太田述正コラム#11164(2020.3.14)
<皆さんとディスカッション(続x4377)/G・B・サンソムの日本史観と戦後日本
4–弥生性をめぐって(日本篇)>

<太田>(ツイッターより)

 「WHOトップ、安倍首相を称賛=資金拠出に謝意…」
https://news.livedoor.com/article/detail/17962834/
 その言動の分かり易さに於て、かねてより、衰退途上国日本の我らが最長宰相たる学士の安倍チャン、に勝るとも劣らない、発展途上国出身の世界の名士たる博士のテドロス事務局長。
 これで、安倍チャン、文教祖並に支持率回復?

<PQaZz176>「たった一人の反乱(避難所)」より)

 太田さん、この時期に遠出とは。
 無事のお帰りをお祈り申し上げます。

⇒Merci beaucoup!(太田)

<太田>

 その他の記事については、明日以降に回します。
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 一人題名のない音楽会です。

Liszt, Les Préludes(注)(1854年) 指揮:Daniel Barenboim オケ:Berlin
Philharmoniker
https://www.youtube.com/watch?v=jb2bkVQwtBs

(注)前奏曲。「13曲あるリストの交響詩の代表作である。「人生は死への前奏曲」という考え(アルフォンス・ド・ラマルティーヌの詩による)に基づき、リストの人生観が歌い上げられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E5%A5%8F%E6%9B%B2_(%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88)
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       –G・B・サンソムの日本史観と戦後日本4–弥生性をめぐって(日本篇)–

1 始めに
 (1)難問
 (2)戦後における日本の弥生性研究の貧困
  原因第一:戦後日本の軍事「放棄」
  原因第二:戦後日本における天皇軽視
  原因第三:戦後韓国の歴史学の不毛
 (3)結論

2 前史
 (1)ディスクレーマー
 (2)弥生時代
 (3)小国分立時代–拡大弥生時代濫觴期
 (4)ヤマト王権フェーズI:国家連合時代–100年前後~266年より少し前–拡大弥生時代初期
 (5)ヤマト王権フェーズII:連合政権国家時代–266年より少し前から?
[連合政権国家時代の中期]
[日本の刀剣]
[鎧]
[倭・高句麗戦争を巡って]
[応神天皇]
 (6)ヤマト王権フェーズIII:統一国家時代
  ア 両翼軍制時代
[雄略天皇]
  イ 片翼軍制時代
[鎮護国家]
  ウ 無翼軍制(軍制崩壊)時代

3 日本における弥生性の確立へ
 (1)厩戸皇子–聖徳太子コンセンサス立ち上げ
[蝦夷]
 (2)天智天皇–聖徳太子コンセンサス実現へ着手
[白村江の戦い]
[対蝦夷戦]
 (3)天武朝時代–聖徳太子コンセンサス抑圧
  ア 天武天皇による唐流軍制策定着手
  イ 持統天皇による唐流軍制策定完了
[藤原不比等]
[橘諸兄]
[吉備真備]
[藤原広嗣]
[藤原仲麻呂]

(続く)

1 始めに

 (1)難問

 予感していた通り、今回のテーマは難問でした。
 というのも、手がかりが少な過ぎるからです。
 手がかりとなる研究に見るべきものが余りない、と言うべきかもしれません。
 そういう背景の下、前回、若干の予感もあり、逃げと時間稼ぎも兼ねて、支那の弥生性の乏しさについて追究したところ、予感的中とまでは言えないものの、重要なヒント・・支那における封建制論争・・が得られたのは幸運でした。
 しかし、引き続き、模索を続けることを強いられたところ、答えが突然閃いたのが、今年に入ってから少し経った時点であり、うれしくなって、すぐに、ディスカッション上で読者の皆さんに問題提起をさせていただいた次第です。
 それは、日本の弥生性は、極めて脆弱な状態から、桓武天皇以下の平安初期の歴代天皇によって、ゲルマン人のそれに勝るとも劣らない高さへと引き上げられ、それが爾後維持された、というものです。
 予想した通り、そのような類の解答を寄せた読者はおられませんでした。
 そこまではよかったのですが、いざ、実際に「講演」原稿を書き始めてみると、この結論を書くまでに触れなければならないところの、日本の弥生性が脆弱であった時代のこと、つまりは、前史、を書くのが容易ではないことが分かって再び頭を抱えました。
 どうしてか?
一、まず、冒頭で申し上げたのと同じ理由が挙げられます。
 このような一風変わった問題意識も抱きつつ、日本の古代史を俯瞰した方がこれまでおられなかったためでしょうが、私が参考にできる研究が見当たらなかったからです。
二、また、より根本的には、そうである以上、自分自身の手によって日本古代史を俯瞰しなければならないわけですが、自分が日本の古代史の土地勘に意外に乏しいことに今更ながら気づかされたことです。
三、更に、これは、二に含まれるとも言えるのですが、私が、日本を含む世界の、火器中心の戦いの時代が到来するより前の、広義の武器、に関する知識に乏しいことも付け加えておきたいと思います。
 (今流行りの刀剣女子のお歴々の方が私よりもはるかに詳しいかもしれない、ということです。)
 とまあ、こういう次第で、(2月には確定申告作業もやらなければならないことも踏まえ、)名古屋オフ会では、前史と結論のさわりまでのご披露まででご勘弁いただくこととし、それ以降の部分は後に回して、その2週間後の東京オフ会でご披露させていただくことにした次第です。
 さて、言い訳めいた話はこれくらいにして、一の、手がかりとなる研究がなかった、ということについてなのですが、私は、それには三つの大きな原因があるように思います。
 すなわち、
第一に戦後日本の軍事「放棄」、
第二に戦後日本における天皇軽視、
そして、
第三に韓国の歴史学の不毛、
ではないか、と。
 (なお、戦前においても、この私の問題意識に応えるような研究に見るべきものがなさそうなことの原因についての私見を、次の東京オフ会の時にでも申し上げることができるかもしれません。)
 以下、まず、この三つの原因について、それぞれ若干敷衍してご説明しましょう。

 (2)戦後における日本の弥生性研究の貧困

  原因第一:戦後日本の軍事「放棄」

 原因の第一は、日米安保と憲法第9条の政府解釈により、戦後日本が軍事を「放棄」し、現在に至っていることです。
 その結果としてして、(少し前の時点での証言ですが、)次のようなことが起こった、と私は見ています。↓

 「戦後の日本古代史研究についていえば、社会経済史の隆盛さに比べ、軍事史研究は極めて手薄であったといえる。私の貧しい知識では軍事史関係の研究書を持つ著者として、直木孝次郎・井上満郎・野田嶺志・笹山晴生・橋本裕<(注1)>の諸氏など数人の名を挙げうるにすぎない。軍事は財政とあいまって国家と政権を成立させる重要な要素であるから、その研究の深化が期待される分野である。」(大阪教育大学教育学部教授吉田靖雄(注2)。2002年)
http://seibundo-pb.co.jp/index/ISBN4-7924-0522-X.html

 (注1)直木孝次郎(京大卒)、井上満郎(同左)、野田嶺志(新潟大、京大博士満期退学)、笹山晴生(東大卒)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E6%BA%80%E9%83%8E
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E6%9C%A8%E5%AD%9D%E6%AC%A1%E9%83%8E
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E7%94%B0%E5%B6%BA%E5%BF%97
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%B9%E5%B1%B1%E6%99%B4%E7%94%9F
 橋本裕については、『律令軍団制の研究』(1990年)の著者ということしか分からなかった。
https://www.amazon.co.jp/%E5%BE%8B%E4%BB%A4%E8%BB%8D%E5%9B%A3%E5%88%B6%E3%81%AE%E7%A0%94%E7%A9%B6-%E6%A9%8B%E6%9C%AC-%E8%A3%95/dp/4642022449
 (注2)1939年~。「東京教育大学大学院文学研究科修士課程(日本史学)修了。大阪府立高校教諭、大阪教育大学教育学部講師・助教授・教授を経て、大阪教育大学名誉教授」
https://www.hmv.co.jp/artist_%E5%90%89%E7%94%B0%E9%9D%96%E9%9B%84_000000000517348/biography/?

 確かに、私自身呆れたのですが、例えば、ヤマト王権のウィキペディアに、一切、軍制の話が出てこないのです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%83%88%E7%8E%8B%E6%A8%A9

 ですから、「倭・高句麗戦争」のウィキペディア(後出)にすら、また、「白村江の戦い」のウィキペディア(後出)にすら、(さすがに兵力量や戦闘における勝敗の結果こそ出て来るけれど、)戦争の背景としての日本を含む関係諸国の軍制の話は出てきません。

  原因第二:戦後日本における天皇軽視

 戦後、第一に、(上で引用した証言でも示唆されていますが、)「歴史はその発展段階における経済の生産力に照応する生産関係に入り、生産力と生産関係の矛盾により進歩する・・・<すなわち、>下部構造が上部構造を規定する・・・という・・・唯物史観」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E7%89%A9%E5%8F%B2%E8%A6%B3
が猛威を振るい、歴史における個人・・この中には天皇も含まれる・・の役割が軽視されるに至ったこと、そして、第二に、憲法第1条により、徹底した象徴天皇制が採られたこと、の結果、(日本で摂関制採用以降権威と権力が(再び)分離され天皇が権力を持たなくなるより前の時期に関してまでも、)歴代天皇が日本史において果たした役割が著しく軽視されることとなり、とりわけ、(原因第一と相俟って、)軍事に関して歴代天皇が果たした役割については、ほぼ完全に無視されてきたのではないか、と思うのです。
 しかし、その一部が軍歌で用いられているところの、かなり有名な下掲の大伴家持作の長歌(注3)を思い出すだけでも、(少なくとも古代においては、)歴代天皇の、権力の大きさ、と、軍事との関りの濃厚さ、とが実感できる、というものです。↓

 (注3)「五七、五七、…、五七、七の形式で、すなわち五七を三回以上繰り返し、最後を七音を加える。『万葉集』に多く見えるが、『古今和歌集』の時点ではすでに作られなくなっている。主に公の場でうたわれるもので、反歌を伴う。古くは必ずしも五または七でなく、字余り、字足らずになっている場合がある。長歌は柿本人麻呂においてその頂点に達した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%AD%8C

 「葦原の 瑞穂の国を 天下り 知らし召しける 皇祖(すめろき)の 

⇒ここで「知らし召しける」、すなわち、シラス(コラム#10722)、という言葉が用いられていることに注目しましょう。
 既に示唆したように、前にも後にもないことですが、この頃だけは、日本の首長はシラス天皇だったのです。(太田)

 神の命(みこと)の 御代重ね 天の日嗣(ひつぎ)と 知らし来る 君の御代御代 敷きませる 四方(よも)の国には 山川を 広み厚みと 奉る 御調宝(みつきたから)は 数へえず 尽くしもかねつ しかれども 我が大王(おほきみ)の 諸人を 誘ひたまひ よきことを 始めたまひて・・・武士<(注4)>(もののふ)の 八十伴<(注5)>(やそとも)の緒を まつろへの 向けのまにまに 老人(おいびと)も 女(め)の童児(わらはこ)も しが願ふ 心足らひに 撫でたまひ 治めたまへば ここをしも あやに貴み 嬉しけく いよよ思ひて 大伴の 遠つ神祖(かむおや)の その名をば 大来目主<(注6)>(おほくめぬし)と 負ひ持ちて 仕へし官(つかさ) 海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじと言立(ことだて)て 丈夫の 清きその名を 古(いにしえ)よ 今の現(をつつ)に 流さへる 祖(おや)の子どもぞ 大伴と 佐伯<(注7)>の氏は 人の祖の 立つる言立て 人の子は 祖の名絶たず 大君(おほきみ)に まつろふものと 言ひ継げる 言(こと)の官(つかさ)ぞ 梓弓(あずさゆみ) 手に取り持ちて 剣大刀(つるぎたち) 腰に取り佩(は)き 朝守り
夕の守りに 大君の 御門の守り 我れをおきて 人はあらじと いや立て 思ひし増さる 大君の 御言(みこと)のさきの聞けば貴み」(『万葉集』巻十八「賀陸奥国出金詔書歌」(大伴家持(注8)の長歌))
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%A1%8C%E3%81%8B%E3%81%B0
 現代語訳
 「葦の生い茂る稔り豊かなこの国土を、天より降って統治された 天照大神からの神様たる天皇の祖先が 代々日の神の後継ぎとして 治めて来られた 御代御代、隅々まで支配なされる 四方の国々においては 山も川も大きく豊かであるので 貢ぎ物の宝は 数えきれず言い尽くすこともできない そうではあるが 今上天皇(大王)が、人びとに呼びかけになられ、善いご事業(大仏の建立)を始められ、「黄金が十分にあれば良いが」と思し召され 御心を悩ましておられた折、東の国の、陸奥の小田という所の山に 黄金があると奏上があったので 御心のお曇りもお晴れになり 天地の神々もこぞって良しとされ 皇祖神の御霊もお助け下さり 遠い神代にあったと同じことを 朕の御代にも顕して下さったのであるから 我が治国は栄えるであろうと 神の御心のままに思し召されて 多くの臣下の者らは付き従わせるがままに また老人も女子供もそれぞれの願いが満ち足りるように 物をお恵みになられ 位をお上げになったので これはまた何とも尊いことであると拝し いよいよ益々晴れやかな思いに満たされる 我ら大伴氏は 遠い祖先の神 その名は 大久米主という 誉れを身に仕えしてきた役柄 「海を行けば、水に漬かった屍となり、山を行けば、草の生す屍となって、大君のお足元にこそ死のう。後ろを振り返ることはしない」と誓って、ますらおの汚れないその名を、遥かな過去より今現在にまで伝えて来た、そのような祖先の末裔であるぞ。大伴と佐伯の氏は、祖先の立てた誓い、子孫は祖先の名を絶やさず、大君にお仕えするものである
と言い継いできた
誓言を持つ職掌の氏族であるぞ 梓弓を手に掲げ持ち、剣太刀を腰に佩いて、朝の守りにも夕の守りにも、大君の御門の守りには、我らをおいて他に人は無いと さらに誓いも新たに 心はますます奮い立つ
大君の 栄えある詔を拝聴すれば たいそう尊くありがたい」(注9)
https://dic.nicovideo.jp/a/%E6%B5%B7%E3%82%86%E3%81%8B%E3%81%B0

