太田述正コラム#8692005.9.18

<ペルシャ帝国をどう見るか(その3)>

アレキサンダー大王は、ギリシャ諸都市を征服した後、弱体化していたアケメネス朝ペルシャを前330年に滅ぼすが、アレキサンダーのやったことは、古典ギリシャ文明とより重要な古代ペルシャ文明という二つの文明を破壊した蛮行にほかならなかった(注11)。なお、アレキサンダーの征服した版図は、古代ペルシャのかつての最大版図の一部に過ぎないことからすれば、アレキサンダーの大征服なるものは、古代ペルシャの二番煎じにも値しない代物だ。

 (注11)アレキサンダーが前331年にペルシャの首都スーサ(SusaPersepolis(ペルセポリス))を占拠した際に、アテネの最後の僣主を暗殺した二人のアテネ人のブロンズ像を発見した。これは、クセルクセスが480年にアテネを一時占拠した時に掠奪してきたものだが、ギリシャの全都市の僣主となっていたアレキサンダーが、どんな感慨を抱いたか、想像に余りある。

4 総合的感想

 (1)上記両歴史認識の評価

 この新しい古代ペルシャ観は、古代ペルシャ(アジア(注11))文明を古典ギリシャ/ヘレニズム(欧州ないしは原初欧州)文明並に再評価するどころか、古代ペルシャ文明を古典ギリシャ/ヘレニズム文明よりも優位に再評価し、ギリシャ/ヘレニズム文明やローマ文明を、単に古代ペルシャ文明と欧州文明の間の結節点に過ぎない、と見る画期的なものです。

(注11)欧州から見て、アジア(Asia)概念が東南アジアや北東アジアを含む概念として拡張されたのは、後世のことだ(典拠失念)。

 ここで、注意すべきことがあります。

(すぐ上の私の文章では既に読み替えてありますが、)イギリスにおける新しい古代ペルシャ観が用いている「欧米の文明」という言葉を額面通り受け取ってはならない、ということです。

アングロサクソンは、ホンネでは、アングロサクソン文明と欧州文明を包含する「欧米の文明」(あるいは「西側文明」)なるものが存在するなどとは全く思っていないことからすれば、「欧米文明」はあくまでも韜晦的修辞とみなし、これを「欧州文明」と読み替える必要があるのです。

そう読み替えた上で、改めて新しい古代ペルシャ観に思いを致してみれば、それは、ホーランドが改めて代弁したところの、イギリスにおける伝統的古代ペルシャ観と、見かけほど大きく異なっているわけではないことに気づきます。

 どちらも、アングロサクソン文明と欧州文明を画然と区別し、前者を高みに置いて後者等の他の文明を見下す、というホンネは共有しつつも、伝統的古代ペルシャ観にあっては、単独で屹立する古典ギリシャ文明をアングロサクソン文明に最も近似する文明と見て高く評価してきたのに対し、新しい古代ペルシャ観にあっては、古典ギリシャ文明について、(「欧米の文明」ならぬ)欧州文明とメソポタミア文明/古代ペルシャ文明とを結ぶ単なる結節点に過ぎない(注12)(注13として余り評価しない、という点で異なっているだけなのです。

 (注12)この古典ギリシャ文明評価には、私も同感だ(コラム#814)。

(注13)かかる観点からすれば、英国が昨年、2006年から大学入学資格検定試験(GCSE)の受験可能科目からギリシャ・ローマ古典を落とすという、フランス等欧州諸国では考えられない決定を行ったことは、まことに興味深いものがある(http://education.guardian.co.uk/schools/comment/story/0,9828,1244063,00.html2004年6月23日アクセス)及び(http://www.newadvent.org/cathen/09032a.htm(9月17日アクセス))。

 (2) 改めてイランの誇大妄想狂的な誇りについて

 イランに、このようなアングロサクソンのホンネは見えていないでしょうから、イランとしては、自国の歴史についての誇りは、決して誇大妄想狂的なものではなく、正当な誇りであったことが国際的に認められた、と手放しで喜んでいるに違いありません。

 イラン政府が、米国に次ぐ第二の仇敵であるはずの英国で開かれる展覧会にあそこまで協力していることからも、そう推測してよいでしょう。

 しかし、英国も罪作りなことです。

 アングロサクソンのホンネの観点からではありません。

 イスラム化してからというもの、イランでは、過去のペルシャの栄光など忘れ去られていたのですが、19世紀末にアケメネス朝ペルシャ等の遺跡を盛んに発掘して持ち帰り、展示してイラン人に誇大妄想狂的誇りを抱かせるきっかけをつくったのは、英国(とフランス)であったからです(注14)。

 (注14)これが、今回の展覧会に大英博物館(とルーブル博物館)が所蔵品を出品できた背景だ。

 1920年代から、この誇りを国策的にかき立てたのが、成り上がり者が王朝を創設したパーレビ王朝(Pahlavi dynasty)でした。1971年には、時のシャーが、ペルシャ王制2,500年を記念した大祝賀会を開催したことは、今でも語りぐさになっています。

 イラン革命でパーレビ王朝は倒れましたが、その誇大妄想狂的古代ペルシャ観は、パーレビ王朝的なものを全面否定したはずの、シーア派原理主義者が牛耳る現在のイランにも、そのまま受け継がれているのです(注15)。

(以上、特に断っていない限りhttp://www.nytimes.com/2005/09/14/arts/design/14pers.html?pagewanted=print前掲による。)

 (注15)イラン国立博物館長が、今回の展覧会のカタログにが寄せた一文の中で、「イランの伝統的文明・芸術・文化は、何世紀にもわたる他のさまざまな文化との接触にもかかわらず、その独特の特徴を失うことなく、アイデンティティーを維持し続けてきた」と、古代ペルシャと現在のイランのアイデンティティーの同一性を強調していることからも、そのことがうかがえる。

(完)