太田述正コラム#10379(2019.2.16)
<杉山元と日本型政治経済体制(その6)>(2019.5.6公開)

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[国策研究会と昭和研究会]

〇始めに

 大政翼賛会設立に繋がったところの、近衛文麿を支えたグループ群に、国策研究会と昭和研究会があるが、それぞれについて、最小限度の紹介をしておきたい。
 なお、先回りするようだが、「大政翼賛会の総裁には近衛文麿、事務総長兼総務局長に有馬頼寧<(前出)>、組織局長に後藤隆之介<(後出)>、企画局長に小畑忠良、常任総務に東方会の中野正剛・後藤文夫、常任顧問に風見章<(前出)>、安井英二、東條英機、永井柳太郎らが就任<した>」
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/vision/history001/showa005.html
ところ、陸軍から、東條のほか、例えば、小林順一郎(1880~1963年)のような陸軍OB人物が総務に就いている。↓

 小林は、「旧長岡藩士・・・の長男として生まれる。・・・陸軍中央幼年学校を経て、1901年、陸軍士官学校卒業(13期)。・・・陸軍大臣・山梨半造と対立<し、>1924年、砲兵大佐に任官された直後に待命、予備役となる。・・・
 荒木貞夫・真崎甚三郎らと親しく、・・・1935年、美濃部達吉の天皇機関説が問題視されるようになると、・・・天皇機関説排撃の急先鋒となった。
 1940年に近衛文麿の新体制運動に加わり、大政翼賛会が発足すると、総務に就任する。また、大日本産業報国会副団長・審議員も務めた。・・・
 A級戦犯として逮捕され・・・たが・・・釈放。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9E%97%E9%A0%86%E4%B8%80%E9%83%8E

〇国策研究会

 下掲から、国策研究会は、矢次一夫をフロントにしているところの、帝国陸軍丸抱えに近いグループであったと言ってよかろう。
 柳川も山下も、後に、それぞれ、支那とシンガポールで漢人虐殺事件を引き起こすこととなる、できそこないの、ではあるが、島津斉彬コンセンサス信奉者達であって(コラム#10042)、杉山構想賛同者達であった、と見て良いからだ。↓

 「矢次一夫<(注10)は、>・・・昭和八年<(1933年)に、>・・・夏に陸軍省<柳川平助次官、山下奉文軍事課長の下で軍事課員であった
http://www.geocities.jp/since7903/gunbu/rikugun-zikan.htm
https://sakurataro.org/%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E8%AA%B2
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E7%B4%94%E4%B9%85 >
池田純久から・・・はたらきかけがあったらしく、新しい活動<を>はじめ・・・た。一つは国策研究機関であり、一つは『中央公論』に対抗する「復古-革新」的総合雑誌発刊計画であった。後者は成功しなかった<。>」(伊藤隆 「近衛新体制」p36)
http://www.c20.jp/text/it_konoe.html

 (注10)1899~1983年。無学歴。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2%E6%AC%A1%E4%B8%80%E5%A4%AB

 「<しかし、前者については、1933>年10月に、官僚、学者、社会運動家、政治家などを集めて国策研究同志会を組織。1936年・・・の二・二六事件の後に一時解散するが、1937年・・・に再組織。1938年・・・に国策研究会に改称。」(上掲)
 「以降、多数の調査研究報告書等を作成し「民間企画院」とも評された。特に、第1次近衛内閣(1937年~1939年)から小磯内閣(1944年~1945年)に至る各内閣には、国策研究会の関係者多数が入閣をしていた。1942年には、高橋亀吉が常任理事調査局長となり、大東亜共栄圏の具体的構想に取り組んだ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E7%AD%96%E7%A0%94%E7%A9%B6%E4%BC%9A

〇昭和研究会

 昭和研究会も、後藤隆之助をフロントにしているけれど、島津斉彬コンセンサス信奉者で、恐らくは杉山構想賛同者たる陸軍OB丸抱え、ひいては、陸軍丸抱え、に近いグループであったと言えそうだ。

