太田述正コラム#10526(2019.4.30)
<映画評論56:ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男(その4)>(2019.7.19公開)

3 チェンバレン陣営

 (1)チェンバレン

 チェンバレン(Neville Chamberlain。1869~1940年)陣営だって威張れたものではありません。
 御大のチェンバレン自身、知的には凡才だったからです。
 しかも、チャーチルと違って、文才といった「特技」など何一つも持ち合わせていない、という有様だったのです。
 彼は、パブリックスクールのラグビー校を卒業はしたものの、バーミング大学の前身の一つのメイソン単科大学にしか入れず、そこで冶金学(金属工学)を学び、しかも、その方面には進まず、父親のジョゼフ。チェンバレンに言われて監査法人に見習として入り、6か月後に本採用になったかと思ったら、今度は、父親が経営していた英領バハマの農園に派遣され、農園経営に携わり、その後実業界で一応成功を収め、故郷のバーミンガムの市議になり、更に、植民地大臣などを歴任した父親がかつて務めたところの、バーミンガム市長になり、その上で、保守党の下院議員になり、その後、保険大臣、大蔵大臣、そして、首相にまで上り詰めるのです。
 結局、彼は、少なくとも下院議員になったところあたりまでは、親の七光りのおかげであったとしか見えない上、異母兄の外相にしてノーベル平和賞受賞者たるオースティン・チェンバレンの引きもあったはずであり、元々実力が伴っていなかった人物である、という感が免れません。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%AC%E3%83%B3 及びH
 実は、このメイソン単科大学、もう一人英首相を出しており、スタンリー・ボールドウィン(Stanley Baldwin。1867~1947年)がそうなのです(I)が、彼は、ハロー校を卒業してケンブリッジに入学したのですから、チェンバレンとは大違いです。
 ところが、彼が入ったカレッジの長がハローの時の校長で、ボールドウィンがエロ話を書いたのを処罰した人物であり、カレッジでも彼を、クラブ活動を止めさせたりして苛めたため、歴史を専攻していたボールドウィンは嫌気がさし、中間試験で可の平均しか取れませんでした。
 そこで、中退し、一時、父親の製鉄業に携わったのですが、その父親が、その後、メイソン単科大学に彼を送り込み、今度は卒業した結果、チェンバレンと同窓生になった、というだけのことです。(J)

 (2)ハリファックス(エドワード・フレデリック・リンドリー・ウッド)

 彼は、絵に描いたような知的エリートです。↓

 「イートン校を経てオックスフォード大学・・・を卒業。1906年にオックスフォード大学・・・のフェローとなった。・・・
 1933年にはオックスフォード大学学長となり、<翌年、ハリファックス卿となり、>1959年に死去するまでつとめ<続けることになる>。」
 その後、下院議員になり、第一次世界大戦後、農林水産大臣、更に、インド総督に任じられます。
 インドでは、「反英運動に対して、弾圧と宥和を巧みに使い分ける統治を目指した。・・・
 保守党党首スタンリー・ボールドウィン<は、こ>の「飴と鞭」のインド統治を高く評価した。だが・・・チャーチルは「ガンジーが半裸姿でイギリス国王兼インド皇帝の名代である総督と対等に交渉している。
 このような光景はインドの不安定と白人の危機を招く」「ガンジーは狂信的托鉢」「私はガンジーに譲歩をすることに反対する。<彼と>ガンジー<との>会談やその協定に反対する」と批判した。
 チャーチルはこの後インド自治・独立反対運動の中心人物となっていく。・・・

⇒インドの実情を知らない英本国の石頭達を懐柔しながら、なし崩し的にインドの独立を認めようという現実的姿勢を取ったということ。(太田)

 1937年11月19日にヒトラーと会見したハリファックス・・・は、ソ連共産主義のドイツへの侵入を防いでいるヒトラーの防共の役割を高く評価し、<英>国内でドイツの悪口を言っている者は労働党など一部勢力に過ぎず、その者たちはドイツの状況がよく分かっていないと述べた。・・・

