太田述正コラム#10516(2019.4.25)
<映画評論57:この世界の片隅に(その2)>(2019.7.14公開)

 宮崎(1941年~)は、そのキャリアの実質的な完結を原点回帰することで果たした、と私は見ています。↓

 「数千人の従業員を擁した一族が経営する「宮崎航空興学」の役員を務める一家の4人兄弟の二男として、東京市で生まれる。・・・学習院大学を卒業・・・
 2013年に、自身の『風立ちぬ (宮崎駿の漫画)』を原作とした、アニメーション映画『風立ちぬ』を公開。同年9月1日、宮崎が長編映画の製作から引退すること・・・が発表<された>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E9%A7%BF

 もっとも、その間も、彼は、戦史・兵器マニアであり続けました。↓

 「戦史・兵器マニアとして知られ、第二次世界大戦から前の甲冑・鎧兜や兵器(装甲戦闘車両、軍用機など)に造詣が深い。作中で登場する武器や乗り物にはその知識が十全に活かされている。この方面の趣味が発揮されている作品としてはアートボックス社『月刊モデルグラフィックス』誌の『宮崎駿の雑想ノート』という虚実織り交ぜた架空戦記物の超不定期連載漫画がある。連載初期は珍兵器を描いた数ページの絵物語だったが、次第にコマが割られてストーリー漫画に変貌していった。漫画の形態に変わった後の特徴として、作中に登場する女性は普通の人間だが、男性は欧米を舞台とした作品の場合は擬人化された動物になっている。2009年から2010年にかけて『モデルグラフィックス』誌に零式艦上戦闘機の開発者である堀越二郎の若き日をフィクションも入れて描く『風立ちぬ』を連載し、前記の通りこれをベースとしてアニメ映画が制作された(2015年に単行本化)。また、一式戦闘機「隼」の活躍と陸軍エース・パイロットの戦果を記録した、戦史家梅本弘(市村弘)の著作『第二次大戦の隼のエース』の刊行に際して、アートボックス編集部に対し本書を読んだうえで賞賛・激励の文書を送っている。ジブリ内の会議中でも、暇さえあれば今でも戦車の落書きを描いているという。また『天空の城ラピュタ』や『崖の上のポニョ』の劇中、モールス符号での通信シーンが登場するが、あの符号は全て実在し、言葉としてきちんと成り立っている。」(上掲)

 話を戻します。
 実は、私、まだ『風立ちぬ』を鑑賞していない・・この映画のタイトルが採られた、堀辰雄の小説『風立ちぬ』は読んでいますが・・のですが、その制作事情は以下の通りです。↓

 「映画『崖の上のポニョ』の製作を終え一段落したことから、宮崎駿は『モデルグラフィックス』に漫画<(上出)>を連載することとなった。宮崎は「この漫画はいわば趣味として描いていたもの」と語るなど、漫画版を連載し始めた当初は、本作を映画化することは全く考えていなかった。

⇒ここは、韜晦だろう。(太田)

 その後、鈴木敏夫が映画化を提案したが、宮崎は本作の内容が子供向けでないことを理由に反対していた。宮崎は「アニメーション映画は子どものためにつくるもの。大人のための映画はつくっちゃいけない」と主張していたが、鈴木は戦闘機や戦艦を好む一方で戦争反対を主張する宮崎の矛盾を指摘し「矛盾に対する自分の答えを、宮崎駿はそろそろ出すべき」と述べて映画化を促した。

⇒「戦争反対」が宮崎の本心ではありえないこと、実は宮崎がマンガ『風立ちぬ』のアニメ映画化を目論んでいたこと、を、鈴木は全てお見遠しだった、ということだろう。(太田)

 映画版の企画書の中で、宮崎は製作意図について「この映画は戦争を糾弾しようというものではない。ゼロ戦の優秀さで日本の若者を鼓舞しようというものでもない。本当は民間機を作りたかったなどとかばう心算もない。自分の夢に忠実にまっすぐ進んだ人物を描きたいのである」と述べている。・・・

⇒このテーマで、自分のやれること、換言すれば自分の使命、はここまで、と、宮崎は、ギリギリのラインを自ら設定したわけだ。(太田)

 宮崎が監督した作品で、実在の人物を主人公とするのは初めてである。また、主人公のモチーフには、宮崎の父の人生も反映されている。宮崎の父は、幼いころに関東大震災に遭い、その後零式艦上戦闘機や月光の風防などを製造する会社の経営に携わり、のちに前妻を結核で亡くしている。これらをモチーフとすることで、本作の主人公像が作られていった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E7%AB%8B%E3%81%A1%E3%81%AC_(2013%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%98%A0%E7%94%BB)

 要するに、宮崎は、自分の出発点・・それは、とりもなおさず、現在の日本を形成した基盤でもある・・へのオマージュを発表することで、先の大戦観に対する「左」からの見直しに向けて、風穴を開けたのです。
 東大仏文卒の「選挙では一貫して日本共産党を支持してい<た>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%95%91%E5%8B%B2
ところの、筋金入りの「左」であった高畑勲(1935~2018年)と、彼と長年行動を共にしてきた、宮崎との関係は、二人を熟知する人物によれば、「高畑・・・がいなければ、宮崎駿という“映画監督”は生まれ<なかっ>た!・・・宮崎・・・も、・・・高畑・・・について・・・乗り越えるのか、どうやったら高畑・・・を黙らせられるのか、それを絶えず考えていた結果が、宮崎アニメだ・・・高畑・・・がいなければ、宮崎・・・はアカデミー賞を取れなかった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E9%A7%BF 前掲
というものだったことを想起してください。
 むしろ、そんな高畑の存命中に『風立ちぬ』を制作した宮崎の決意に我々は注目すべきでしょう。

(続く)