太田述正コラム#10518(2019.4.26)
<映画評論57:この世界の片隅に(その3)/映画評論58:奇跡がくれた数式>(2019.7.15公開)

 さて、映画『この世界の片隅に』の脚本・監督の片渕須直(かたぶちすなお。1960年~)は、日大芸術学部映画学科映像コースの学生であった時以来、宮崎駿とは濃密な関係があり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%87%E6%B8%95%E9%A0%88%E7%9B%B4
宮崎の背中を見ながらアニメ映画制作に携わってきたと言っても過言ではない人物です。
 その宮崎が、2013年に『風立ちぬ』を世に問うたことが、片渕による、下掲のような、原作の大きな変更の背中を押したのでしょう。↓

 「日本の敗戦を伝える玉音放送を聞いたすずが激昂して家を飛び出した後、掲げられた太極旗を見て泣き崩れる場面の台詞が変更されている。原作・・・では、すずは自分たちの信じていた正義が失われたと感じ、他国を暴力で従えていたからこの国は暴力に屈するのかと独白するが、映画では、自分は海の向こうから来た米や大豆で出来ているから暴力に屈しないといけないのかと独白する。これについて片渕は、当時の日本の食料自給率が高くなく、海外から輸入される穀物に頼らざるを得なかった状況があり、原作と同じようなことを語るのに、ずっと炊事をやってきた生活人のすずが食料に絡めて反応をしたほうが彼女らしくていいと思ったと述べている。」(β)

 もちろん、片渕が述べている、この変更理由が彼の本心ではないことは明白です。
 原作における理由付けとは違って、この理由付けは不条理そのものであり、「原作と同じようなことを語」ってなど全くいないからです。
 というか、映画は、原作の登場人物達を若干簡略化した形であるけれどほぼ全員登場させていますが、原作において、従ってまた映画おいても、この登場人物達は、ことごとく、真摯に、かつ、全力で、先の大戦の遂行に取り組んでいる姿で描かれており、まさに、『風立ちぬ』の堀越二郎の庶民バージョン達ここにあり、といった感じである以上、原作におけるこの場面でのすずの独白はいかにも唐突であり、変更後の独白の方が自然でしょう。
 これは、自分達が、正戦であると信じきって戦ってきたのにひどい被害を受けた上敗北したこと、いや、私に言わせれば敗北したとされたこと、の不条理性の指摘なのであり、事実上、この不条理性への怒りの表明、になっています。
 つまり、2013年に、宮崎が、「真摯に、かつ、全力で、先の大戦に取り組んでいる」日本人インテリの「姿<を>描<いた>」ことを受け、片渕は、日本人庶民達の同様の姿を描いた上で、宮崎が果たせなかったところの、敗北したことの不条理性の指摘、つまりは事実上、この不条理性への怒りの表明、を行った、と、私は受け止めているのです。
 かかる怒りの表明に対して、杉山らが答えたであろうことを、私は、代わって、太田コラム上で答えたつもりでいるわけですが、そこまで踏み込んだアニメ映画が、私の存命中に制作されることを、私は、願って止みません。
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           –映画評論58:奇跡がくれた数式–

1 始めに

 Amazon Primeの映画群の中から、一昨日は、表記の映画(英国。2016年)・・原題:The Man Who Knew Infinity・・を鑑賞しました。

a:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%87%E8%B9%9F%E3%81%8C%E3%81%8F%E3%82%8C%E3%81%9F%E6%95%B0%E5%BC%8F
b:https://en.wikipedia.org/wiki/The_Man_Who_Knew_Infinity_(film)
c:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%83%8B%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%8C%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3
d:https://en.wikipedia.org/wiki/G._H._Hardy

2 感想

 それなりにいい映画ではあるのですが、学問的訓練を受けていなくても数学的天才は生まれ得る、という、この映画のテーマ(a及び映画そのもの)の背後に、アングロサクソン文明至上意識及びそれと裏腹のインド文明侮蔑意識が見え隠れしているのが大変気になりました。
 数学界までもが、この映画に手放しの賛辞を送っており(b)、数学者達の鈍感さに嘆息した次第です。
 要するに、この映画が描いたのは、(無学の)黒人の中にはいい黒人もいてそれを白人が発見し、引き上げてやる、というありふれたおとぎ話の変形バージョン・・(無学の)非白人の中には優秀な非白人もいてそれを白人が発見し、引き上げてやる・・というおとぎ話である、と、私は言いたいのです。
 つまり、こういうことです。
 下掲に目を通してください。↓

 「アリストテレス哲学を源流とする「無」と「無限」を否定する宇宙観は中世ヨーロッパに継承され、宗教の一部と化した。17世紀まで、ヨーロッパでゼロや無限を主張することは、キリスト教への冒涜であり、死刑宣告を意味した。中世ヨーロッパでは<イスラム世界から伝わった>ゼロを悪魔の数字とみなし、ローマ法王により使用が禁じられた。1600年には、宇宙が無限であると主張した修道士のジョルダーノ・ブルーノが、異端の罪で火あぶりの刑にされている。
 「無」が実在することを認め、ゼロを数として定義したのは「無」や「無限」を含む宇宙観を持ち、哲学的に「無」を追究した古代インドにおいてである。・・・
 古代インドの数学で数としての「0」の概念が確立されたのは、はっきりしていないが5世紀頃とされている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/0

 (数学や倫理学を含む)哲学において、インドはかつて最も先端的な世界だったのであり、それを象徴しているのが、「0」と「人間主義」の「発見」であり、主人公の、敬虔なヒンドゥー教徒にして家族思いのシュリニヴァーサ・ラマヌジャン(cと映画そのもの)は、「人間主義」の「発見」と実践による戦乱と従属の招来によって、その後の哲学の発展が阻害されてしまったインドにおける、伏流水化してしまったところの、この先端性、が、地上に泉としての漏出した存在であって、この泉の水を飲むことができたおかげで、非インド的な遅れた世界に生まれ、無神論を掲げ、独身主義者であったところの、私見では、米国のリベラルキリスト教的人物であった、副主人公の英国人数学者の(ゴッドフレイ・ハロルド・ハーディ・・ムーアやラッセルやケインズが友人だった・・は、理論物理学で活用されることとなる、ハーディ・ラマヌジャン漸近公式(Hardy–Ramanujan asymptotic formula)を、望外にも生み出すことができた(d)、と。