太田述正コラム#10939(2019.11.22)
<関岡英之『帝国陸軍–知られざる地政学戦略–見果てぬ「防共回廊」』を読む(その30)>(2020.2.12公開)

 1939年2月、創立一周年記念の茶話会で茂川は回民幹部に対し、従来日本の軍部が運営経費を拠出してきたが、今後は回民が自力更生し、外国人に依存せず、自立していかなければならないと訓示している。
 だが、地元の回民に経費を自弁させることはできなかったようだ。・・・
 大幅な経費削減の背景には日本側の方針転換があった。
 1942年12月に決定された「大東亜戦争完遂の為の対支処理根本方針」、いわゆる対支新政策がそれである。
 ガダルカナル島の戦況が悪化するなか、日本軍は中国戦線から太平洋戦線に兵力をシフトさせる必要に迫られていた。
 そこで東條内閣は南京の汪兆銘政権に梃入れするため、治外法権の撤廃など自主権を強化する方針に踏み切ったのである。
 これを受けて華北の新民会も、約1600名いた日本人職員が退職して中国人主体で運営されることになった。・・・
 日本の・・・東トルキスタン<への>・・・西漸を阻んだのは、寧夏省の馬歩芳<(注71)>、甘粛省の馬歩青<(注72)>など、「三馬」とか「五馬」とか呼ばれた回民軍閥たちだったのだ。・・・

 (注71)1903~75年。「1936年、蒋介石の命を受けた馬歩芳は・・・、中国共産党の支配圏を拡大しようと黄河を渡った張国燾が率いる2万1800人の紅軍の殲滅に成功した。1938年、中国国民党の支持を取り付けた馬歩芳は・・・青海省の主席(知事)となり、名実ともに青海地方の支配者となった。軍事力と政治力を手中にした馬歩芳は中国共産党に敗れる1949年まで青海地方を支配した。・・・ウイグル族による東トルキスタン独立運動には一貫して反対した。1949年8月、馬歩芳は彭徳懐に率いられた中国人民解放軍に破れ、甘粛の省都蘭州を占領され、馬歩芳はまず重慶、そして香港に逃亡した。10月、蒋介石に西北部に戻り中国人民解放軍と抗戦を続けるように促された馬歩芳はメッカ巡礼の名の下に親族や部下200人余を引き連れサウジアラビアに逃走した。1950年、馬歩芳は・・・エジプトに移動した。1957年、エジプトと中華人民共和国の間に国交が成立すると、馬歩芳は中華民国駐在大使としてサウジアラビアに赴任した。1961年、姪を側室にしたことが露見してスキャンダルとなり大使を辞任させられた。中華民国からの刑罰を避けたかった馬歩芳は台湾に戻らずにサウジアラビア市民となり、1975年に死去するまでサウジアラビアに滞在した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E6%AD%A9%E8%8A%B3
 (注72)1898~1977年。「馬歩芳の兄。・・・1936年・・・10月、馬歩青は河西走廊の黄河沿いを中心に、長征中の紅軍を迎撃しようとした。しかし、紅軍の渡河を結局阻めなかった。その間の戦闘で紅軍にも一定の打撃を与えたものの、馬歩青も参謀長・馬廷祥を戦死させてしまうなどの大損害を被ってしまう。1937年・・・9月、馬歩青は陸軍騎兵第5軍軍長に昇進し、さらに甘新公路督弁公署督弁も兼任した。馬歩青は、官民を動員して甘新公路の整備に尽力し、新疆経由でのソビエト連邦からの支援物資の輸送改善に貢献している。また、河西に様々な社会インフラの整備を進め、青雲中学などの教育機関も設立した。ただし、これらの内政的貢献の一方で、馬歩青は支配地域民衆からの収奪が激しく、私利を貪る傾向も強かったとされる。・・・<1944年>には、<馬歩芳によって>馬歩青は失脚に追い込まれ、1945年・・・に蒙蔵委員会委員に任ぜられたものの、政治的・軍事的実力は完全に喪失した。その後の馬歩青は故郷に引退し、これまで蓄えた巨額の富で豪奢な生活を送ることになる。しかし国共内戦終盤に、青海省が中国人民解放軍に制圧されそうになると、馬歩青は香港経由で台湾へ逃亡した。台湾では、国防部中将参議、総統府国策顧問、中国国民党第10期中央評議委員を歴任している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E6%AD%A9%E9%9D%92

 蒋介石は米英から入手した武器弾薬や軍資金を糸目もつけずに西北で大盤振る舞いした。
 これが奏功して回民軍閥は重慶政権の側に立つに至ったのだ。

⇒「注71」、「注72」を読めば明白ですが、回民軍閥達は、帝国陸軍の事実上の連携相手たる中国共産党の仇敵であり、とりわけ背後を脅かす存在だったのであり、この点だけからも、帝国陸軍にとって、回民軍閥達の打倒もしくは懐柔は至上命題であったはずです。(太田)

 日本のイスラーム政策は、単に日中間の戦局打開といった視野狭窄なものではなく、世界規模の壮大な戦略構想に基づいていた。
 それを端的に示しているのが、大日本回教協会が1939年3月20日に発行した『東半球に於ける防共鉄壁構成と回教徒』という小冊子である。
 ここで防共政策の対象として挙げられているのは、「寧夏、甘粛、青海、新疆省及ソ領トルキスタン、コーカサス、ウラル地方、小アジア地方に分布するトルコ系回教徒、イラン及びアフガニスタン等のソ連接壌国」である。
 まず、イスラーム圏は西洋キリスト教圏と東洋仏教圏の中間に位置する重要地帯であり、信仰心篤いムスリムには共産主義思想が浸透する余地はなく、「宗教は共産主義思想の侵入を防ぐ防波堤である」と指摘する。

⇒前述したように、この箇所は誤りに近いわけです。(太田)

 そして、ムスリムの伝統的な反スラブ、反ソビエト感情に注目し、イスラーム圏を防共陣営に団結させる方策を説く。・・・

⇒「その大部分がムスリムであるところのテュルク系の人々の反露感情に注目し、イスラーム圏を反露(ソ)陣営に団結させる方策を説く」と読み替えれば、(そもそもテュルク系とすら言い難い)回民は別として、成り立ちうる考え方ですね。(太田)

 そ<の上で、上出の>「この線を確保することは、防共政策、回教政策、アジア民族解放政策を実践する上に必要であるのみならず、対支、対ソ、対英政策を遂行するため最も重要なるものである」と結論づけている。・・・
 日本のイスラーム政策はあくまでもソ連と中国共産党の脅威に対するカウンター・インテリジェンスだったのだが、本来利害が一致するはずの蒋介石率いる重慶政権はそれを理解せず、過剰反応して見当違いの反日情報戦を海外で展開した。

⇒関岡は、ここに「アジア民族解放政策」や「対英政策」が登場することを等閑視してしまっていますが、大日本回教協会は、横井小楠コンセンサス(のみ)信奉者向け衣の下の島津斉彬コンセンサスの鎧をついに(つい?)見せた(見せてしまった?)、といったところですね。(太田)

(続く)