太田述正コラム#10532(2019.5.3)
<三種の神器考>(2019.7.22公開)

1 始めに

 新天皇即位にあたって、剣璽等承継の儀(注)が行われ、三種の神器が脚光を浴びたけれど、三種の神器そのものについて、取り上げた日本の主要メディアはなかったように見受けられるのに対し、朝鮮日報がきちんと取り上げたことに好感を持ちました。

 (注)「三種の神器は八咫鏡・八尺瓊勾玉・天叢雲剣で構成されるが、その内八咫鏡は<その形代>祀られている賢所を含む宮中三殿を相続する事によって受継ぎ、八尺瓊勾玉<、と、天叢>雲剣<の形代>を受継ぐ儀式が剣璽等承継の儀となる。皇位そのものの証明は三種の神器の所持を以て挙げられるため、南北朝正閏論に於いては神器が無いまま即位した北朝の正当性が否定される根拠の一つとなっている(ただし、南朝正統論者でもこれを採用しない論者がいる)。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B7%B5%E7%A5%9A

 三種の神器の来歴については、以下の通りとされています。↓

 「現在では考古学的な観点(すでに4、5世紀の豪族の古墳の副葬品には、鏡、剣、玉の3点セットが頻繁にみられること)と、比較神話学の観点(海外にも日本の三種の神器に類似した品々からなる3点セットを王位のレガリアとする神話があり、世界中に分布していること)と、漢文の修辞法の観点(鏡剣または剣鏡と書いて玉を略すのは漢文の修辞上の問題で実際の品数を意味するものではないこと)から、もともと3品からなっていたと考えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%A8%AE%E3%81%AE%E7%A5%9E%E5%99%A8 ※

 なお、三種の神器とその形代の保管状況は以下の通りです。↓

 「『古語拾遺』によると、崇神天皇の時、鏡と剣は宮中から出され、外で祭られることになったため、形代が作られた。現在では草薙剣は熱田神宮に、八咫鏡は伊勢の神宮の皇大神宮に、八咫鏡の形代は宮中三殿の賢所に、それぞれ神体として奉斎され、八尺瓊勾玉は草薙剣の形代とともに皇居・吹上御所の「剣璽の間」に安置されている。しかし同皇居内に皇族らが住みながらその実見は未だになされていない。
 2019年(令和元年)5月1日、三種の神器のうち剣<の形代>と曲玉は第126代天皇徳仁の車に載せられて赤坂御用地に運ばれ、以後赤坂御所で安置されることになった。」(※)

2 朝鮮日報の三種の神器「論」

 「・・・韓国の檀君神話には、桓雄が天帝から受け取ったという天符印、すなわち剣・鏡・鈴が出てくる。韓国では神話的な想像だが、日本には伝説の「三種の神器」が実物として存在している。天孫降臨で天照大神が与えたという剣・勾玉(まがたま)・鏡だ。未来学者アルビン・トフラー氏はこの3つを暴力・富・知識と解釈したこともある。・・・」
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2019/05/02/2019050280048.html
(5月2日アクセス)
 
 トフラーの説は恐らくは思い付きの域を超えないものでしょうし、檀君神話も後世の創作でしょう(コラム#省略)が、そこに、勾玉ではなく鈴が登場するというのは興味深いものがあります。
 というのも、このことから、日本では弥生時代に大量に出土するところの、主として祭器として用いられた、銅剣、と、鈴から発展した銅鐸
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4 ☆
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%85%E9%90%B8
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%85%E5%89%A3
のうち、剣は維持しつつも鈴を捨てて勾玉を神器として採用したのに対し、朝鮮半島では剣も鈴も維持した可能性があるからです。

