおおむね職制が任命された。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%94%A3%E6%A5%AD%E5%A0%B1%E5%9B%BD%E4%BC%9A-91826#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2
 私見では、「企業別労働組合<なるものは、>・・・企業ごとに常勤の従業員だけを組合員として組織する労働組合<であって、>横断的な組合である職業別組合が多い諸外国と大きく違う」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%81%E6%A5%AD%E5%88%A5%E5%8A%B4%E5%83%8D%E7%B5%84%E5%90%88
ところ、単位産業報国会の戦後版なのだ。

(続く)