 (注4)「587年<の>・・・丁未の乱(ていびのらん)<(後出)で>・・・仏教の礼拝を巡って大臣・蘇我馬子と対立した大連・物部守屋が戦い、物部氏が滅ぼされた。これから先、物部氏は衰退した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%81%E6%9C%AA%E3%81%AE%E4%B9%B1
 (注5)「朝廷に仕える多くの役人たち」
https://kotobank.jp/word/%E5%85%AB%E5%8D%81%E4%BC%B4%E7%B7%92-648492
 「物部大連の配下に属する氏族が多種多様であったことから、「物部の八十氏」「物部の八十伴雄」などの枕詞が律令制下に定着し、王権に奉仕する文武官の総体を表現する慣用句となる。<ちなみに、>「物部」本体部分が当初より「モノノベ」と呼称されていたかについては少しく疑問があり、語源は「モノノフ」であった可能性が高い。」
http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-5.pdf
 (「「武士」の読み方の1つ<に>・・・もののふ<があるが、>・・・物部氏は軍事を司っていたため、物部が語源になったという。」
https://dic.nicovideo.jp/a/%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%AE%E3%81%B5 )
 (注6)「神武天皇の東征に大伴氏の先祖、道臣命(日臣命)と共に従軍し、・・・大和を平定したとされる。・・・久米部を指導する一族が没落し、その後、大伴氏が久米部を管轄するようになった、とも考えられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E7%B1%B3%E5%91%BD
 (注7)「大伴氏<と>・・・佐伯氏とは同族関係とされる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E6%B0%8F
 (注8)718~785年。「751年・・・少納言に任ぜられて帰京後、・・・754年・・・兵部少輔、・・・757年・・・兵部大輔と孝謙朝後半は兵部省の次官を務める。この間の・・・755年・・・難波で防人の検校に関わるが、この時の防人との出会いが『万葉集』の防人歌収集につながっている。・・・
 ・・・767年・・・大宰少弐に転じ、称徳朝では主に九州地方の地方官を務めている。

 ・・・770年・・・9月に称徳天皇が崩御すると左中弁兼中務大輔と要職に就き、11月の光仁天皇の即位に伴って、21年ぶりに昇叙されて正五位下となる。光仁朝では式部大輔・左京大夫・衛門督と京師の要職や上総・伊勢と大国の国守を歴任する一方で、・・・771年・・・従四位下、・・・777年・・・従四位上、・・・778年・・・正四位下と順調に昇進する。・・・780年・・・参議に任ぜられて公卿に列し、翌・・・781年・・・には従三位に叙せられた。・・・
 ・・・783年・・・には先任の参議であった藤原小黒麻呂・藤原家依を越えて中納言に昇進する。また、皇太子・早良親王[・・桓武天皇の同母弟・・]の春宮大夫<・・皇太子の御所の内政を掌った機関の長・・>も兼ねた。さらに、・・・784年・・・には持節征東将軍に任ぜられて、蝦夷征討の責任者となる・・・
 翌・・・783年・・・には《桓武天皇(天皇:781~806年)によって、》先任の参議であった藤原小黒麻呂・藤原家依を越えて中納言に昇進する。また、皇太子・早良親王の春宮大夫も兼ねた。さらに、・・・784年・・・には持節征東将軍に任ぜられて、蝦夷征討の責任者となる。翌・・・785年・・・4月には陸奥国に仮設置していた多賀・階上の両郡について、正規の郡に昇格させて官員を常駐させることを言上し許されている。

 同年8月28日薨去。最終官位は中納言従三位兼行春宮大夫陸奥按察使鎮守府将軍」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E5%AE%B6%E6%8C%81
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A9%E8%89%AF%E8%A6%AA%E7%8E%8B ([]内)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E5%AE%AE%E5%9D%8A (<>内)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%93%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87 (《》内)
 「大伴氏<は、>・・・物部氏<(上出)>と共に朝廷の軍事を管掌していたと考えられている。
 なお、両氏族には親衛隊的な大伴氏と、国軍的な物部氏という違いがあり、大伴氏は宮廷を警護する皇宮警察や近衛兵のような役割を負っていた。・・・
 <大伴氏は、>古来の根拠地は摂津国・河内国の沿岸地方であったらし<い・・これ、念頭にとどめておいてください・・が、>・・・のちに根拠地を大和国の磯城・高市地方に移したものと想定される。・・・
 武烈朝で大連となった大伴金村の時代が全盛期<だった>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E6%B0%8F 前掲
 大伴家持の曽祖父の曽祖父にあたる「大伴金村<(上掲)は、>・・・継体天皇6年(512年)に高句麗によって国土の北半分を奪われた百済からの任那4県割譲要請を受けて、・・・これを承認する代わりに五経博士を渡来させた。<また、>継体天皇21年(527年)に発生した磐井の乱では・・・物部荒甲(麁鹿火<(あらかび)>)・・・と大伴金村・・・が討伐にあたった・・・しかし、欽明天皇の代に入ると欽明天皇と血縁関係を結んだ蘇我稲目が台頭<し>、金村の権勢は衰え始める。さらに欽明天皇元年(540年)には新羅が任那地方を併合するという事件があり、物部尾輿<(おこし)>などから外交政策の失敗(先の任那4県の割譲時に百済側から賄賂を受け取ったことなど)を糾弾され失脚して隠居する。これ以後、大伴氏は衰退していった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E9%87%91%E6%9D%91
 「磐井の乱(いわいのらん)は、527年(継体21年)に朝鮮半島南部へ出兵しようとした・・・ヤマト王権軍の進軍を筑紫君磐井・・・がはばみ、翌528年(継体22年)11月、・・・鎮圧された反乱、または王権間の戦争。この反乱もしくは戦争の背景には、朝鮮半島南部の利権を巡る<、親百済だった>ヤマト王権と、親新羅だった九州豪族との主導権争いがあったと見られている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%90%E4%BA%95%E3%81%AE%E4%B9%B1
 (注9)この長歌は、「続日本紀を見てみたら、・・・当時の今上帝たる聖武天皇が・・・
 「大伴佐伯の宿禰は常もいふごとく天皇朝守り仕へ奉ること顧みなき人どもにあれば汝たちの祖どもいひ来らく、海行かば水漬みづく屍かばね山行かば草むす屍 王の辺にこそ死なめのどには死なじ、といひ来る人どもとなも聞召す、ここをもて遠天皇の御世を始めて今朕が御世に当りても内の兵と心の中のことはなも遣はす(以下略)」
 (現代語訳)「大伴・佐伯の宿禰は、常にも言っているように、天皇の朝廷を守りお仕え申し上げることに、己の身を顧みない人たちであって、汝らの祖先が言い伝えてきたことのように、
 「海行かば 水漬く屍、山行かば草むす屍、大君の辺にこそ死なめ、のどには死なじ(海に戦えば水につかる屍、山に戦えば草の茂る屍となろうとも大君のおそば近く死のう。ほかにのどかな死をすることはあるまい)」<※>
と言い伝えている人たちであるとお聞きになっている。そこで遠い先祖の天皇の御代から、今の朕の御代においても、天皇をお守りする側近の兵士と思ってお使いになる。」・・・
<という>歌を大伴氏と佐伯氏に送っ<たことに対して>・・・応える形で・・・家持<によって、>・・・詠まれたもの<だった。>・・・
 こうしてみると、<※>の歌は大伴・佐伯両氏にずっと伝わってきていた戦歌のような存在だったようで・・・つまり、誰が初めに詠んだのか分からないというわけ<だ>。」
http://kaki.extrem.ne.jp/diarypro/diary.cgi?no=1095

⇒日本は、邪馬台国を盟主とする国家連合時代<(後述)>には聖俗二元制であったのが、260年前後に邪馬台国を首長とするヤマト王権連合政権国家が成立(後述)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD 等
してから、摂関政治が事実上始まる901年
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E9%96%A2%E6%94%BF%E6%B2%BB
までの600年強の間は聖俗一元制の時代、つまりは、天皇全権時代であったことを我々は忘れがちです。
 つまり、この時代の日本の歴史は、天皇を中心にして動いていたわけであり、天皇の役割を軽視していたのでは話になりません。
 (但し、だからといって、それは、決して、天皇独裁制ではありませんでしたが・・。)
 で、この例外的な期間の前半は、既に示唆したように、日本の軍制は国軍とヤマト王権家(天皇家)直轄軍の二本立てから成っていた、ということがこの長歌から分かります。
 (但し、それぞれの要であったところの、大伴氏は540年以降、また、物部氏はその約半世紀後の587年以降、衰退し、ヤマト王権の軍制はガタガタになってしまいます。(後述))
 ちなみに、現在のイランは統一国家であり国家連合ではありませんが、その点を除けば、その頃の日本と良く似ていますね(コラム#11044参照)。(太田)

  原因第三:戦後韓国の歴史学の不毛

 古代日本史は、朝鮮半島、とりわけその南部とは密接不可分の関係にあるわけです(後述)が、例えば、「1970年代以降、全く調査されていなかった洛東江流域の旧加羅地域の発掘調査が進み、文献史料の少ない加羅史を研究するための材料が豊富になってきた<いるにもかかわらず>、現代韓国の政治的欲求に基づいた新民族史観に沿う仮説が盛んに主張されて<おり、こういったことから、>・・・日本の学界<は>韓国の学界を軽<視し>ている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%BD%E8%80%B6
ところ、その日本の学界の方だって、戦後、原因の第一と第二から、情けない状態に陥ったままなのですから、何をかいわんや、です。

 (3)結論

 冒頭で結論を述べてしまいましたが、ここで、もう少し、その結論を膨らませて申し述べておきましょう。
 (もちろん、後で、もっと詳しく説明します。)
 弥生人は、弥生性がゼロに近かった縄文人に比べれば弥生性があったでしょうが、日本で強い弥生性が確立し、それが維持されるようになったのは、国内の統一が行われる過程で激しい戦いが繰り返された(コラム#11078)からではないか、ということを指摘した読者がおられたけれど、それでもって回復的に到達した弥生性のレベルなど、せいぜい彼らの祖先が支那南部に住んでいた頃のレベルであったと考えられ、そんなレベルでは、支那北部の弥生性のレベルにも及ばなかったと想像されるのであって、そんなことではなく、
第一に、聖徳太子が、(上述したところの、)ガタガタになった日本の軍制を、蝦夷と支那から学ぶことで、抜本的に立て直さなければならない、という、私の新たな命名によるところの、聖徳太子コンセンサス、を形成したこと、
と、
第二に、桓武天皇が、この聖徳太子コンセンサスを具体化する、同様私の新たな命名によるところの、桓武天皇構想、を樹立するとともにその実現に着手し、以降の数代の諸天皇がこれを引き継ぎ完遂したこと、
のおかげで、日本は、アジア随一の弥生性を確立することができたのです。
 幕末以降における、島津斉彬コンセンサスと杉山構想をもじってるようだが、さっぱり分からんわ、ですって?
 あわてないで。
 私の説明を全部聞けば分かります!

