太田述正コラム#9812005.12.2

<私の移民受入論(その3)>

 (本篇は、コラム#966の続きです。)

<補足>

 コラム#965に転載したレジメの幕末・維新期のところについて、私の意図がよく伝わっていないと思われる投稿が、以前にHPの掲示板にあったので、この際、補足の意味で、レジメに若干肉付けをして再掲させていただきます。(その際、見出し・用語等を部分的に修正した。)

(1)幕末・維新期におけるリーダーの輩出

  ア 初めに

日本の幕末・維新期に、福沢諭吉のような国家的リーダーが輩出したのはどうしてでしょうか。

 それは、江戸時代における、自立的個人群の潜在・武士道・疑似国際環境、の三つのおかげだと私は考えています。

 つまり、江戸時代には、自立的個人群が広汎に潜在していて、彼らが武士道を身につけ、その武士道を疑似国際環境の下で実践してきたのであって、幕末における幕府の権威の低下、更には明治維新の結果、彼らが束縛を取り払われて解放されることによって、自立的個人群が幕末・維新期に顕在化し、これら自立的個人群の中から、国家的リーダーが輩出した、ということです。

イ 自立的個人群の潜在

 (ア)初めに

まず、自立的な個人群の潜在についてです。

どのようにして江戸時代に、潜在的であれ、自律的な個人群が生まれていたのでしょうか。

自立的な個人群を生み出したのは、江戸時代における、多元的価値の並存・地域的多様性・植民地的地域の存在、すなわち一言で言えば江戸時代の多様性、であると思います。

   (イ)多元的価値の並存

福沢諭吉は、「中古武家の代に至り・・至尊必ずしも至強ならず、至強必ずしも至尊ならず」とし、その結果、「民心に感ずる所にて、至尊の考と至強の考とは自から別にして恰も胸中に二物を容れて其運動を許したるが如し。既に二物を容れて其運動を許すときは其間に又一片の道理を雑へざる可らず。故に、神政尊崇の考と武力圧制の考と、之に雑るに道理の考とを以てして、三者各強弱ありと雖ども、一として其権力を専にするを得ず。之を専にするを得ざれば、其際に自から自由の気風を生ぜざる可らず」(「文明論の概略」(明八年)岩波文庫版PP38)となった、と述べています。

 これを故丸山真男は、権威は公家に、権力は武士に、富(福沢は「道理」とした)は町人に帰属していた、ということだと要約しています(典拠省略)。

 もとより、この三者以外に、権威にも権力にも富にも無縁な衆生がいたことを忘れてはならないでしょう。

 いずれにせよ、重要なことは、江戸時代の日本では、アングロサクソンや中世以降の西欧同様、一昔前の世界の中では極めて例外的に、多元的価値が並存していた、ということです。

 それ以外の世界は、権威と権力の所在は一致しているのが当たり前で、多くは権威と権力と富の所在が三つながら一致していました。そんな所では、擬似的に自立した一名の最高権力者(despot)以外は、すべてこの最高権力者に隷従する・・非自立的な・・臣民に他なりませんでした。

 江戸時代の日本は、このように極めて例外的な存在であったわけです。

   (ウ)地域的多様性

 江戸時代には、タテの多様性たる多元的価値の並存だけでなく、ヨコの多様性たる地域的多様性もありました。数百にも及ぶ藩の並存です。

 武士は参勤交代、そして庶民はお伊勢参り等によって、互いに同じ日本人としての意識は共有しつつも、他方で各藩は、半独立国の体をなしていました。そして、それぞれの藩ごとに、独特の特産品・文化・方言、更に言えば多様な物の見方が栄えたのです。

 これが江戸時代に自立的個人群が潜在したもう一つのゆえんです。

   (エ)植民地的地域の存在

江戸時代には、このほか、琉球と蝦夷地が、事実上の植民地として存在していました。薩摩藩と松前藩を通じて、江戸時代の日本人は、琉球人とアイヌという、内地人とはひと味違う人々と接触しつつ、それらの人々をコントロールする術を培ったのです。

このような異質な人々との関わりもまた、江戸時代に自立的個人群が潜在したことと無縁ではなかろうと私は思っています。

 ウ 武士道

 江戸時代の権力エリートたる武士は、藩校教育等を通じ、支那の古典と軍学・武術・・武士道(コラム#614)・・を身につけました。

 つまり武士は、歴史感覚と軍事素養という、自立した個人、ひいては国家的リーダーにとって不可欠な教養を身につけさせられたわけです(注2)。歴史感覚と軍事素養は、情勢分析・危機管理・人心収攬等を適切に行うための基礎である、と私は確信しています。

 (注2)イギリスの権力エリート教育(パブリック・スクール教育)と基本的に同じだ(コラム#27等)。他方、支那や朝鮮半島では、権力エリート教育において、軍事は軽視され続けた(李朝の両班について、コラム#404参照)。

 この武士道は、江戸時代を通じ、町人等にも次第に浸透します。

  エ 疑似国際環境

 各藩が互いに戦争をしたり、幕府を相手に戦うことは、幕初期と幕末期を除いてありませんでしたが、幕府は、失政や内紛の起こった藩をとりつぶすことを躊躇しなかっただけに、各藩と幕府は常に静かなる緊張関係にありました。また、各藩は重商主義的政策をとって、藩財政の維持・発展を図るべく、互いに熾烈な競争を行いました。

 つまり、江戸時代の日本は鎖国をしていましたが、国内において、日本人はこのように疑似国際環境の下にあったわけです。

このような疑似国際環境の下、武士は武士道の実践する場を与えられ、鍛えられ続けたのです。

 

<補足終わり>

(続く)