太田述正コラム#10622(2019.6.17)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その53)>(2019.9.5公開)

 日露戦争後日本銀行の内部から高橋に嘱目されながら、国際金融家として台頭したのが井上準之助<(注57)(コラム#4614、4982、7831、8334、8436、8527、8533、10042、10051、10439)>でした。・・・

 (注57)1869~1932年。現在の大分県日田市に造り酒屋の家に生まれ、二高(仙台)、東大法卒、日銀入行、大阪支店長、ニューヨーク駐在、営業局長、横浜正金銀行副頭取、同頭取、日銀総裁、第2次山本内閣蔵相、濱口内閣蔵相(金解禁)、血盟団事件で暗殺。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E6%BA%96%E4%B9%8B%E5%8A%A9

⇒井上が学んだ頃の帝大の「法科大学<は、>法律学第一科・法律学第二科・政治学科・行政学科・財政学科・外交学科」から成っており、
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317632.htm
井上は、(穿ち過ぎ、かつ、辛辣過ぎ、であると叱られるかもしれませんが、)中卒後地元を離れて進学したというのに一高でも三高でもなく二高に入学していること、高等文官試験等を受験していなさそうであること、から、成績が余り良くなく、法律学科や政治/行政学科ではなく、)財政学科に進学せざるをえず、だからこそ日銀に入行した、と想像されるのですが、当時の財政学科では財政学と経済学が講じられていたところ、この学科の基礎を日本人として築いたのは、薩摩藩出身で、エール大で経済学、財政学を学んだ田尻稲次郎(1850~1923年)であり、
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/156245/1/zai02601_045.pdf
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%B0%BB%E7%A8%B2%E6%AC%A1%E9%83%8E
田尻の学んできた経済学は、「<英国>の古典派経済学を保護主義的経済の育成という東部アメリカ的基盤に適合する形で変形させた」もの
https://research.kosen-k.go.jp/researcher-list/read20120318/pdf
であったと想像されるところ、その後、日本の経済学者達は、19世紀末以来の米国における「[1]ヨーロッパにおけるいわゆる限界革命に対応し、生産ファクターに焦点を当てた J.B.クラークらの限界生産力理論の傾向と、[2]この限界理論のアプローチに対して批判的な態度を示し、制度的もしくは文化的な要因が持っている 重要性に力点を置いた傾向の二つ」への分化(上掲)を受けて、[1]の影響下に、東京商大の福田徳三
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E7%94%B0%E5%BE%B3%E4%B8%89
から始まる近代経済学者群が輩出し、[2]の影響下に、京大の河上肇
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E4%B8%8A%E8%82%87
から始まるマルクス経済学者群が輩出した、と私は見るに至っており、この日本の経済学の二つの潮流のどちらも、翻訳学の域を出ず、しかも、そのどちらも、その翻訳元諸学者の諸母国において、「「場所や時」に応じて、柔軟に「経済政策」を行うべきだ」といった考え方とは正反対にイデオロギー化し、硬直化して行った点まで、拳拳服膺してしまった、というのが私の見解です。
 井上は、このうち、米国の「英国のより堕落した」古典派経済学やその後の欧州系の「純粋」経済学の呪縛から生涯逃れることができなかったのではないでしょうか。(太田)

 しかし井上は、高橋の母胎となった薩摩系との人的および政策的親近性はもっていませんでした。
 それは明治2(1869)年生まれの井上が、嘉永7(1854)年生まれの高橋が負っていたような不平等条約下の自立的資本主義の伝統から断絶していたからです。
 井上の起点は高橋と異なり、日清戦争後の国際的資本主義そのものでした。
 しかも高橋が日露戦争中の外債募集を通してドイツ・ユダヤ系の投資銀行クーン・レーブ商会(特にその主宰者J・H・シフ)との間に深い信頼関係をもっていたのに対し、井上は第一次大戦において連合国側への資金や物資の調達を通して連合国側の勝利に貢献し、戦後の国際金融に圧倒的影響力を及ぼすにいたったアングロサクソン系の投資銀行モルガン商会と強く結びついていました。
 このことが第一次大戦後における国際金融家としての高橋と井上との間に格差を生じさせることになります。・・・

⇒恐らくは、もっと単純な話なのであって、広義の薩摩系の人々とは違って、島津斉彬コンセンサス(やそれが包含しているところの、横井小楠コンセンサス)的なものとは無縁で、経済政策は、かかる「大志」を成就するための諸小道具のうちの一つに過ぎない、と考えていたところの、松方や高橋らとは違って、井上にとって、経済政策は、自分が懸命に学び、そしてその後を追い続けたところの、米国流経済学の現実世界への適用であって、それ自体が自己目的化していたのではないでしょうか。(太田)

(続く)