2 前史

 (1)ディスクレーマー

 いくら軍事、就中、軍制が重要だとはいえ、本来は、日本の古代史を各時代に区分した上で、それぞれの時代についてまず概観し、その上でその中に軍事を位置づけていかなければならないのですが、それをやるだけの時間も、また、既に述べたように、私は、日本の古代史に関する土地勘も、はたまた、昔の広義の武器に関する知識も、不足しているため、そんなことは到底無理な相談というものでした。
 (いわゆる邪馬台国論争的なものなどは、完全にスルーせざるをえなかった、という言い方をしましょうか。)
 というわけで、以下は、軍事、就中、軍制を中心とした日本の古代史の、私なりの、やっつけ仕事的な簡素な素描に過ぎない、ということをお断りしておきます。
 最初のあたりは雑然としていて分かりにくい、というお叱りを受けるのではないかと思いますが、私の試行錯誤の経過がそのままぶちまけられているところ、きれいに整える時間と能力がなかった、ということでお許しいただければ幸いです。

 (2)弥生時代

 弥生人の故郷は、基本的に、南部支那であった、と見ていいでしょう。↓

 「水稲には朝鮮半島から海を渡って直接日本に渡来したものと、山東半島から日本へ渡来したものがあるとする説が有力視されて<きたが、>最近の研究は、<支那>南部の排他的な起源の可能性も提起してい<る>。・・・
 <例えば、>頭蓋骨の計測値で渡来系弥生人に最も近いのは新石器時代の河南省、青銅器時代の江蘇東周・前漢人と山東臨淄前漢人であった・・・
 <また、>弥生人に関連する体質として、下戸が存在する。下戸遺伝子の持ち主は<支那>南部と日本に集中しており、水耕栽培の発祥と推測される<支那>南部での、水田農耕地帯特有の感染症に対する自然選択の結果ではないかとも推測されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E7%94%9F%E4%BA%BA

 既に触れたところ、弥生人の、私の言うところの弥生性は、殆ど弥生性と縁がなかったと思われるところの、縄文人よりはあったはずですが、黄河文明と長江文明の勢力争いについての黄帝の三苗征服伝説(コラム#10982)での勝敗が示唆しているように、それは、北部支那のそれにすら遜色があったわけであり、たかが知れていた、と言ってよさそうです。
 皆さんご承知のように、そんな南部支那が負けた相手であるところの、北部支那だって、その後、北方の遊牧民系にやられっぱなしになる程度の弥生性しか持ち合わせなかった(コラム#10982)のですからね。

 (3)小国分立時代–拡大弥生時代濫觴期

 さて、私のいう、拡大弥生時代について、ここで初めて定義めいたことを申し上げるわけですが、それは、日本列島を本拠地とするところの、弥生人首長達の全部または一部が、支那の王朝と、断続的ではあれ、公的な関係を取り結ぶとともに、(引き続き?)渡来人達を積極的に受け入れ続けた時代、といったところでしょうか。↓

 「弥生時代にあっても、[建武中元二年(57年)<に>倭奴国が金印を授与され<たり、>]『後漢書』東夷伝に107年の「倭国王帥升」の記述があるように、「倭」と称される一定の領域があり、「王」とよばれる君主がいたことがわかる。

⇒倭奴国についても、金印についても、定説などなきに等しい
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B4%E5%9B%BD
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E5%A7%94%E5%A5%B4%E5%9B%BD%E7%8E%8B%E5%8D%B0
こともあり、これら「朝貢」の実態や意味についてのコメントも行わないことにします。(太田)

 ただし、その政治組織の詳細は不明であり、『魏志』倭人伝には「今使訳通ずる所三十国」の記載があることから、3世紀にいたるまで小国分立の状態がつづいたとみられる。
 また、小国相互の政治的結合が必ずしも強固なものでなかったことは、『後漢書』の「桓霊の間<(注10)>、倭国大いに乱れ更相攻伐して歴年主なし」の記述があることからも明らかであり、考古資料においても、その記述を裏づけるように、周りに深い濠や土塁をめぐらした環濠集落や、稲作に不適な高所に営まれて見張り的な機能を有したと見える高地性集落が造られ、墓に納められた遺体も戦争によって死傷したことの明らかな人骨が数多く出土している。縄文時代にあってはもっぱら小動物の狩猟の道具として用いられた石鏃も、弥生時代にあっては大型化し、人間を対象とする武器に変容しており、小国間の抗争が激しかったことが伺える。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%83%88%E7%8E%8B%E6%A8%A9
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%91%E5%BC%A5%E5%91%BC ([]内)

 (注10)かんれいのかん。
https://furigana.info/w/%E6%A1%93%E9%9C%8A
 「桓帝の在位は147~167年、霊帝は168~188年で、「桓霊の間」とは、147年から188年である。」
https://syoki-kaimei.blog.ss-blog.jp/2015-03-23-2

⇒このように↑、日本の小国分立時代は、一般には弥生時代に含めていますが、私は、拡大弥生時代に含めているわけです。
 小国分立時代の到来以降、平安時代が念頭にあるところの、(私の言葉にいう)第一次縄文モードの時代に至るまでが拡大弥生時代、ということになります。
 で、これも既に触れましたが、この拡大弥生時代に入ってからヤマト王権を首長とする連合政権国家(後出)が成立するまで、断続的に凄惨な内戦が続いたことによって、日本列島渡来以降、すんでのところで縄文人化する瀬戸際まで行っていたとしても不思議ではなかった弥生人に関し、彼らの渡来した頃の程度への弥生性の回復がなされた可能性がある、と言えそうであるわけです。(太田)

 (4)ヤマト王権フェーズI:国家連合時代–100年前後~266年より少し前–拡大弥生時代初期

 「<100年前後にヤマト王権を盟主とする国家連合・・邪馬台国・・が成立したと思われるが、成立後、「>70〜80年を経て・・・後漢<の>桓帝・霊帝の治世の間(146年~189年)、倭国は大いに乱れ、何年も主がいなかった。・・・
 そこで、一人の女子を共に王に立てた。名は卑弥呼という。鬼道を用いてよく衆を惑わした。成人となっていたが、夫は無かった。<」(『三国志』魏書
卷30 東夷伝 倭人(魏志倭人伝)>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E5%9B%BD%E5%A4%A7%E4%B9%B1 
 「魏志倭人伝によれば「倭人は帯方郡(現在の北朝鮮南西部にあたる地域)の東南、大海の中に在る。山島に依って国や邑(むら)を為している。旧(もと)は百余国あった。漢の時、朝見する者がいた。今は交流可能な国は三十国である。……」などとある。卑弥呼を女王とする邪馬台国はその中心とされ、三十国のうちの多く(二十国弱=対馬国から奴国まで)がその支配下にあったという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F_(%E4%B8%89%E5%9B%BD) 
 「景初二年(239年)12月 –
卑弥呼、初めて難升米<(なしめ)>らを魏に派遣。魏から親魏倭王の仮の金印と銅  鏡100枚を与えられた。
  正始元年(240年) –
帯方郡から魏の使者が倭国を訪れ、詔書、印綬を奉じて倭王に拝受させた。
  正始四年(243年)12月 –
倭王は大夫の伊聲耆[(イセヱキ)]、掖邪狗[(ヱキヤク)]ら八人を復遣使として魏に派遣、掖邪狗  らは率善中郎将の印綬を受けた。
  正始六年(245年) – 難升米に黄幢を授与。
  正始八年(247年) –
倭は載斯[(サイシ)]、烏越[(ウヲツ)]らを帯方郡に派遣、狗奴国との戦いを報告した。魏は張政を倭に派遣し、難升米に詔書、黄幢を授与。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%91%E5%BC%A5%E5%91%BC 前掲
http://www2.u-netsurf.ne.jp/~kojin/table2.html ([]内)

⇒朝鮮半島南部にあった狗邪韓国(くやかんこく)は、「『三国志』では「其(倭国?)の北岸」、または「韓は南は倭と接する」とある。『後漢書』では「倭(現在の日本)の西北端の国」とする」こと
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%97%E9%82%AA%E9%9F%93%E5%9B%BD
から、この国家連合の内の1国であると見てよいので、邪馬台国を盟主とする国家連合は、日本列島と朝鮮半島南部を領域としていたことになります。
 留意すべきは、内戦が一段落して連合政権国家が成立したといっても、それが、まだ、単一国家ではなかったことです。
 そういう意味で、この頃の(朝鮮南部を含む)日本の歴史の進行が遅かったのは、最有力国であったと思われるところの、邪馬台国、の首長達を始めとする各国の首長達が、誰も統一国家を目指すほどの弥生性・・権力志向性/軍事志向性・・を持ち合わせていなかったことに加え、そもそも、弥生人の第一陣が日本列島に渡来して原住民たる縄文人と接触した時期に成立したと思われるところの、権力(支配/服従)の重層構造的なものに、引き続き居心地の良さを感じ続けていたからではないでしょうか。
 既に、この頃までに、私の言う日本文明の広義の統治構造の原型が確立していた、と見てよさそうだ、ということです。
 しかし、日本列島内だけで完結しておればともかく、朝鮮半島南部の狗邪韓国等までもが領域であるとなると、朝鮮半島には、そしてまた、朝鮮半島と陸続きのアジア大陸本体には、ヤマト王権国家連合よりも弥生性がより強い、中には弥生性の塊のような、「国」や部族、がうようよしていたことだけをとっても、脆弱な国制/軍制のままでは安全保障が全うできそうもないので、支那における当時最強の王朝であった魏・・220年に成立・・が238年に楽浪郡と帯方郡を占拠した機会を捉えて、卑弥呼が魏に朝貢したのは、魏を背景にその威信を、これらの潜在的脅威に対して示す、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F_(%E4%B8%89%E5%9B%BD)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%AA%E9%AD%8F%E5%80%AD%E7%8E%8B
という狙いがあったのでしょうね。(太田)

 (5)ヤマト王権フェーズII:連合政権国家時代–266年より少し前から?

 ここは、ヤマト王権のウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%83%88%E7%8E%8B%E6%A8%A9
からの抜粋に、私のコメントを付ける形で進めます。↓

 「白石太一郎<(注11)>は、「邪馬台国を中心とする広域の政治連合は、3世紀中葉の卑弥呼の死による連合秩序の再編<(注12)>や、狗奴国連合との合体に伴う版図の拡大を契機にして大きく革新された。

 (注11)1938年~。「同志社大学大学院博士課程単位取得退学後、(財)古代学協会研究員、奈良県立橿原考古学研究所所員、国立歴史民俗博物館教授、同副館長(この間、総合研究大学院大学教授、放送大学客員教授を兼任)、奈良大学文学部教授などを歴任する。考古学による日本の古代国家・古代文化形成過程の解明を目指す。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E7%9F%B3%E5%A4%AA%E4%B8%80%E9%83%8E
 (注12)「時期不明 – 卑弥呼が死に、墓が作られた。男の王が立つが、国が混乱し互いに誅殺しあい千人余が死んだ。卑弥呼の宗女「壹與<(とよ
or
いよ)>」を13歳で王に立てると国中が遂に鎮定した。倭の女王壹與は掖邪狗ら20人<に、>[266年にその前年に成立したばかりの晋]<の>都に向か<わせ、>男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%91%E5%BC%A5%E5%91%BC 前掲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%AA%E9%AD%8F%E5%80%AD%E7%8E%8B 前掲

 この革新された政治連合が、3世紀後半以後のヤマト政権にほかならない」と述べている。
 その根拠となるのが・・・7世紀末の藤原宮に匹敵する巨大な遺跡であ<る>・・・奈良県の纒向<(まきむく)>遺跡<(注13)>であり、・・・武光誠<(コラム#9115以下)>は、纒向遺跡こそが「大和朝廷」の発祥の地にほかならないとしている。・・・

 (注13)「3世紀初めに突然現れた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BA%92%E5%90%91%E9%81%BA%E8%B7%A1

⇒このフェーズの始期は、いわゆる古墳時代・・「現在のところ一般的に、古墳時代は3世紀半ば過ぎから7世紀末頃までの約400年間を指すことが多い。」・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E6%99%82%E4%BB%A3
の始期と一致しているわけです。(太田)

 倭では、邪馬台国と狗奴国の抗争がおこり、247年(正始8年)には両国の紛争の報告を受けて倭に派遣された帯方郡の塞曹掾史張政<(さいそうえんしちょうせい)>が、檄文をもって女王を諭した、としている。・・・
 ヤマト王権の成立にあたっては、前方後円墳の出現とその広がりを基準とする見方が有力である。その成立時期は、研究者によって3世紀中葉、3世紀後半、3世紀末、4世紀前葉など若干の異同はある。ヤマト王権は、近畿地方だけではなく、各地の豪族をも含めた連合政権であったとみられる一方、大王を中心とした中央集権国家であったと見る意見もある。・・・

⇒邪馬台国を盟主とする国家連合からヤマト王権を首長とする連合政権国家への移行過程は、いまだ、判然としていないようです。(太田)

