太田述正コラム#10514(2019.4.24)
<映画評論57:この世界の片隅に(その1)>(2019.7.13公開)

1 始めに

 Amazon Primeで『ウィンストン・チャーチル』に引き続き、昨日は表記を鑑賞しました。

α:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%93%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E7%89%87%E9%9A%85%E3%81%AB
β:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%93%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E7%89%87%E9%9A%85%E3%81%AB_(%E6%98%A0%E7%94%BB)

 実は、私、邦画は昔から苦手であって、苦手な理由は様々あるのですが、一、筋が日常的で淡々としていて感情移入、没頭、がしにくいものが多い、二、そうではないものは、黒沢映画の多くがそうであるように、役者の演技がわざとらしくて鼻につくものが多い、三、二の問題点はアニメなら基本的に解消はするけれど、例えば、宮崎駿監督のアニメの多くがそうであるように筋が訳が分からないものが多い、といったところでしょうか。
 この映画は面白かったですね。
 理由の第一は、マンガ家のこうの史代が、この映画の原作を「そこ(戦時中)にだって幾つも転がっていた筈の『誰か』の『生』の悲しみやきらめきを知ろうとし」(α)て書いたことであり、その結果、この原作がアニメ化されることによって、非日常的な背景の下で日常を描写しているので、一、二、三、の問題を全て同時に超克できたからです。
 理由の第二は、アニメ化されたものが、原作を深刻な一点で修正したからです。
 こちらの方の話を、以下、説明します。

2 先の大戦についての総括

 (1)プロローグ

 御多分に漏れず、私も手塚治虫の『鉄腕アトム』(アニメではなくマンガ)世代である旨は何度も申し上げてきたところですが、幼少時から不満だったのは、ストーリーの中に先の大戦の話が登場しないことでした。
 私も、アトムの全作品を読んでいるわけではなく、況や、手塚の全作品中、ほんのわずかしか読んだことはありませんが、どこかで手塚が先の大戦の話を取り上げているかもしれないので、ご存知の方は教えて欲しいものです。
 (手塚は、「ただ一つ、これだけは断じて殺されても翻せない主義がある。それは戦争はご免だということだ。だから反戦テーマだけは描き続けたい。」と語ってい」る
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%8B%E5%A1%9A%E6%B2%BB%E8%99%AB
けれど、そのような手塚が「描」いた作品、というか、端的に先の大戦について描いた作品、に、私は、まだ遭遇していませんので・・。)
 手塚を持ち出したのは、マンガやアニメなら、通常の小説よりも更にフィクション度が高い印象を鑑賞者に与えることから、日米(及び英)合作の先の歪んだ大戦観、を、よりまともな大戦観で置き換えるきっかけを与えるとしたら、それはマンガやアニメではないか、と、かねてから私は考えてきたからです。
 何せ、「日米(及び英)合作の先の大戦観」の日本側の「制作協力者」達は、戦前の官僚上がりの政治家達であったところ、当時は、日本の官僚達も政治家達も脳死とは程遠い状態でこそあったけれど、彼らの中からまともな先の大戦観が提起されることは既に期待薄になっていたところへもってきて、当時の日本の学者達(政治学者達や現代史学者達、等)に至っては、今、並行してシリーズで取り上げている丸山眞男や三谷太一郎に象徴されるように、既に脳死状態に陥っていた有様なので、彼らや彼らの後継者達の中からまともな先の大戦観が提起されることは一層期待できないまま、推移してきているのですからね。
 また、先の大戦観などといった代物を取り上げることがあるとすれば、小説家なら芥川賞系でしょうし、映画監督だって識者を自認し、学界の動向に棹差している人ばかりなのでしょうから、彼らに期待することも野暮というものですからね。
 そんな背景の下、私の期待に、小さな一歩ながら、ついに応えてくれた最初の著名アニメ監督が宮崎駿だったのです。
 彼の2013年の作品である『風立ちぬ』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E7%AB%8B%E3%81%A1%E3%81%AC_(2013%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%98%A0%E7%94%BB)
がそれです。

(続く)