⇒ソ連の方がナチスドイツよりも脅威が大きく、その両者を角突き合わせておくことが英国にとって最善、という、これも現実的姿勢を、ハリファックスは採った、ということ。(太田)

 <そして、インドからの帰還後だが、>ドイツのオーストリア併合が迫る中、チェンバレン首相はイタリアに接近してドイツを牽制することを考えたが、外務大臣・・・<の>イーデンはスペイン内戦でイタリアが<英国>との約束を破ったことからイタリア軍がスペインから撤兵するまでイタリアと了解関係に入るべきではないと主張してイタリア接近に反対した。結局イーデンは1938年2月に辞職することになり、その後任の外務大臣にはイタリアへの接近政策に賛成するハリファックス・・・が就任することになった。 ・・・

⇒それまでイーデンのような考えの人物を外相として使ってきたことからしても、チェンバレンに比べてハリファックスの方が、対独宥和政策において、より一貫し、徹底していた、と見てよさそうだ。(太田)

 1939年・・・9月3日午前11時にイギリスはドイツと交戦状態に突入し、第二次世界大戦が勃発した。
 チェンバレンは本格的な戦争に発展するのを嫌がっており、経済圧力を主眼として早期講和に持ち込むことを考えていたが、1940年5月に北欧戦の惨敗で彼は退任を余儀なくされた。
 後任には海相チャーチルか外相ハリファックス卿が考えられたが、チェンバレンは宥和政策を共有するハリファックス卿を後任の首相にしたがっていた。
 しかしハリファックス卿自身が「貴族院議員の自分には庶民院を統制できず、政権運営は難しい」と辞退したため、徹底抗戦派のウィンストン・チャーチルが首相になった。

⇒要は、チェンバレンが日和見主義者である、と、ハリファックスは見切っており、自分を後継首相に推し続けることはない、と悟って自ら身を引いた、ということだろう。(太田)

 ハリファックス卿はチャーチル内閣にも外務大臣として留任したが、チャーチルの方針には賛同できず、1940年12月をもって外相を辞職した。」(G)

 結局のところ、知力不足のチェンバレンが、一層、知力不足のチャーチルを後継首相にしたことが、大英帝国の過早な瓦解をもたらすことになった、ということでしょう。
 ハリファックスの日本観を機会があれば、調べてみたいものです。
 もっとも、私は、クレイギー駐日英大使・・日支戦争勃発直後の1937年9月3日に東京着任
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%BC
・・からの公信群等を通じ、クレイギー同様の日本観を彼が抱くに至っていた可能性は低い、と、踏んでいます。
 というのも、ハリファックスは、「<外相を辞職に追い込まれ、>1941年1月から駐<米>大使に左遷された<が、>・・・大戦中の英米の連絡役としての役割を果たし、チャーチルからも高く評価された」(G)ところ、それは、彼は、日本に対米英開戦させる・・そんなことをすれば大英帝国は過早瓦解してしまうのは必至だというのに!・・ために尽力した、ということを意味するからです。
 ハリファックスにして、その知力は、杉山元らのレベルには到底及ばなかった、と、言わざるをえないのです。

4 終わりに

 英国の映画評論家達の中の辛辣な人々は、チャーチルを庶民的で人種主義的でない人物として誤った描き方をした、或いは、チャーチルのナチスドイツ観、ひいては欧州への侮蔑意識を描くことで、ブレグジットのプロパガンダに堕した、或いはまた、巨大なナチスドイツに、小さな島国の英国が単独で立ち向かったというウソを繰り返した・・実際には、当時、まだ、大英帝国は健在であり、使うことができる人口、資源、において、英国は、ドイツを遥かに上回っていたのに・・、という諸批判を、この映画に投げかけています(A-2)が、こんな諸批判は、英国人達が、未だに、先の大戦の主舞台が、実は、欧州ではなく、アジアであった、という根本的な真実の直視から逃げ回っていることを示すものであると言えるでしょうね。

(完)