 文献資料においては、上述した266年の遣使を最後に、以後約150年近くにわたって、倭に関する記載は<支那>の史書から姿を消している。・・・

⇒国家連合時代には、盟主国とその他の諸国との関係が不安定であり、支那の大国によってかかる関係についての正統性、とりわけ朝鮮半島南端を領域としていることの正統性、を、盟主国の首長が賦与される必要があったけれど、その後、まがりなりにも統一国家が成立したので、その必要性が薄れた、ということでしょう。
 壹與が晋に「朝貢」したのは、前代の卑弥呼が魏にお世話になったので、魏の最後の皇帝から「禅譲」を受けて成立したところの、魏の後継王朝である晋(注14)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%8B_(%E7%8E%8B%E6%9C%9D)
に、王朝交代の慶賀使を送った
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%AA%E9%AD%8F%E5%80%AD%E7%8E%8B 前掲
だけのことではないでしょうか。(太田)

 (注14)この時点では、三国のうち、蜀は滅びていたが、呉はまだ健在だった。呉が滅びるのは280年だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F_(%E4%B8%89%E5%9B%BD) 前掲
 ちなみに、晋(後に西晋と呼ばれることになる)が弱体化して、東晋・・東晋時代の華北は五胡十六国時代とも称される・・、となるのは317年であり、その東晋が滅びるのは420年だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%8B_(%E7%8E%8B%E6%9C%9D)

 定型化した古墳は、おそくとも4世紀の中葉までには東北地方南部から九州地方南部にまで波及した。これは東日本の広大な地域がヤマトを盟主とする広域連合政権(ヤマト王権)に組み込まれたことを意味する。ただし、出現当初における首長墓とみられる古墳の墳形は、西日本においては前方後円墳が多かったのに対し、東日本では前方後方墳が多かった。こうして日本列島の大半の地域で古墳時代がはじまり、本格的に古墳が営まれることとなった。
 以下、古墳時代の時期区分としては通説のとおり、次の3期を設定し、
古墳時代前期 … 3世紀後半から4世紀末まで
古墳時代中期 … 4世紀末から5世紀末
古墳時代後期 … 6世紀初頭から7世紀前半
 この区分<が、>さらに、前期前半(4世紀前半)、前期後半(4世紀後半)、中期前半(4世紀末・5世紀前半)、中期後半(5世紀後半)、後期前半(6世紀前半から後葉)と細分<され>・・・る。後期後半(6世紀末葉・7世紀前半)は政治的時代名称としては飛鳥時代の前半に相当する。
 古墳には、前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳などさまざまな墳形がみられる。数としては円墳や方墳が多かったが、墳丘規模の面では上位44位まではすべて前方後円墳であり、もっとも重要とみなされた墳形であった。前方後円墳の分布は、北は山形盆地・北上盆地、南は大隅・日向におよんでおり、前方後円墳を営んだ階層は、列島各地で広大な領域を支配した首長層だと考えられる。
 前期古墳の墳丘上には、弥生時代末期の吉備地方の副葬品である特殊器台に起源をもつ円筒埴輪<(注15)>が立て並べられ、表面は葺石<(注16)(ふきいし)>で覆われたものが多く、また周囲に濠をめぐらしたものがある。

 (注15)「朝顔形円筒埴輪と普通円筒埴輪との総称。前者は墓前に供える壺(つぼ)とそれをのせる器台とが畿内(きない)で結合、形式化したもので、後者は器台が別個に変容したもの。・・・高さ60~100センチ。墳丘上に・・・古墳の外周や埋葬部などを囲む・・・垣根のように同心円状にめぐらせた。」
https://kotobank.jp/word/%E5%86%86%E7%AD%92%E5%9F%B4%E8%BC%AA-38304
 (注16)「古墳の墳丘の表面を葺いている石。・・・礫は拳大から人頭大の河原石がよく使われ,付近の河川から運ばれた。・・・墳丘の斜面だけに用い、平坦(へいたん)面には使わない場合が多く、盛土の流失を防ぐ施設と考えられる。」
https://kotobank.jp/word/%E8%91%BA%E7%9F%B3-123832

 副葬品としては三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡などの青銅鏡や碧玉製の腕輪、玉(勾玉<(注17)>・管玉<(注18)>)、鉄製の武器・農耕具などがみられて全般に呪術的・宗教的色彩が濃く、被葬者である首長は、各地の政治的な指導者であったと同時に、実際に農耕儀礼をおこないながら神を祀る司祭者でもあったという性格をあらわしている(祭政一致)。

 (注17)「その形状は、元が動物の牙であったとする説や、母親の胎内にいる初期の胎児の形を表すとする説などがある。・・・日本の縄文時代の遺跡から発見されるものが最も古い。朝鮮半島へも伝播し<た。>・・・弥生時代中期に入ると、前期までの獣形勾玉、緒締形勾玉から洗練された定形勾玉と呼ばれる勾玉が作られ始め、古墳時代頃から威信財とされるようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%BE%E7%8E%89
 (注18)「管玉(くだたま)は管状になっている宝飾装身具の部品、ビーズの一形態で、管に糸を通して腕飾り(ブレスレット)や首飾り(ネックレス)などとして用いられる。・・・形状は、縄文時代のものが側面がやや楕円形を呈するのに対し、弥生時代以降のものは正円筒形をなしている。・・・用途としては、首飾り、胸飾り、腕飾りなどの装身具としてであるが、縄文時代など時代をさかのぼるにつれ、美しく飾るというよりはむしろ呪術的な意味合いが強かったものと考えられる。・・・<この種のものは、支那等にも見られる。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%A1%E7%8E%89

⇒私には、祭政一致云々というよりは、玉は縄文性(及びその弥生人による承継)の象徴、鉄製の武器・農耕具は弥生性の象徴、のように思われます。(太田)

 列島各地の首長は、ヤマトの王の宗教的な権威を認め、前方後円墳という、王と同じ型式の古墳造営と首長位の継承儀礼をおこなってヤマト連合政権に参画し、対外的に倭を代表し、貿易等の利権を占有するヤマト王から素材鉄などの供給をうけ、貢物など物的・人的見返りを提供したものと考えられる。
 ヤマト連合政権を構成した首長のなかで、特に重視されたのが・・・吉備<(後出)>のほか北関東の地域であった。
 毛野地域とくに上野には大規模な古墳が営まれ、重要な位置をしめていた。また九州南部の日向や陸奥の仙台平野なども重視された地域であったが、白石太一郎<(前出)>はそれは両地方がヤマト連合政権にとってフロンティア的な役割をになった地域だったからとしている。

⇒当然のことながら、これらの他に、もう一つ、北九州から朝鮮半島南部にかけても、ヤマト王権のフロンティアがあったわけです。
 但し、後には、ヤマト王権にとってのフロンティアは、陸奥だけになります。(後出)(太田)

—————————————————————————————–
[連合政権国家時代の中期]

 「中期古墳の際だった傾向としては、何といってもその巨大化である。
 とくに5世紀前半に河内平野(大阪平野南部)に誉田山古墳(伝応神陵、墳丘長420メートル)や大山古墳(伝仁徳陵、墳丘長525メートル)は、いずれも秦の始皇帝陵とならぶ世界最大級の王墓であり、ヤマト王権の権力や権威の大きさをよくあらわしている。
 また、このことはヤマト王権の中枢が奈良盆地から河内平野に移ったことも意味しているが、水系に着目する白石太一郎は、大和・柳本古墳群(奈良盆地南東部)、佐紀盾列古墳群(奈良盆地北部)、馬見古墳群(奈良盆地南西部)、古市古墳群(河内平野)、百舌鳥古墳群(河内平野)など4世紀から6世紀における墳丘長200メートルを越す大型前方後円墳がもっぱら大和川流域に分布することから、古墳時代を通じて畿内支配者層の大型墳墓は、この水系のなかで移動しており、ヤマト王権内部での盟主権の移動を示すものとしている。
 また、井上光貞も河内の王は入り婿の形でそれ以前のヤマトの王家とつながっていることをかつて指摘したことがあり、少なくとも、他者が簡単に取って替わることのできない権威を確立していたことがうかがわれる。
 いっぽう、4世紀の巨大古墳が奈良盆地の三輪山付近に集中するのに対し、5世紀代には河内に顕著に大古墳がつくられたことをもって、ここに王朝の交替を想定する説、すなわち「王朝交替説」がある。つまり、古墳分布という考古学上の知見に、記紀の天皇和風諡号の検討から、4世紀(古墳時代前期)の王朝を三輪王朝(「イリ」系、崇神王朝)というのに対し、5世紀(古墳時代中期)の河内の勢力は河内王朝(「ワケ」系、応神王朝もしくは仁徳王朝)と呼ばれる。この学説は水野祐によって唱えられ、井上光貞の応神新王朝論、上田正昭の河内王朝論などとして展開し、直木孝次郎、岡田精司らに引き継がれた。
 しかし、この王朝交替説に対してもいくつかの立場から批判が出されているのが現状である。
 その代表的なものに「地域国家論」がある。
 また、4世紀後半から5世紀にかけて大和の勢力と河内の勢力は一体化しており、両者は「大和・河内連合王権」ともいうべき連合関係にあったため王朝交替はなかったとするのが和田萃<(注19)>である。

 (注19)あつむ(1944年~)。「京都大学文学部卒業、1972年同大学院文学研究科(国史学専攻)博士後期課程中退、京都大学助手、1975年京都教育大学講師、1977年助教授、1988年教授、2007年定年退任、名誉教授。1997年「日本古代の儀礼と祭祀・信仰」で京大文学博士。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E7%94%B0%E8%90%83

 大和川流域間の移動を重視する白石太一郎も同様の見解に立つ。

⇒私は、和田/白石説ノリだ。(太田)

 5世紀前半のヤマト以外の地に目を転ずると、日向、筑紫、吉備<(注20)>、毛野<(注21)>、丹後などでも大きな前方後円墳がつくられた。

 (注20)「上代、山陽道にあった国。のち、備前(びぜん)・備中(びっちゅう)・備後(びんご)・美作(みまさか)の四国となる。現在の岡山県全域と広島県東部。・・・
 吉備は古代、畿内や出雲国と並んで勢力を持っていたといわれ、巨大古墳文化を有していた。・・・
 この地方独特の特殊器台・特殊壺は、綾杉紋や鋸歯紋で飾られ、赤く朱で塗った大きな筒形の土器で、弥生時代後期の後半(2世紀初めから3世紀中頃まで)につくられ、部族ごとの首長埋葬の祭祀に使われるようになり、弥生墳丘墓(楯築弥生墳丘墓)や最古級の前方後円墳(箸墓古墳・西殿塚古墳)から出土しており、後に埴輪として古墳時代に日本列島各地に広まった。・・・
 5世紀に雄略天皇は吉備下道臣前津屋の乱(463年)と吉備上道臣田狭の乱(463年)の反乱鎮圧を成功させてヤマト王権の優位を決定づけた。さらに雄略の死の直後には、吉備稚媛(田狭の元妻で雄略の妃)と星川稚宮皇子(雄略と稚媛の息子)が反乱を起こしたため清寧天皇はこれを鎮圧し(479年)、またしても吉備の勢力を削減させている。
 6世紀半ばからは巨大な石で構成した横穴式石室を持つ円墳が造られた。吉備は弥生時代からの塩の生産地であり、さらに6世紀後半には鉄生産が開始された。造山古墳、作山古墳は築造当時の日本列島で最大級、現存する日本の古墳のうちでも第4位及び9位の規模をもち、吉備地方の繁栄とこの地の豪族の力を示すものである。・・・
 吉備国守、吉備大宰、吉備総領は、日本書紀、風土記、続日本紀に散見される官職で、吉備国分割の前後に設置されたらしい。・・・大宰府の前身とおぼしき筑紫大宰とともに、中央から派遣され、管下の複数の国の外交と軍事を統括する任務を負ったものと推測される。」
https://kotobank.jp/word/%E5%90%89%E5%82%99-242405
 (注21)けの(けぬ)。「上野(こうずけ)・下野(しもつけ)両国の古称。はじめ、毛野を上毛野(かみつけの)・下毛野(しもつけの)の2国に分け、霊亀元年(715)国名を2字と定めてから上野・下野と記すようになった。・・・地名を冠した上毛野氏・下毛野氏は崇神(すじん)天皇皇子豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)を始祖とする伝承を伝えて<いる。>」
https://kotobank.jp/word/%E6%AF%9B%E9%87%8E-490877

 なかでも岡山市の造山古墳(墳丘長360メートル)は墳丘長で日本第4位の大古墳であり、のちの吉備氏へつながるような吉備の大豪族<(注22)>が大きな力をもち、鉄製の道具も駆使して、ヤマト政権の連合において重要な位置をしめていたことがうかがわれる。