3 私の三種の神器考

 鈴が神器として用いられる文明は少なくありません(☆)し、剣は、アーサー王伝説に登場するエクスカリバーのように魔法の力が宿るとされる場合があります
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%83%90%E3%83%BC
し、鏡は、「鏡に映像が「映る」という現象は、古来極めて神秘的なものとして捉えられた。そのため、<最初は>祭祀の道具としての性格を帯びていた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%A1
ところです。
 従って、神秘性とは一見縁遠いところの、勾玉が三種のうちの一種・・但し、後述するところを参照・・とはいえ、レガリア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%82%A2
とされる文明は、日本文明くらいではないか、という気がしています。
 いや、そもそも、勾玉的なものが貴重なものとして存在する・・「した」と言うべきか・・のは日本文明においてだけではないでしょうか。↓

 「勾玉・・・の形状は、元が動物の牙であったとする説や、母親の胎内にいる初期の胎児の形を表すとする説などがある。鈴木克彦は縄文時代極初期の玦状耳飾りが原型であるとの説をとる。
 日本の縄文時代の遺跡から発見されるものが最も古い。朝鮮半島へも伝播し、紀元前6世紀から3世紀初頭の無文土器時代にアマゾナイト製の勾玉が見られる。縄文時代早期末から前期初頭に滑石や蝋石のものが出現し、縄文中期にはC字形の勾玉が見られ、後期から晩期には複雑化し、材質も多様化する。縄文時代を通じて勾玉の大きさは、比較的小さかった。
 弥生時代中期に入ると、前期までの獣形勾玉、緒締形勾玉から洗練された定形勾玉と呼ばれる勾玉が作られ始め、古墳時代頃から威信財とされるようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%BE%E7%8E%89
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%85%E9%90%B8

 私自身は、「母親の胎内にいる初期の胎児の形を表すとする説」を採りたいと思っています。
 その上で、勾玉は、縄文時代の人々が、初期の胎児、すなわち、人間の本来の形而下の姿、を借りて、人間の本来の形而上の姿を表したものである、と解したいのです。
 言うまでもなく、人間の本来の形而上の姿は、私の言うところの、人間主義者としての姿、というわけです。
 「儒学伝来以後、「鏡」は「知」、「勾玉」は「仁」、「剣」は「勇」というように、三種の神器は三徳を表す解釈も出た。」(※)には、直接的な典拠が付されていませんが、この解釈は、勾玉と剣に関しては正しい、というのが私の見解です。
 そう解して、初めて、勾玉だけは「実物」を天皇の下に置き、即位の時も、剣の形代と共に直接承継する理由が説明できるというものです。
 つまり、まず、勾玉=縄文性(人間主義)と剣=弥生性、については、天皇が自ら体現することが求められるが、縄文性の方は体現しなければならないので実物を承継し、弥生性の方は体現する努力をしなければならないので形代を承継する、と。
 そして、鏡=縄文性と弥生性のバランスの象徴と見て、この鏡については、天皇個人というよりは先祖代々の諸天皇の御霊と共同して天皇が体現する努力をしなければならないので、やはり、形代を承継する、が、鏡は、天皇個人というより、新天皇が歴代天皇の一員になった(一員である)ことの象徴なので、その形代が祀られている(歴代天皇の住居である)賢所を含む宮中三殿の承継の一部として承継する形をとっている、と。
 で、重要性においては、鏡>勾玉>剣、なので、鏡の実物は伊勢神宮・・古代においては宇佐神宮、中世においては石清水八幡宮と共に二所宗廟のひとつとされた・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E7%A5%9E%E5%AE%AE
に、勾玉の実物は御所に、剣の実物は(宇佐八幡宮や)石清水八幡宮ではなくあえて熱田神宮・・「日本第三之鎮守」(伊勢神宮、石清水八幡宮に継ぐとする意)・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%B1%E7%94%B0%E7%A5%9E%E5%AE%AE
に置かれた、と。

4 終わりに

 明治新政府が日本研究を(支那研究と共に)切り捨ててしまったために、三種の神器の研究もまた、それ以降、見るべきものがなさそうです。
 誰か、研究してくれて、上述の私の仮説の検証をしてくれれば、と切に思います。