太田述正コラム#10921(2019.11.13)
<関岡英之『帝国陸軍–知られざる地政学戦略–見果てぬ「防共回廊」』を読む(その21)>(2020.2.3公開)

 「・・・関東軍参謀部の「対蒙(西北)施策要領」<(前出)>のなかでは、善隣協会の社会事業が関東軍の戦略として明確に位置づけられている。・・・
 なぜ関東軍が、小学校や診療所の設立を指示するのか。
 もちろん教育の普及や衛生状態の改善自体が、社会秩序の維持という占領行政上からも必要であったこともあるが、一方では情報戦としての側面もあった・・・。
 当時、内モンゴルだけでなく中国各地で医療・教育活動をしながら諜報活動、特に反日宣伝活動を扇動していた英米の宣教師団の猖獗は座視できないものがあり、なんとしてもこれに対抗する必要があったからだ。
 北支事変が勃発すると善隣協会の国策上の重要性は飛躍的に高まり、1938年からは外務省から分離独立した興亜院が管轄する全額政府出資の公的機関となった。・・・
 蒙古<聯>合自治政府の成立によって、純然たる内モンゴル地方が漢人人口の集中する察南、普北地区と合併させられ、しかも首都が察南の張家口に置かれたこともあり、自治政府の施策が内モンゴルの遊牧地帯に行き届かないきらいがあったため、善隣協会の活動はそれを補完する役割を担っていたという。・・・
 ソ連のスターリンはヤルタ会談で、傀儡国家であるモンゴル人民共和国を現状のまま承認することを蒋介石に呑ませることを、対日参戦の見返りの一つとして要求した。
 当事者である蒋介石もチョイバルサンもヤルタには招かれていなかったが、米国大統領<ロ>ーズベルトが蒋介石を丸め込む役を引き受けた。
 蒋介石は外モンゴルを承認する見返りに、ソ連が梃入れしていた東トルキスタン共和国から手を引くことを要求した。
 スターリンは外モンゴルを確保する見返りに東トルキスタンを見捨てたわけだ・・・。
 1945年10月、徳王の叔父バヤンダライ<(注46)>は「内モンゴル人民共和国臨時政府」の主席を解任され、ウランフ<(注47)>という内モンゴル人が後任に選ばれたが、一ヵ月後に臨時政府を解散してしまう。

 (注46)Bayandalai。ネット上では、全く、邦語ないし英語情報を得られなかった。
 (注47)烏蘭夫(1906~88年)。「1923年・・・12月、中国社会主義青年団に参加。1925年、中国共産党に入党。モスクワ中山大学に留学し、帰国後、西蒙工作委員会書記などを歴任する。日中戦争では、日本軍(駐蒙軍)に対して抵抗運動を指揮。1938年4月に中共綏蒙工作委員会委員、翌月には国民革命軍新編第三師政治部主任代理となる。1941年8月、延安に赴き、陝甘寧辺区政府民族事務委員会主任、延安民族学院教育長などを歴任し、共産党内での少数民族問題を担当し、同じく中国西北部で活動していた習仲勲と親交を深めた。1945年9月9日に内モンゴル人民共和国臨時政府が成立するとその懐柔工作を担当し、同年10月には同政府代表兼国防大臣に就任、八路軍が支配していた張家口に移転して内モンゴル自治運動連合会を結成し、中国共産党の内モンゴル支配の基礎を構築した。その後さらに東モンゴル自治政府やフルンボイル地方自治政府、西蒙自治政府などの懐柔工作に従事して東西<内>モンゴルを統一することになる。1947年に内モンゴル自治政府の主席を務め、同年に内モンゴル共産党工作委員会(1949年に中共中央内蒙古分局に改称)書記にもなる。この頃に「赤い息子」を意味するウランフに改名した。・・・<その後、>中央においては国務院副総理、国家副主席など少数民族としては政府の長や国家元首に次ぐ最も高位の職を歴任した。妹婿の孔飛、息子のブヘ、孫のブ・シャオリンも内モンゴル自治区の主席を務めるなど文化大革命時代を除いてウランフとその一族は内モンゴル自治区を支配した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%95

 ウランフはコミンテルンが送り込んだ工作員だったのだ。

⇒ありえません。
 仮にウランフがそんな人間であったとすれば、当時、(ソ連圏に属する外蒙古に接する)西部内蒙古に北の省境が隣接していた陝西省の、しかも北部の延安
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%B6%E5%AE%89%E5%B8%82
を本拠地としていた毛沢東(中国共産党)が、ウランフを、戦略要衝地を所管する西部内蒙古担当に就けたはずがありませんし、いずれにせよ、毛沢東は、1940年代に行った、「ソビエト連邦やコミンテルンの政策や指令、及び経験主義に盲目的に従うことへの抵抗運動」であるところの、整風運動
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B4%E9%A2%A8%E9%81%8B%E5%8B%95
の際に、粛清したはずなのにそうしなかったからです。
 話は逆であり、ウランフは、(ソ連留学経験こそあれ、)毛沢東のポチだったに相違ないのです。(太田)

 「ウランフ」という名も「共産主義の申し子」という意味のコードネームで、その正体は雲澤(うんたく)という名の漢人化したモンゴル人であり、モンゴル名を持たず、モンゴル語もほとんど話せなかった。
 そして1947年5月、ウランフはソ連の軍事力を背景に「内蒙古自治政府」を樹立し、政府主席に就任した。
 1949年10月に中華人民共和国が成立すると、ウランフは看板を「内蒙古自治区人民政府」にかけ替え、引き続き主席の座に留まった。・・・」(104~106、114~115)

(続く)