 (注22)「吉備地方には吉備氏のもとに大伯氏、上道氏、三野氏、下道氏、加夜氏(賀陽氏、賀夜氏、香屋氏)、笠臣氏、小田氏があった。吉備の国造の場合、多く(上道・三野・下道・加夜・笠)が臣(オミ)姓を称している。この中の下道氏と笠氏は、後に朝臣の姓(かばね)を名乗る(吉備朝臣)。奈良時代に日本をリードした学者・政治家の吉備真備・・名前を御存じの方も多いと思いますが、忘れないようにしておいてください・・は下道氏である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%82%99%E5%9B%BD 前掲

 また、このことより、各地の豪族はヤマトの王権に服属しながらも、それぞれの地域で独自に勢力をのばしていたと考えられる。
 先述した「地域国家論」とは、5世紀前半においては吉備・筑紫・毛野・出雲など各地にかなりの規模の地域国家があり、そのような国家の1つとして当然畿内にも地域国家「ヤマト」があって並立ないし連合の関係にあり、その競合のなかから統一国家が生まれてくるという考えである。
 このような論に立つ研究者には佐々木健一<(注23)>らがいる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%82%99%E5%9B%BD

 (注23)不明。

⇒私は、この佐々木らの説に拠っているわけだ。
 なお、このくだりで、「出雲」を「地域国家」のワンオブゼムとしていることには、私は問題があると思っている(後述)。(太田)

 5世紀初めはまた、渡来人(帰化人)の第一波のあった時期であり、『日本書紀』・『古事記』には、王仁、阿知使主、弓月君(東漢氏や秦氏の祖にあたる)が応神朝に帰化したと伝えている。須恵器<(注24)>の使用がはじまるのも、このころのことであり、渡来人がもたらした技術と考えられている。

 (注24)「日本で古墳時代から平安時代まで生産された陶質土器(炻器)である。・・・
 高温土器生産の技術は、中国江南地域に始まり、朝鮮半島に伝えられ・・・百済から伽耶を経て日本列島に伝えられたと考えられている。・・・
 縄文土器から土師器<(後出)>までの土器は、日本列島古来の技法である「輪積み(紐状の粘土を積み上げる)」により成形され、野焼きで作られていた。このため焼成温度が800~900度と低く、強度があまりなかった。また、酸化焔焼成(酸素が充分に供給される焼成法)となったため、表面の色は赤みを帯びた。それに対し、須恵器は全く異なる技術(轆轤技術)を用いて成形し、窖窯(あながま)と呼ばれる地下式・半地下式の登り窯を用いて1100度以上の高温で還元焔焼成されることで強く焼締まり、従来の土器以上の硬度を得た。閉ざされた窖窯の中では酸素の供給が不足するが、高熱によって燃焼が進む。燃料からは、酸素が十分なら二酸化炭素と水になるところ、一酸化炭素と水素が発生する。これが粘土の成分にある酸化物から酸素を奪う、つまりは還元することで二酸化炭素と水になる。特徴的な青灰色は、粘土中の赤い酸化第二鉄が還元されて酸化第一鉄に変質するために現れる。基本的には釉薬をかけない。」(写真も見よ。)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E6%81%B5%E5%99%A8

 5世紀にはいって、再び倭国が<支那>の史書にあらわれた。そこには、5世紀初めから約1世紀にわたって、讃・珍・済・興・武の5人の倭王があいついで<支那>の南朝に使いを送り、皇帝に対し朝貢したことが記されている。倭の五王は、それにより皇帝の臣下となり、官爵を授けられた。<支那>皇帝を頂点とする東アジアの国際秩序を冊封体制と呼んでいる。これは、朝鮮半島南部諸国(任那・加羅)における利権の獲得を有利に進める目的であろうと考えられており、実際に済や武は朝鮮半島南部の支配権が認められている。

⇒私は、本土内の出雲「国」(後出)との緊張関係に対処するという目的もあったのではないか、と想像している。(太田)

 倭王たちは、朝鮮半島での支配権を南朝に認めさせるために冊封体制にはいり、珍が「安東将軍倭国王」(438年)、済がやはり「安東将軍倭国王」(443年)の称号を得、さらに済は451年に「使持節都督六国諸軍事」を加号されている。462年、興は「安東将軍倭国王」の称号を得ている。
 このなかで注目すべき動きとしては、珍や済が<支那>の皇帝に対し、みずからの臣下への官爵も求めていることが揚げられる。このことはヤマト政権内部の秩序づけに朝貢を役立てたものと考えられる。
 475年、高句麗の大軍によって百済の都漢城が陥落し、蓋鹵王はじめ王族の多くが殺害されて、都を南方の熊津へ遷した。こうした半島情勢により「今来漢人(いまきのあやひと)」と称される、主として百済系の人びとが多数日本に渡来した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%83%88%E7%8E%8B%E6%A8%A9 前掲

⇒雄略天皇の時代における渡来人第二波(後出)も参照。
 拡大弥生時代には、日本は、(恐らくは弥生時代に引き続き、)渡来人を積極的に受け入れ続けていた、ということだ。(太田)
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 ・・・石上<(いそのかみ)>神宮(奈良県)につたわる七支刀<が>製作<されたのは>、銘文により369年のこととされる。
 <この刀は、>356年に馬韓の地に建国された百済王の世子(太子)が倭国王のためにつくったものであり、これはヤマト王権と百済の王権との提携が成立したことをあらわ<している>。なお、七支刀が実際に倭王に贈られたことが『日本書紀』に<に記されてお>り、それは干支二順繰り下げで実年代を計算すると372年のこととなる。

⇒七支刀は6本の枝刃を持つ特異な形をしている祭祀的な大刀
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E6%94%AF%E5%88%80
であって大刀でも太刀ではない(いずれも後出)ことを記憶にとどめておいてください。(太田)

 いずれにせよ、倭国は任那諸国とりわけ任那(金官)と密接なかかわりをもち、この地に産する鉄資源<(注25)>を確保した。そこはまた生産技術を輸入する半島の窓口であり、勾玉、「倭式土器」(土師器)<(注26)>など日本列島特有の文物の出土により、倭の拠点が成立していたことが確認された。

 (注25)「魏志倭人伝の時代、ほとんどの鉄は狗邪韓国から輸入されていたと考え<られる。>
 倭の国々が狗邪韓国から鉄を輸入しだしたのは、青銅器とほぼ同じ頃<だっ>た。・・・
 <鉄の加工能力も高かった>狗邪韓国<で>は倭の国々と異なり、早い時期から非常に強い武力を有するに至ったと考えられ、・・・小さな国が緩い統率のもと、独自に生き延びていくという結果を産むことにな<っ>た。
 狗邪韓国である金官伽耶が滅ぶのは、534年<だ>。・・・
 <また、倭の国々には>馬がいなかった<のに対し、>狗邪韓国では馬が存在し、身分の高い兵士は馬に乗って戦<っ>た。・・・
 馬の文化を持ち、鉄を武器に持つ狗邪韓国<は、>・・・しかし、・・・海の向こうの倭を攻め<なかっ>た<し、>倭も狗邪韓国の馬と鉄の文化を直ぐには真似ようとし<なかっ>た。」(喜多暢之『改訂版
魏志倭人伝を探る』(2012年)より)
https://books.google.co.jp/books?id=jYqdlv_8RYMC&pg=PT25&lpg=PT25&dq=%E9%87%91%E5%AE%98%EF%BC%9B%E9%89%84&source=bl&ots=pe_m8_wXWg&sig=ACfU3U3Y2TnoFXUpdlQ9Xzj9G2kasggpzQ&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwiCn9jA96XnAhXRNKYKHTGpD6EQ6AEwB3oECAoQAQ#v=onepage&q=%E9%87%91%E5%AE%98%EF%BC%9B%E9%89%84&f=false 
 喜多暢之(1959年~)は、埼玉大学政策科学研究科卒。株式会社歴史探求社代表取締役。
https://www.amazon.co.jp/%E5%96%9C%E5%A4%9A%E6%9A%A2%E4%B9%8B/e/B00A86ABM8
 (注26)はじき。「弥生土器の流れを汲み、古墳時代から奈良・平安時代まで生産され、中世・近世のかわらけ(土師質土器)・焙烙(ほうろく)に取って代わられるまで生産された素焼きの土器である。須恵器と同じ時代に並行して作られたが、実用品としてみた場合、土師器のほうが品質的に下であった。埴輪も一種の土師器である。」(写真も見よ。)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%B8%AB%E5%99%A8 

⇒「注25」の叙述を信じるとすれば、長期にわたる内戦を経て小国連合を成立させ、更にもう一戦(ひといくさ)を経て連合政権国家を成立させた日本において、どうやら、活性化した弥生性は、その都度、急速に休眠状態に戻ってしまったらしい、という感があります。
 しかし、そんな日本なら、と、日本列島に侵攻しようという勢力が現れなかった理由として想像されるのは、日本の縄文性に立脚した社会や国制に対して、朝鮮半島諸国等が畏怖に近い敬意を抱いていたのではないか、ということです。
 (習近平主席ら歴代中共指導者達の対日観の古代版をこれら諸国等が抱いていた、と仮定するわけです。
 仮にそうだとしても、歴代中共指導者達の場合は、日本の縄文性だけでなく、弥生性にも敬意を抱いているので、そこは違いますが・・。)(太田)

 いっぽう半島北部では、満州東部の森林地帯に起源をもつ・・・国家<である>高句麗<(注27)>が、313年に楽浪郡・帯方郡に侵入してこれを滅ぼし、4世紀後半にも南下をつづけた。

 (注27)「紀元前後に・・・扶余(ふよ)族の朱蒙(しゅもう)が建国。朝鮮半島北部を中心に領土を広げ、4世紀末、広開土王のとき最も栄えた。」
https://kotobank.jp/word/%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97-61917
 「朱蒙<は、>・・・夫余王に養われた。朱蒙は弓馬の術に優れていたので,夫余の王子たちに嫌われて南方に逃れ,鴨緑江の支流佟佳江のほとりに都して,高句麗を建国したという。・・・」
https://kotobank.jp/word/%E6%9C%B1%E8%92%99-78283#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89
 「夫余 Puyŏ<は、>・・・ツングース系ともいわれるが定説がない。・・・
 今の長春・農安付近を中心に松花江流域を版図とし,1―3世紀が全盛期。鮮卑や・・・高句麗と対立し,3世紀後半から衰退。494年勿吉(もっきつ)靺鞨(まっかつ)に滅ぼされた。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%AB%E4%BD%99-866209

 <支那>吉林省集安に所在する広開土王碑には、高句麗が倭国に通じた百済を討ち、倭の侵入をうけた新羅を救援するため、400年と404年の2度にわたって倭軍と交戦し勝利したと刻<まれて>いる。・・・
 4世紀末から5世紀全体を通じて<は>、古墳時代の時期区分では中期とされる。この時期になると、副葬品のなかで武器や武具の比率が大きくなり、馬具もあらわれて短甲や冑など騎馬戦用の武具も増える。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%83%88%E7%8E%8B%E6%A8%A9 前掲

⇒思い切った想像をすれば、金官伽耶が、新羅攻略を決意し、しぶるヤマト連合政権中枢をなんとか説得し、百済と共に新羅に攻め入ったまではよかったものの、高句麗の軍事介入を招くこととなり、足掛け5年にわたった長期戦の末に敗れ去ってしまった、ということではないでしょうか。
 これは、日本にとって、統一国家を形成してから、対外戦争において喫した初めての大敗北でしたが、ヤマト王権側は、反省しつつも、武器や武具の構成を若干変えたくらいにとどめ、自分達の本拠地たる日本列島における軍事体制そのものの刷新までには踏み込まなかったように思われます。(太田)

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[日本の刀剣]

 「佐原真・松木武彦<(注28)>の両氏は、縄文時代は弥生時代に比べて殺傷人骨例が圧倒的に少なく、人を指向した「武器」が存在しないことや、水稲耕作などの生産形態や社会構造などから・・・<日本における>戦争<の>・・・起源を弥生時代に求めている。」
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/633/633PDF/uchino.pdf

 (注28)1961年~。阪大文(国史)卒、同大博士課程中退、岡山大を経てっ国立歴史民俗博物館教授。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%9C%A8%E6%AD%A6%E5%BD%A6

⇒佐原のこの指摘は、あくまでも、戦争が全くなかった縄文時代と比べてのものであるところ、弥生人の故郷は前述したように支那南部であった可能性が高く、そうだったとすれば、渡来の際に、曲刀(南支那の曲刀については後出)を持参したはずだがその痕跡がない、ということは、縄文人に対してはもとより、渡来弥生人の間でも、故郷にいた時に比べれば、戦争の頻度や規模が小さかったために、それが余り使われることがなく、ついにはその存在すら忘れ去られてしまった、とも考えられる。(太田)

