太田述正コラム#9852005.12.5

<ナポレオンの評判(その2)>

3 ナポレオン暴君説優位に

 しかし、11月末に出版されたクロード・リッブ(Claude Ribbe)著「ナポレオンの犯罪」という本によって、ナポレオン暴君説が一挙に優位に立ちました。

 リッブは黒人の著名な学者であり、フランス政府の人権委員会の委員でもある人物です。

 リッブは、ナポレオンは、人種主義的・疑似科学的理論を打ち立て、ジェノサイドを行った人物であり、ナチスの先駆者と見なされるべきだ、と指摘したのです。

 すなわちナポレオンは、フランス革命によって廃止された奴隷制を、その8年後の1802年に復活させ、また有色人種のフランス入国を禁止する法律を制定するとともに、カリブ海のフランス領のハイチとグアドループ(Guadeloupe)における奴隷の叛乱を壊滅させるために、これら両島の12歳以上の黒人は根絶やしにする方針を立て、新たにアフリカからおとなしい奴隷を輸入することにし、6万人ものフランス軍を現地に派遣し、叛乱に関与した黒人のみならず、手当たり次第に黒人を射殺し、犬にかみ殺させ、溺れさせ、毒ガスで殺し(注5)、その結果約10万人の黒人を殺戮した、というのです。

 (注5)フランス軍は、奴隷船に黒人達を詰め込み、一晩中硫黄を燃やして二酸化硫黄を発生させて殺害した。世界最初のガス室だ。また、叛乱のリーダーの一人の肩にその妻と子供達の前で将校肩章を釘で打ち付けた上、その場で妻子を溺死させる、といった残虐行為を行った。(http://www.washingtonpost.com/ac2/wp-dyn/A25167-2005Jan20?language=printer。1月23日アクセス)

 この本の出版が、先般の移民暴動の直後に行われたことも、そのインパクトを大きなものにしています。

 リッブらは、アウステルリッツ(Austerlitz会戦(注6200周年記念行事が、戦場であったチェコで、フランス政府が主催して行われること(注7)に対し、ナポレオンを美化するものだとして抗議の声を挙げています。

 (注6)オーストリア軍を南ドイツのウルム(Ulm)で破った後、ナポレオンはオーストリアの首都ウィーンを占領した。これに対し、オーストリア・ロシア連合軍がその100km北方に終結した。フランス軍は軍勢は少なかったが、ナポレオンは意図的に右翼を手薄にし、連合軍にわざと自軍を包囲させるようにしむけ、その兵站線を伸び切らせた。彼はそれから敵中央に総攻撃をかけ、敵をバラバラにして敵の左翼を凍結した湖の方向に追いつめた。そして、オーストリア軍は降伏し、ロシア軍は本国に退散した。

     その後締結された平和条約で、フランスはイタリアのほとんど全土を支配下に置き、ドイツを保護領とした。

 (注7)今年6月には、トラファルガー沖の海上で、こちらは英国のエリザベス女王臨席の下に、トラファルガー沖海戦(コラム#128200周年記念式典が行われた(http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/4627469.stm628日アクセス)。

ところで、今年5月は、日本海海戦100周年だったが、日本では何の公的式典も行われなかった。しかし、間違いなく、100年後の200周年には、盛大な式典が行われることだろう。なぜなら、それはトラファルガー海戦を上回る、一方的完勝に終わった類い希なる海戦であっただけでなく、その世界史的意義もまた、トラファルガー沖海戦の比ではないからだ。

 この式典には、シラク大統領もドビルパン首相も出席しませんが、どうやら、こういった風向きを読んで、出席を取りやめた模様です。

(以上、特に断っていない限りhttp://www.guardian.co.uk/france/story/0,11882,1653025,00.html1130日アクセス)、及びhttp://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/4491668.stm12月3日アクセス)による。