太田述正コラム#10491(2019.4.13)
<ディビット・バーガミニ『天皇の陰謀』を読む(その31)>(2019.7.1公開)

 紹介すべき部分はありませんでした。↓
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_70_28_4.html
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_70_28_5.html

  第二十九章 本土陥落 (1944-1945)

 紹介すべき部分はありませんでした。↓
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_70_29_1.html
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_70_29_2.html

  エピローグ 新たな衣服

 ・・・日本が降伏する前、連合国軍部隊は、捕虜にした数千人のほとんど何の問題も危険もない日本軍兵士を殺した。反撃に入ったいくつかの断絶した地域では、降伏の後でさえも殺戮は止まなかった。そうした殺戮の最も大規模なもののひとつは、英領北ボルネオのオーストラリア人司令官の指揮下で実行された。そこで、降伏した6,000名の日本兵は、ペンシアンガンで武器を放棄し、収容所のあるビューフォートまで150マイル 〔240㎞〕 を行進するよう命じられた。その前年、この日本軍部隊は、ボルネオ沿岸地帯で米軍潜水艦と連絡を取り合っていると疑われる原住民村落を一掃していた。そこに、復讐心にかられたそれらの村落民の生き残りが丸腰の日本兵の隊列へと放たれ、彼らが行う首狩りが放置された。数百人を残す6千名の全員が殺された。それを傍観していたオーストラリア人の幾人かが、この犯罪行為に関わっていたことを恥じ、それは死の行進であったと、後になって暴露した。<(注45)>

 (注45)バーガミニは、この箇所を、K. G. Toregonning, A History of Modern Saba (North Borneo, 1881-1963), 2d ed. (Singapore: University of Malayan Press, 1965), 217-221.に拠っている。
 しかし、ボルネオの戦いの邦語ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%82%AA%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
には、1945年8月15日以降の記述はなく、ネット上の邦語サイトでは、(終戦後にも続いた可能性があるところの、)以下の記述を見出したのみだ。↓
 「1945年、・・・人里離れたボルネオ島のジャングルで・・・取り残されたアメリカ空軍の兵士たちに、現地のダヤク族、そしてイギリス陸軍で最も変わった人物の1人、トム・ハリソン少佐だ。ハリソン少佐は軍事行動の中で、ダヤク族の古い慣習である首狩り行為を、日本人に対して復活させる。」
https://natgeotv.jp/tv/lineup/prgmtop/index/prgm_cd/473
 ちなみに、同じ北ボルネオで、1945年に、サンダカンから260kmは慣れたラナウまで、行進させ、虐待し、1000人以上の捕虜が7人を除き全員死亡したとされるころの、いわゆる、サンダカン死の行進事件・・但し、「日本兵もまたこの移動により数百名が死亡している上に、生き残ったオーストラリア軍の元捕虜は、「行軍はきわめて辛かったが、捕虜への扱いは日本軍将兵と同一であった」と証言している」・・が起こっている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%80%E3%82%AB%E3%83%B3%E6%AD%BB%E3%81%AE%E8%A1%8C%E9%80%B2

 降伏した戦場において、連合国軍部隊がかかわった残虐は、その半分は戦意の激化による産物とも言えた。だがもっと言語道断の違法行為は、その後の、思慮深い人たちが充分に考慮しえたはずの法廷において発生した。日本の政治への無知と理解の不足により、マッカーサーの戦犯検事たちは、辻、三笠親王、天皇裕仁といった指導者たちを用意周到に見逃す一方、倫理に背くとは知りつつも命令には逆らえなかった軍の将校たちを執拗に告発し、罪をきせ、絞首刑に処した。
 戦争が終わると直ちに、日本の捕虜政策の管理執行に携さわされた大勢の気の毒な精神病者や梅毒による狂乱者は、連合国軍憲兵によって訴追され、日本軍による元連合国軍捕虜によって確認され、手荒で簡略な裁判にかけられた。あるものは、尋問の最中に殴打され、あるものは面通しだけで特定されたり、 同じ名前の別人の罪によって告発された。 また別のものは、一時間にも満たない審問の後、即決で死刑が言い渡された。だがそれでも、自白だけで獄中で殺されたり、裁判なしに処刑されたりするものはなかった。・・・ 
 すべて合わせて、およそ5,000名の日本人が、国家や個人の残虐行為――アジア人と西洋人の約50万人の命が奪われた――への計算された報復のために逮捕された。こうした逮捕者のほとんどは、その全犠牲者の十分の一に満たない西洋諸国人に対する犯罪への加担者だった。容疑者のうちの4,000名は、米国、英国、オーストラリアそして中国での軍事法廷――グアムからラングーン、チモールから東京へと各地に散在――にかけられた。その4,000名のうちのほぼ800名は無罪放免され、およそ2,400名が三年以上の投獄、そして809名が死刑に処された。さらに、満州で捕えられた数千の日本人は、シベリアの強制労働収容所で死亡した。
 連合国側の日本人戦犯の扱いには、ある程度の非人間的扱いはあったものの、日本の新聞が述べるほどに甚だしいものではなかった。何が日本のそうした非難や愚弄をもたらしたのかと言えば、それは、西洋諸国がいわゆる重要戦犯の当初の扱いで示した不作法であった。
 最初の 「重要戦犯」 法廷は、1945年末から46年初めにかけて、マニラで開かれた。それは、山下大将<と>・・・本間<雅晴>大将<に対するものだった。>・・・
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_80_1_epilogue.htm

⇒このくだりの記述に関して(だけ)は、「公正」である、と、バーガミニを褒めておきましょう。(太田)

 紹介すべき部分はありませんでした。↓
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_80_2_epilogue.html

(続く)