 「日本における<、殺傷用の刀剣である>直刀<(ちょくとう)>の出現は、弥生時代の後期中葉に遡り、墳丘墓などの遺跡から西日本を中心に出土している・・・が、<その>多くは<支那>大陸(漢)からの舶載品と考えられている。
 鉄製の刀剣が日本で生産されるようになったのは古墳時代以降だが、古墳時代前半代は、直刀[・・刀は片刃の刀剣・・]よりも・・・剣[・・諸刃(両刃)の刀剣・・]が多かった。・・・剣は5世紀末までに廃れ、古墳時代後期以降は直刀が用いられた。・・・

⇒当初、鉄製の刀剣が(朝鮮半島南部を含む)日本で生産されなかったのは、依然、戦争の頻度や規模が大したことはなかったため、そこまでする必要がなかったからだと考えられ、また、生産されるようになっても、直刀と剣の両方が使われるという時期があったところ、直刀だけ使われるようになった時点で、ようやく「まともな」戦争が行われるようになった、ということではなかろうか。(太田)

 <なお、>古墳前中期で主流<だったのは、>・・・両手打ち<であり、>・・・片手打ち<ではないので、戦士は騎乗していなかったことが分かる。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%A3 ([]内)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E5%88%80
 「他方、蝦夷は蕨手刀と呼ばれる直刀を使用しており、毛抜形蕨手刀や毛抜形太刀を経て日本刀へと進化していった。」(上掲)
 「蕨手刀(わらびてとう<)の>)・・・初期の形状は柄と刀身は直線的である(直刀)<が、>・・・9世紀後半ごろとされる蕨手刀には刀身に反りがあるものが確認されている。・・・彎刀の形状に近くなったのは騎馬戦が盛んになったためと下向井龍彦は指摘している。・・・平安中期に差し掛かると蕨手刀は姿を消し、毛抜形太刀<(けぬきがたたち)>や毛抜形刀が生まれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%95%A8%E6%89%8B%E5%88%80
 「まず、蕨手刀の柄に透かしをつけた毛抜形蕨手刀に改良された。これは出土状況などから9世紀初めに蝦夷自身の手によって改良されたものと見られている。この柄の透かしによって、握りやすくなり、柄と刀が一体であった蕨手刀の弱点である斬撃時の衝撃を緩和させることに成功している。
 さらに、毛抜形蕨手刀の柄頭から特徴的であった蕨形の装飾が消えて毛抜形刀(別名:舞草刀)となる。柄頭の装飾が消えたことからも、実用性に重きが置かれていく過程が分かる。この毛抜形刀についても、蝦夷が9世紀末までに開発したものと考えられている。
 この毛抜形刀の刀身をさらに長くして70センチ近くに達したものが毛抜形太刀<(注29)>である。

 (注29)日本刀。「日本刀は「折れず、曲がらず、よく切れる」といった3つの相反する性質を同時に達成することを追求しながら作刀工程が発達してきたと考えられている。「折れず、曲がらず」は材料工学においての強度と靭性の両立に相当する。両者の均衡を保つことは高度な技術の結果である。また「よく切れる」と「折れず」の両立も難しい。これについては刃先は硬く、芯に向かうと硬さが徐々に下がるいわゆる傾斜機能構造を持つことで圧縮残留応力を刃先に発生させて実現されている。・・・
 他の刀剣と比べ柄が長く、刃の単位長さ当たりの密度が低いわけではないが、両手で扱う刀剣の中では最も軽量な部類に入る。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%88%80
 「日本刀のように、両手で扱う刀・・・は世界的に見ても特殊なものだ」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%88%80

⇒日本列島内のヤマト王権の勢力圏外にあった蝦夷の刀剣が技術革新を重ねていった、ということは、蝦夷が縄文人だったとされている(典拠省略)ことを想起すれば異常なことである、と、私は思う。これは重要なヒント(後述)であると言えよう。(太田)

 蕨手刀から毛抜形刀までは、東北蝦夷によって成立したものだが、この毛抜形太刀は、これらの刀を参考に内国で開発された。最古のものは、長野県塩尻市宗賀で出土したもので、10世紀のものと推定されている。出土刀も、神社に奉納されていた伝世刀も、全て関東以西である。突き刺す直刀と違い、斬ることに特化していった蕨手刀系統の刀は、馬上での疾駆斬撃戦に有利であった。そのため、毛抜形刀は内国の武人にも好まれたものとみられる。毛抜形刀から毛抜形太刀への飛躍は、9世紀末から10世紀前半の東国の乱<(注30)>の中で起こったものではないかと下向井龍彦<(注31)>・・・は考察している。

 (注30)「8世紀末から9世紀にかけて軍団が廃止され、常置の国家正規軍がなくなったことから地方の治安は悪化し、国衙の厳しい調庸取り立てに反抗した群盗の横行が全国的に常態化するようになっていた。特に東国では9世紀半ばから後半を通じて俘囚の反乱が相次ぎ、群盗の活動の活発化と相まって、治安悪化が顕著であった。朝廷はこれらの鎮圧のために軍事貴族層を国司として派遣するとともに、国衙に検非違使等を設置するなどの政策をとっていったが、群盗の活動は収まらず乱が発生したものである。
 乱の詳細は不明であるが、その鎮圧には10年余りかか・・・り、鎮圧後も、東国では「僦馬の党」の横行が顕著であるなど安定しなかった。
 これらの鎮圧過程で延喜年間に軍制の改革が進められ、国衙の軍事動員に対する規制が緩和された。従来は中央政府に発兵権があったが、国毎に警察・軍事指揮官として押領使を任命し、中央からの「追討官符」を受けた受領の命令で押領使が国内の武士を動員して反乱を鎮圧する体制に移行したとする説がある。
 また、坂東平氏の東国支配の要因ともなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E5%B9%B3%E3%83%BB%E5%BB%B6%E5%96%9C%E6%9D%B1%E5%9B%BD%E3%81%AE%E4%B9%B1
 しゅうまのとう。「律令制下において、地方から畿内への調庸の運搬を担ったのは郡司・富豪層であった。主に舟運に頼った西日本及び日本海沿岸に対し、馬牧に適した地が多い東国では馬による運送が発達し、これらの荷の運搬と安全を請け負う僦馬と呼ばれる集団が現れた。特に東海道足柄峠や東山道碓氷峠などの交通の難所において活躍したと見られている。
 一方で8世紀末から9世紀にかけて軍団が廃止され、常置の国家正規軍がなくなると地方の治安は悪化し、国衙の厳しい調庸取り立てに反抗した群盗の横行が常態化するようになっていた。僦馬は、これら群盗に対抗するため武装し、また自らも他の僦馬を襲い荷や馬の強奪をするようになった。この背景には当時の東国における製鉄技術の発展を指摘する見解がある。また、現在の東北地方から関東地方などに移住させられ、9世紀に度々反乱を起こした俘囚(朝廷に帰服した蝦夷)と呼ばれる人々も、移住先にて商業や輸送に従事しており、僦馬の先駆的存在であったと指摘する見解もある。彼らは徒党を組んで村々を襲い、東海道の馬を奪うと東山道で、東山道の馬を奪うと東海道で処分した。特に寛平~延喜年間には、899年・・・に足柄峠・碓氷峠に関が設置されたことが示すとおり僦馬の横行が顕著であった。
 これらの僦馬の党の横行を鎮圧したのは、平高望、藤原利仁、藤原秀郷らの下級貴族らであった。彼等は国司・押領使として勲功を挙げ、負名として土着し治安維持にあたった。
 近年、武士の発生自体を、東国での僦馬の党、西国での海賊の横行とその鎮圧過程における在地土豪の武装集団の争いに求め、承平天慶の乱についても、これらを鎮圧した軍事貴族の内部分裂によるとする見解が出されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%97%E3%82%85%E3%81%86%E9%A6%AC%E3%81%AE%E5%85%9A
 (注31)1952年~。広島大文(国史)卒、同大博士課程修了。高校教諭を経て広島大。現在、同大教授。
https://www.hmv.co.jp/artist_%E4%B8%8B%E5%90%91%E4%BA%95%E9%BE%8D%E5%BD%A6_200000000216630/biography/

⇒この、刀剣に係る日本の「飛躍」は、自然発生的に起こったもの、とするのが下向井らが唱えている通説であるところ、そうではないのではないか、というのが私の問題意識だ(後述)。(太田)

 毛抜形太刀は急速に普及し、衛府官人(天皇親衛隊幹部)の制式太刀として採用されるに至っている。
 この太刀の登場により、律令的戦術から脱した武人・武官達は、中世の武士の原型を作ることとなる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E6%8A%9C%E5%BD%A2%E5%A4%AA%E5%88%80 

(参考)

 支那では、剣→直刀(匈奴系)→曲刀(南支那系)、と推移し、日本では、直刀→曲刀(日本系)、と推移した。↓

 「<支那>では・・・春秋時代から漢(紀元前202~220年)までは、武器は剣が主流とされてい・・・たが、<後漢(西暦25~220年)頃からそれまで主流だった剣に変わり直刀が用いられるようになる。これは騎馬民族である匈奴との騎乗戦闘が増え、すれ違いざまに刀剣を振るうことが多くなってきたため、従来の剣ではこのような使い方は向いておらず折れやすかったためである。以降武器としては刀が主流になっていく><。この>直刀ブームは唐(618~907年)まで続<く>・・・。
 日本<の>・・・古墳時代から平安初期にかけて作られていた刀剣は真っ直ぐな刀身の直刀(ちょくとう)<だった>。
 この直刀は、<支那>の前漢の時代に誕生した刀剣が古墳時代<中期>に日本へ伝来し、その影響を受けてつくられた物ではないかと考えられてい<る>。・・・
 <他方、>春秋時代に呉(・・・現在の江蘇省の南部)の王が、反りのある鋭利な曲刀を鍛えさせたことが<あったが、支那>・・・の南方地域では、曲刀が青銅器時代から使用されてい・・・た。これは南方地域の環境が大きく関係してい<る>。現在の雲南省でも自然遺産が認定されているように、南方地域は古くから広大な山岳地帯。武器としてだけでなく、植物などを伐採して土地を切り開くための道具としても、曲刀が伝統的に使われていたの<だ>。
 剣や直刀の全盛期を迎えてもなお、南方の民族は、代々伝わる様式に倣い曲刀を使っていたため、南北朝時代にこの地域を領土とした南朝に、曲刀の伝統が受け継がれ、方々に広まっていったの<だ>。そして、南北朝の王朝は隋として統一され、およそ300年間続く唐の時代に、曲刀<(注32)>が国中に浸透してい<っ>た。

 (注32)中国刀。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%88%80#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Chinese_saber.jpg
 「「片手で扱う」、「柄が短い」<という特徴があり>、日本刀と比べると厚く造られるため、若干重いことが多い。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%88%80
 日本では中国刀の一種である柳葉刀を青龍刀と呼んでいるが誤用。本来の青龍刀とは、薙刀に似た長い柄の太刀である青龍偃月刀のことである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E9%BE%8D%E5%81%83%E6%9C%88%E5%88%80
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E9%BE%8D%E5%88%80

 さらに、宋の時代に入ると、湾曲した騎兵用サーベルで戦うモンゴル軍が<支那>を統一したことにより、曲刀は最盛期を迎え<る>。清の時代初期になると、日本から伝わった日本刀の全盛期がやって来<る>が、<支那>伝統の曲刀<も>廃れることなく、軍隊や民間、武術においても広く使われてい<っ>た。」
https://www.touken-world.jp/tips/7433/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%80 (<>内)

 ちなみに、古代ローマでは、細長剣→剣(ヒスパニア系)→直刀/太直剣(フン系)、と推移した。↓

 「<古代ローマでは、>ローマ軍団では長く細い剣を使用していた<が、>・・・大スキピオが第二次ポエニ戦争中にヒスパニア遠征を行った際に・・・「グラディウス・ヒスパニエンシス(gladius
hispaniensis、ヒスパニアの剣)」<後に>・・・グラディウス<
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A6%E3%82%B9_(%E6%AD%A6%E5%99%A8)#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Uncrossed_gladius.jpg
を>・・・導入した<。>・・・刃渡りは50cmほどで、柄まで入れて70cmほどと剣としては短い。刀身は肉厚・幅広の両刃で、先端は鋭角に尖っている。形状としては一般的な剣より幅広な形をしている。材質には、銑鉄と軟鉄が交ざった状態の合金鉄材を使用し、両方の優れた特性を得て、それ以前の同サイズの鉄剣と比べ破損しにくく切れ味が向上した。・・・
 剣闘士(ラテン語:gladiator グラディアートル、英語:gladiator
グラディエーター)の語源でもある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A6%E3%82%B9_(%E6%AD%A6%E5%99%A8)
 その後、フン(匈奴?)がもたらした直刀である、60cm長の長スクラマサクス(langseax=長いナイフ)
< https://www.pinterest.jp/johnsadventure/langseax/ >・・支那由来と目されていて、サルマタイ人も用いていた・・がゲルマン人やローマ帝国末期のローマ軍に採用された。
 フンは、約83cm長の[片手剣]シュパータ(spatha)
< https://en.wikipedia.org/wiki/Spatha#/media/File:Spatha_end_of_second_century_1.jpg >
も用いた。
 これは、バルテウス(bldric)
< https://en.wikipedia.org/wiki/Baldric#/media/File:AdamclisiMetope.jpg >
に吊るされたのではなく、剣帯(swordbelt)
< https://www.calimacil.com/products/louis-sword-belt >
に吊るされた。
https://en.wikipedia.org/wiki/Huns
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%83%89 ([]内)

