太田述正コラム#9832005.12.4

<ナポレオンの評判(その1)>

1 初めに

昨年は、ナポレオン(Napoleon Bonaparte1769?1821年)戴冠200周年でしたし、今年は、ナポレオンのアウステルリッツの戦い(12月。勝利)(及びトラファルガー海戦(10月。敗北))200周年であることから、ナポレオンの話題が色々出ています。

そのうちのいくつかをご紹介しましょう。

2 正反対の二つのナポレオン評価

 ナポレオンは、現代欧州の基礎を形作ったフランスの偉大なリーダーにして軍事的天才なのでしょうか、それとも、単なる暴君(注1)なのでしょうか。

 (注1)例えば、1798年のエジプト遠征の時、ナポレオンは、母国フランスで政治的チャンスが生まれたと見るや、部隊を置き去りにしてトルコ軍の餌食にさせ、一人フランスに立ち戻った。また、ロシアに遠征してモスクワに到達した時、放火されて焼け野原になったモスクワに2週間も無為に滞在し、彼が率いてきた各国兵士からなる大軍とともに撤退を開始した時には、ロシアに冬が訪れ、ナポレオン個人こそ逃げおおせたものの、寒さとコサックの襲撃により、軍は壊滅してしまう。この致命的判断ミスを、ナポレオンは、ロシア皇帝に疑心暗鬼を生ぜさせるために、あえてモスクワにとどまった、と強弁した。

 面白いことに現在では、英国では、ナポレオンが偉大なリーダーにして軍事的天才であると見る者が多く、ナポレオンを暴君と見る者が多いフランスにおけるよりも、ナポレオンの評価が高いのです。

 英国でナポレオンの評価が高いのは、一つには、英国は戦勝国たる余裕を持って仇敵ナポレオンを眺められることもあって、ナポレオンが戦争を通じて数百万人の人々を死に至らしめ、無数の人々に塗炭の苦しみを味わわせた独裁者であったとはいえ、彼が、スターリンが生み出した収容所(gulag)ともヒットラーのようなホロコーストとも無縁であったことを「評価」しているからであり、二つには、ナポレオンが、(ヒットラー同様、)先進アングロサクソン文明の英国に劣等感を抱き、英国を尊敬していた男だったからです(注2)。

 (注2)ナポレオンが流刑地のセントヘレナ島で、遅ればせながら、懸命に英語の習得に努めたことはよく知られている。

 実際、ナポレオンは、英国の様々な制度をまずフランス、そして更に欧州全域への移植に努めました。その中には、英国的王制の移植も含まれています。

 1804年に挙行されたナポレオンの皇帝戴冠式において、法王ピオ(Pious7世を初めとする欧州中から参集した人々の前で、冠を法王によってかぶせてもらうのではなく、自分の手でかぶったのは、まさに英国的王制の採択を意味したのです(注3)(注4)。

(以上、http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/4061461.stm200412月3日アクセス)、及びhttp://books.guardian.co.uk/reviews/biography/0,6121,1473970,00.html(5月1日アクセス)による。)

 (注3)英国では、国王は、同時に英国教会の首長でもある。

 (注4)しかし、ドイツのベートーベン(Beethoven)や英国のワーズワース(Wordsworth)、コールリッジ( Coleridge)ら、それまでナポレオンを崇拝していた芸術家達の多くは、冠のかぶり方はともあれ、ナポレオンが皇帝になったことに幻滅し、爾後ナポレオンを暴君とみなすようになった。