 志賀直方(1879~1937年)は、「志賀直哉の祖父志賀直道の兄・志賀直員(正斎)の娘夫婦の子として生まれる。幼いときに両親が病死したため、直道の養子となる。<そのため、>直哉の4歳上の又従妹になるが戸籍上は叔父となる。・・・直哉の学習院入学と同時に直方も学習院に編入。中等科6年の時、家に忘れた靴を取りに帰ろうとして門衛を突き飛ばし、退院処分となるが、院長の近衛篤麿の配慮で1年後に復学。この恩義からのちに篤麿の息子近衛文麿の後見役として尽力する。 ・・・
 [陸軍士官学校卒業(13期)。・・・]
 日露戦争に従軍し、奉天会戦で右目を失明し退役。荒木貞夫陸軍大将と親しく、その他にも真崎甚三郎、小畑敏四郎、柳川平助ら・・・と密接な関係となる。
 鎌倉の建長寺に参禅し、それが縁で後藤隆之助と知り合い、親交を深め後援者となる。・・・<そして、>後藤隆之助の後援者として昭和研究会の設立に協力<した>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E8%B3%80%E7%9B%B4%E6%96%B9
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9E%97%E9%A0%86%E4%B8%80%E9%83%8E ((前掲)[]内)
 
 後藤隆之助(1888~1984年)(コラム#10042)は、「近衛文麿とは<一高>時代に同級生だったが、その頃は疎遠だった。交友が始まったのは京都帝国大学に入学してからである。・・・玄洋社の杉山茂丸に親炙し、志賀直方に兄事した。・・・
 志賀直方の支持を得て、青山にある彼の邸宅の隣に後藤隆之助事務所を設立。・・・1936年に・・・「(1)現行憲法の範囲内で国内改革をする、(2)既成政党を排撃する、(3)ファシズムに反対する」の3点を根本方針とし、昭和研究会設立趣意書を発表した。蝋山政道、高橋亀吉、笠信太郎、尾崎秀実、三木清らをはじめ、官界・学界・言論界から人材が結集し、政治・経済・外交・文化等各方面について国策研究を進めていった。
 近衛文麿のブレーンとして、第1次近衛内閣発足の際は組閣参謀を務めた。・・・
 日中戦争が長期化すると、昭和研究会は軍部の影響力に掣肘を加えるために<?(太田)>国民的政治力の結集を重視・提唱し、これが近衛が提唱する新党・新体制運動の源流となった。・・・
 大政翼賛会設立とともに組織局長に就任するが、観念右翼<から>アカ攻撃を受け、1941年に辞任する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E9%9A%86%E4%B9%8B%E5%8A%A9
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4 終わりに

 先の大戦の後の世界の基本構造を決定したのは、杉山らによるところの、杉山構想とその完遂であった、と認識するに至っていた私ではあるけれど、先の大戦の後の日本に至っては、その政治経済体制を含む、ありとあらゆるものが、杉山構想の産物であることを自覚させられるに至った今、もはや、呆然とするほかはなく、気の利いた感想などにわかには思い浮かびません。
 とまれ、木戸幸一が、この構想中の日本型政治経済体制構築に関する杉山の最大にして必要不可欠な協力者であったこと、そして、なによりも、杉山構想完遂までの間、昭和天皇と杉山との信頼関係が構築され、維持されることを可能にしたところの、鍵となる高級スパイであったこと、を、我々は、忘れないようにしたいものです。
 なお、これは、杉山と木戸らが、昭和天皇を騙し、その目を塞いでやり遂げたことというよりは、むしろ、天皇の促したところの、弥生モードから縄文モードへの回帰を、天皇自身の想像を絶する形でやり遂げた、と見るべきでしょうね。
 私は、天皇は、杉山の自死や東條と木戸の極東裁判での天皇免責証言を見届けた頃までには、そのことを十二分に自覚されるに至ったに違いない、と思っています。
 「1969年・・・<、木戸の>傘寿の際に・・・昭和天皇<が、彼に>賜杖<(注11)>を下賜されている」(※)のは、そういうことでしょう。

 (注11)支那では皇帝が最愛の老臣に賜杖することがあった
https://baike.baidu.com/item/%E8%B5%90%E6%9D%96
が、日本の天皇に関しては、ちょっと調べた限りでは、後水尾天皇による、医師・儒学者の江村専斎(1565~1664年)が(数えで)100歳になった時の賜杖
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%9D%91%E5%B0%82%E6%96%8E
くらいしか前例がなさそうだ。 

(完)