 また、欧州/イギリスにおいては、片手剣(フン系)→サーベル(片手刀)(モンゴル系)、と推移した。↓

 欧州/イギリスでは、シュパータが、欧州やイギリスの騎士達によって、改造されつつ使われていく、という時代が長く続いた。
https://en.wikipedia.org/wiki/Spatha
 さて、地中海世界には、鎌形曲刀が昔からあったが、6世紀に、南シベリアでトルコ/モンゴル系の人々によって、プロト・サーベル(proto-sabre)・・やや湾曲した長い刀・・が生まれ、これが8世紀にはやや短くかつ軽くなって、本格的な騎兵用サーベルとなり、9世紀にはユーラシアのステップ地帯における常用武器となり、更に、マジャール人とトルコ系人を通じて東欧にもたらされ、そして、17世紀に西欧にもたらされた。
 剣身は直刀タイプ、曲刀タイプ、半曲刀タイプがあり、その用法はそれぞれ刺突、斬撃、その両方を兼用と大別できるが、小銃が発達するにつれて、直刀タイプは廃れていった。
 西欧におけるサーベル使用の最盛かつ最終期はナポレオン戦争頃だ。
https://en.wikipedia.org/wiki/Sabre 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB

⇒刀剣に関しては、技術革新は、基本的に東アジアで行われた、と言ってよさそうだ。
 で、日本だが、戦争がない時代が長く続いたこともあり、日本列島内外で「日本人」による戦争が行われるようになっても、刀剣のような主要な攻撃用装備の整備についても試行錯誤が続いたように見受けられる。
 その末に辿り着いたところの、日本刀、は、世界的に極めてユニークな存在だと言えよう。
 これは、ぎりぎり騎兵用として片手で扱うことが出来、対蝦夷騎兵や対朝鮮半島騎兵に対抗することが可能であると共に、日本には騎乗で移動できない傾斜地や原生林が多く、かつまた、架橋されていない箇所で中小河川を渡河しなければならないことも多く、更にまた、船や舟艇上で戦うこともしばしばあることから、歩兵として戦う場合には両手で扱って打撃力を奮うことも出来る、という欲張った狙いを追求した結果の産物ではないか、というのが私の仮説だ。
 いずれにせよ、こんな刀が標準装備になって明治維新まで推移したところ、その出発点は自然発生的なものではなかったのではないか、というのが私の問題意識である(後述)わけだ。(太田)
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[鎧]

〇日本

 「<日本の>甲冑・・・は、・・・日本刀の起源や剣術等の発祥も東北地方であることから推測して、東日本が発祥とされている。・・・北方系の札(さね)鎧<(注33)>と、南方系の板鎧<(注34)>が併用された・・・

 (注33)ラメラー・アーマー(Lamellar armour)。「レーム (Lame = 薄片
薄板)、甲片、小札等と呼ばれる小さな板に穴をあけた物を紐などでつなぎ合わせて作成されている。小札に革、青銅、鉄(鋼鉄)、木などを使い、紐革や絹、木綿、麻などの糸や金属のリベットでつなぐ。また、小札の材質を革にする場合、煮固めたり漆塗りにする事で硬度を増している。・・・紀元前900年~600年にかけて中近東のアッシリアで発達したと考えられている。中国では、戦国時代の遺跡から、いくつかの甲片からなる鉄鎧が発見されている。鎖帷子や小片鎧に比べて製造に高度な技術を要したが、より堅牢で防護性能に優れていたため、技術の進歩によって量産化されると鎖帷子や小片鎧よりも多用されるようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%A1%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%BC
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%A1%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%BC#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Karuta_tatami_dou_3.JPG ←写真
 (注34)「殷の時代<の>木や革を胸に当てる原始的な鎧<や>・・・周代<の>・・・青銅製の一枚板で造られた<鎧>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%A7
的なものか。

 まず、弥生時代<だが、>「組合式木甲」(前期末から中期中葉)と「刳抜式木甲」(前期末から古墳前期)といった木製甲
< https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E5%86%91#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Yayoi-armor.png >
があり、弥生前期末頃には半島系武器と共に甲冑の出現も確認される。
 <次いで、>古墳時代には、古墳の出土品として、「短甲」
< https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E5%86%91#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:KofunCuirass.jpg ←写真>
と呼ばれる帯状鉄板を革綴(かわとじ)ないし鋲留(びょうどめ)して組み立てる日本列島独自の形態のものが出現し、さらに古墳時代中頃からは、大陸の影響を受けた「挂甲」
< https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E5%86%91#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Asuka_Museum_Keik%C3%B4.jpg ←写真>
と呼ばれる甲(鎧)が出現する。なお、冑(兜)では衝角付冑・眉庇付冑などがある。挂甲は多量の小札(小鉄板)を紐で威した札甲で、形態こそ大きく異なるが、のちの大鎧(おおよろい)へとつながる可能性が指摘されている。
 [<但し、>古墳時代・・・から奈良時代まで生産され・・・た<ものの、>生産数は少なく諸国で年に各数領しか生産されていなかった。]
 <そして、>奈良時代には引き続き短甲・挂甲が使われ<たとされるが、>、・・・古墳時代のそれとは形態的に異なるものであったと考えられている。この他に、奈良時代中頃に遣唐使によって大陸から綿襖甲<(注35)>が持ち帰られ、各地の軍団にも導入される。

 (注35)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%BF%E8%A5%96%E7%94%B2#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Korean_Joseon_Dynasty_armour.jpg ←写真
 「天平宝字3年(759年)に第13次遣唐使が綿襖甲を持ち帰り、それを参考にして「唐国新様」として天平宝字6年(762年)正月に、東海道、西海道、南海道、各節度使の使料として各20250領を生産する事を大宰府に命じた。更に同年2月には1000領を作って鎮国衛府に貯蔵する事を命じている。
また、宝亀11年3月(780年)に勃発した宝亀の乱<(後出)>の際には征東軍に対して、5月に甲600領が支給され、7月に要請に応じて甲1000領と襖4000領が支給された。
この場合の甲とは鉄甲(挂甲や短甲)を指し、襖は綿襖甲を指すと思われる。
 その直後の8月には、「今後諸国で製造する甲冑は鉄ではなく革で作るように」という勅があり、この時点で綿襖甲の生産も停止された可能性があるが、延暦6年(787年)の記録に「蝦夷に横流しされた綿で敵が綿冑を作っている」という記述もあり、綿襖甲が日本で作られなくなった時期は判明していない。・・・
 特徴的なのは、形状を外套状にしている事と、外側から金属製の鋲を打って内側に鉄や革製の小札(こざね)を止めている事である。
単に鎧としてのみではなく防寒の機能もあるため、北東アジアの寒い地方では特に好まれた。
生産が比較的容易であるため主に下級兵士の鎧として使用されたが、モンゴル帝国の元から明代以降は上級者も含めて最も広く使用された。明に続く女真族の清でも同様である。朝鮮半島でも元の支配下にあった高麗後期から採用され、李氏朝鮮では全時代で上級者用として使用され続けた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%BF%E8%A5%96%E7%94%B2

 平安時代における武士の出現とともに・・・騎射戦がほぼ完成され・・・、大鎧
< https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E5%86%91#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Samurai_o-yoroi.jpg >
という<日本>独自の甲冑がみられるようになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E5%86%91
 「当時の弓は後世のような弓胎弓ひごゆみ(張り合わせの合成弓)ではないので力が弱い上に、兜に大きな吹返しがあるため、現代の弓道のように引き絞ることができず、できるだけ接近して敵を射る必要がありました。・・・
 大鎧は射戦の時は敵を左側に迎えて戦わなければなりませんでした。右側に敵を受けては弓が引きにくいからです。その折に左脇上部に隙ができるので、小さい楯状の鳩尾板がそこを塞いで防御します。
 一方、太刀打戦では敵を右側に受けて戦います。それは右手に持った太刀で左側の敵は切りにくいからです。その時に右の脇上部に隙ができるので、栴檀板がそこを塞ぎ防御します。栴檀板は鳩尾板のように板状ではなく足掻あがき、つまり伸縮性があります。それは弦を引く時に板状だと引っかかる恐れがあり、太刀打の際の複雑な腕と胴の動きに密着するからだと思われます。
 なお、古い時代の太刀打戦は片手で薙ぎ切るのが主流です。そのため太刀は柄が反っており、薙ぎ切りの曲線を描きやすいように作られています。また片手切りのため、柄は後世のもののように長くありません。柄が長くなったのは、正面に敵を迎えて両手で柄を握るようになってからです。
 ちなみに、弓を持つ左手を弓手ゆんで、右手は馬手めてといいます。」
https://costume.iz2.or.jp/column/489.html

⇒日本では、鎧のような主要防禦装備についても、主要攻撃装備の一つである刀剣と同様、試行錯誤が続いたように見受けられる。
 但し、試行錯誤の末に、大鎧ないし大鎧を簡略化したもの、が標準装備になったところ、大鎧は、見かけはともかく、(日本刀とは違って、)それほど、世界的に見てユニークなものではなく、以下を読めば分かるように、少なくとも支那の鎧には似通ったもののようだ。(太田)

〇支那

 「殷の時代に木や革を胸に当てる原始的な鎧が用いられるようになった。周代には同様の形式で、青銅製の一枚板で造られたものが出現した。春秋戦国時代に入ると、小さな長方形の札を革紐で縦横に綴った札甲、いわゆるラメラーアーマー
< https://new.qq.com/omn/20181105/20181105A1755E.html >
が一般的なものになり、以降<支那>甲冑の基本形式となった。
 札は革製のものと青銅製のものがあり、前者は一般の兵士が用い、後者は司令官や将校など上位の軍人が着用した。漢代には鉄製の鎧が普及し、楕円形の小札を隙間なく並べた魚鱗甲
< https://kknews.cc/news/4blrkx.html >
が出現した。中には腕を筒状の袖で覆う筒袖鎧
< https://twitter.com/chinaswordbot/status/1082052262317490176 >
と呼ばれるタイプのものもあった。また漢代には騎兵が軍の主力となり、敵の攻撃から足を守るために下半身を覆う鎧が現れた。魏晋南北朝時代になると、歩兵の装備が軽装化される一方、全身を鎧で覆った重装の騎兵が一般化した。中には胸部のみを一枚の鉄板で保護した明光鎧
< https://www.newton.com.tw/wiki/%E6%98%8E%E5%85%89%E9%8E%A7 >
もあり、唐代には上位の軍人が好んで使用した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%A7

〇古代ローマ・欧州/イギリス

 「紀元前4世紀頃にケルト人によってチェインメイル[(鎖帷子)]が発明されるが、製造に手間がかかったため貴族など一部の使用に限られた。やがてチェインメイルは紀元前3世紀頃からローマ軍によって使われるようになり、帝政時代の軍団兵の多くはチェインメイル
< https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%96%E5%B8%B7%E5%AD%90#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Roman_soldier_175_aC_in_northern_province.jpg >
を装備していた。中世になると鎖の量産技術が完全に確立したため、チェインメイルが<欧州>全域で装着されるようになり、十字軍時代の1250年頃まで使用された。この頃から、騎兵にとって歩兵から狙われやすい脚部、次いで腕部と、少しずつ鋼鉄板(プレート)が追加されるようになった。やがて全身を覆い出すようになってプレートアーマー
< https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%A7#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Late_medieval_armour_complete_(gothic_plate_armour).jpg >
として完成する。鋼鉄製の鎧は刀剣はもちろん、槍や矢もかなり防ぐことができた。そのため鎧の上からでも打撃を与えやすいメイス類や鎧を破壊するための爪(ピック)が普及した。プレートアーマーの欠点は、通気性に乏しく着用者が熱中症に陥りやすいこと、着用者の体格に適合していないと動きやすさが制限されること、そして可動部が破損・変形すると自由な動きが妨げられることである。

⇒日本の鎧が欧州/イギリスの鎧・・プレートアーマー的なもの・・にならなかったのは、そんなものでは「通気性に乏しく着用者が熱中症に陥りやす<かった>」のと、そもそもアジア大陸の東北部でそれが見られなかったから、ではなかろうか。
 アジア大陸の東北部、要は支那、の鎧がプレートアーマー的なものにならなかったのは、そんなものを着込んでいたら、支那北部・西部の(漢人化していない)遊牧民の騎馬兵の機動力に対処できなかったからではなかろうか。(太田)

 たとえばアジャンクールの戦いでは重装のフランス騎士団が泥に足をとられて軽装の英兵に惨敗している。
 重量の増加に合わせ軍馬は優れた運搬能力とスタミナを有しながら、それなりの速度も出せる大型の馬(デストリア)が使われるようになった。またバーディング(馬用の鎧)も頭や首を保護する簡易的な物から全身を覆うものへと強化されていった。
 現在プレートアーマーとして知られる装飾性の高い物は、騎士の戦場での重要性が低下した1400年以降に出現したものであり、騎士の役割りが、戦士としてより指揮官としての面が強くなり、身分を象徴するようになったことを反映している。・・・
 1500年代後半を境に、プレートアーマーで身体を覆う面積が少なくなっていき、半甲冑へと移行する。銃砲の発達に対抗するために重量を増したプレートアーマーに、着用者が耐えられなくなり、やむなく面積を減らす事で対応したのである。それにも限界があり、徐々にプレートアーマーは用いられなくなる。」(上掲)
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[倭・高句麗戦争を巡って]

 「399年、百済は以前の盟約を破り、倭と同盟を結んだので、好太王は平壌へ侵攻した。其処で、使者としてやって来た新羅の王の謁見を受けた、使者は倭軍が国境を越え新羅と戦闘を行っている<と>窮状を訴え、高句麗<(注36)>に臣従を誓った。好太王はその忠誠心を善として、救援を許した。

 (注36)「高句麗語をツングース系とする説明は広く普及し、しばしば用いられて<き>た。ただし、現代の言語学においてツングース系であることが確実である史上最古の言語は12世紀頃から登場する女真語であり、言語学見地からは高句麗語の言語系統がツングース系であることは証明されていない。このため「少なくとも言語学的にみた場合,女真以前の国家や民族については、『ツングース』という用語を控えるべき段階にある。」とする指摘がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97

 400年、高句麗王は新羅を助けるために5万の兵を送った。新羅の首都を包囲していた倭軍は高句麗軍が着くと撤退を開始した。高句麗軍は倭軍を追って任那加羅にある從拔城を攻めると、城の兵民は高句麗に降伏し、攻め落とした。倭軍は塩城を囲んだが、兵民の大半は倭への降伏を拒んだ。倭と同盟を結ぶ安羅軍は新羅城を攻め落とした。

 404年、倭の軍は突如帯方郡国境を超え侵攻した。高句麗王は平壌から兵を率いて進み、打ち破った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E3%83%BB%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97%E6%88%A6%E4%BA%89

⇒この頃の日本軍はどんなものだったのだろうか。
 その手がかりは、前出の大伴家持の長歌にある。
 つまり、国軍は物部氏を中心とした諸氏連合軍、ヤマト王権家軍は大伴氏を中心とした諸氏連合軍であった、と想像される、ということだ。
 既に申し上げたように、現在のイランが国軍と革命防衛隊の二本立てである(コラム#11044)のを思い出していただけば、当時の日本軍がそれほど変わった代物ではなかったことがお分かりになると思う。
 但し、イランの国軍は徴兵が中心、革命防衛隊は志願兵が中心、
https://en.wikipedia.org/wiki/Armed_Forces_of_the_Islamic_Republic_of_Iran
https://en.wikipedia.org/wiki/Ground_Forces_of_the_Islamic_Revolutionary_Guard_Corps
であるのに対し、この頃の日本軍は、国軍も天皇家軍も、どちらも、諸氏の私軍の私兵達から成り立っていた、という違いがある。
 なお、イランの場合も、成行でそうなったという部分があるよう(すぐ上の更に上の典拠)だが、ヤマト王権の場合もそうだったのではないか。
 この時のヤマト連合政権の首長は誰だったのだろうか。
 「天皇・・<当時は>「オオキミ」として存在が確実なのは、16代仁徳天皇」(山本博文「天皇125代と日本の歴史」學士會会報No.935
2019-II 33頁)で、「4世紀末から5世紀前半に実在したと見られる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87
ところ、私は、この、後世に言うところの、仁徳天皇、だったのではないか、と想像している。。
 すなわち、仁徳天皇は、ヤマト連合政権における首長権の強大化に成功し、仁政をひき、感慨工事を実施して田地を拡大し(上掲)、繁栄を謳歌していたまさにその時、金官伽耶と百済の慫慂を受け、気乗りしないまま、このような軍制のままで朝鮮半島へ軍勢を渡海させ、攻勢に出、高句麗に敗北を喫した、と、想像している次第だ。(太田)
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[応神天皇]

 「その実在性を否定する<説や>・・・仁徳天皇・・・<と>同一人物と考える説もある<が、>・・・御名に装飾性がなく(後述)『記紀』に記された事跡が具体的でなおかつ朝鮮の史書の記述に符合する部分も窺えることから・・・<仁徳天皇のように確実とまでは言えないけれど、>4世紀後半から5世紀初頭に実在した可能性が高いと見られている。・・・
 仲哀天皇・・・<の>皇子<で>母は・・・神功皇后<、その子が>・・・仁徳天皇<、ということになっている。>・・・
 応神天皇は後に男系断絶した仁徳天皇皇統と現在まで続く継体天皇皇統の共通の男系祖先である。そのため後世に皇祖神として奉られることになった。早くから神仏習合がなり八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と称され、神社内に神宮寺が作られ各地の八幡宮に祭られた。平安時代後期以降は清和源氏や桓武平氏など皇別氏族の武家が武功を立てる際に氏神として大いに神威を発揮したことで武神「弓矢八幡」として崇敬を集めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E7%A5%9E%E5%A4%A9%E7%9A%87

⇒応神天皇が、天照大神に次ぐ皇祖神としてだけではなく、武神としても崇敬を集めるようになった理由については、誰も指摘していないようだが、「即位15年8月、百済の阿花王(阿莘王)<または>・・・照古王(近肖古王)が牡馬と牝馬を献上し<た>」(上掲)から、すなわち、武士にとって不可欠な馬を日本に導入した人物であるからである、と、私は見ている(後述)。(太田)
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 「<南北朝時代の南朝の>宋<に対し>て五人の倭王の使者が貢物を持って参上し、宋の冊封体制下に入って官爵を求めたことが記されている。・・・
 <ちなみに、一回目は、宋ではなく、東晋に対して413年に朝貢した可能性があるが、確実なのは、宋への421年とされている。>
 遣使の目的は<支那>の先進的な文明を摂取すると共に、中華皇帝の威光を借りることによって当時のヤマト王権にまつろわぬ諸豪族を抑え、国内の支配を安定させる意図があったと推測される。倭王は自身のみならず臣下の豪族にまで官爵を望んでおり、このことから当時のヤマト王権の支配力は決して超越的なものではなく、まだ脆弱だったと見る向きもある。438年の遣使では倭王珍が「倭隋」なる人物ら13人に「平西・征虜・冠軍・輔国将軍」の除正を求めているが、この時珍が得た「安東将軍」は宋の将軍表の中では「平西将軍」より一階高い位でしかなく、倭王の倭国内における地位は盟主的な存在であった可能性が窺える。451年にも、やはり倭王済が23人に将軍号・郡太守号の称号を望んでいる。
 また朝鮮半島諸国との外交を有利に進め、なおかつ4世紀後半以降獲得した半島における権益に関して国際的承認を得ることも重要な目的であった。倭王達は宋に半島南部の軍事的支配権を承認してくれるよう繰り返し上申し、最終的には「使持節
都督 倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍
倭王」に任ぜられ、新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓についての公認を得たものの、百済に関してはついに認められなかった。この理由としては、宋が北魏を牽制するため戦略上の要衝にある百済を重視したこと、倭と対立する高句麗の反発を避けようとしたものと考えられる。また、倭王の将軍号は高句麗王・百済王と比較して常に格下であったが、これも同様に高句麗・百済の地政学的な重要性を考慮したものと思われる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E3%81%AE%E4%BA%94%E7%8E%8B

⇒倭・高句麗戦争での敗北を念頭に置けば、弥生性が脆弱であったところの、ヤマト連合政権は、軍制改革等による弥生性強化ではなく、支那の王朝、具体的にはこの場合は南北朝時代の南朝初代の宋、の柵封体制下に入るという弥縫策を講じることでお茶を濁した、ということではないでしょうか。(太田)

 (6)ヤマト王権フェーズIII:統一国家時代

  ア 両翼軍制時代

 そんな倭(日本)にも、ついに完全な統一国家時代が訪れます。↓

 「478年の遣使を最後として、倭王は1世紀近く続けた<支那>への朝貢を打ち切っている。21代雄略天皇は最後の倭王武に比定される人物だが、この雄略の実名と思しき名が刻まれた稲荷山古墳出土鉄剣の銘文では中華皇帝の臣下としての「王」から「大王」への飛躍が認められ、同様の江田船山古墳出土鉄剣<(注37)>には「治天下大王」の称号が現れている。

 (注37)もちろん太刀ではなく、大刀だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E8%8D%B7%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E5%87%BA%E5%9C%9F%E9%89%84%E5%89%A3 (埼玉県行田市)

 このことから、倭王が<支那>の冊封体制から離脱し自ら天下を治める独自の国家を志向しようとした意思を読み取る見方もある。」(上掲)
 「平群真鳥<(注38)(へぐりのまとり)>を大臣に、大伴室屋<(むろや)>と物部目<(め)>を大連に任じた<。>・・・

 (注38)「考古学的な見地からは、平群氏の奥津城とされる平群谷古墳群(平群町に所在)の変遷を考えると、同氏の台頭は6世紀中期以前には遡れないという。このことから、平群氏を6世紀後半の神手以降の新興在地豪族と見る説が有力である。従って、真鳥が大臣に就任して専権を振るったという『書紀』の叙述は史実として認められ<ていない。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%BE%A4%E6%B0%8F

 雄略天皇は、有力豪族を自らの足下に屈服させ、大王による強力な専制支配を確立しようとした。・・・雄略が在位していたとみられる5世紀末頃より、地方豪族の首長墓から大型の前方後円墳が姿を消していることが確かめられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%84%E7%95%A5%E5%A4%A9%E7%9A%87

⇒平群真鳥は架空の人物だとして、大伴氏と物部氏がヤマト王権の軍制の両翼を担う、という体制が引き続きとられていたことが、というか、とられていたという認識が、後世、日本書記編纂者達と平群氏らによって共有されていた、ということが分かります。
 その上でですが、ヤマト王権が、478年でもって朝貢を打ち切ったことについての私の仮説は、以下のようなものです。
 「5世紀の<支那>の歴史書『宋書』倭国伝に、 478年(順帝昇明2年)<雄略天皇・・すぐ下の囲み記事参照・・に同定される>倭王武が宋
(南朝)に届けた上表文として、蝦夷と熊襲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9D%A6%E5%A4%B7
の支配が進んでいたことを示す、以下の記述があります。↓

 「昔より祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人<(注39)>を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。」」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9D%A6%E5%A4%B7
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E8%A5%B2

 (注39)「 (毛深い人の意)
大和政権に服属しない、東国に居住する集団をいう。蝦夷(えぞ)。えびす。」
https://kotobank.jp/word/%E6%AF%9B%E4%BA%BA-2087557

 このような、ヤマト王権による、蝦夷(注40)(蝦夷については後で何度か取り上げる)、熊襲(注41)、朝鮮半島西南部(注42)、の支配については、考古学的裏付けがあります。

 (注40) 「前方後円墳<は、>・・・大和政権の勢力下にある日本の諸地域(およびそれに影響を受けた朝鮮半島南部)でのみ見られる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E6%96%B9%E5%BE%8C%E5%86%86%E5%A2%B3
 4世紀末-5世紀前半築造の雷神山古墳(宮城県名取市植松字山)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%B7%E7%A5%9E%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3
及び、5世紀後半-6世紀初頭築造の角塚古墳(岩手県奥州市胆沢南都田)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%92%E5%A1%9A%E5%8F%A4%E5%A2%B3
 (注41)「宮崎県内で・・・前方後円墳は、3世紀末~4世紀初頭頃に・・・宮崎平野部を中心に築造が開始されたようである。」
http://www.miyazaki-archive.jp/d-museum/mk-heritage/burialmounds/data_keyhole.html#anc_first
 (注42)「朝鮮半島西南部の栄山江流域では、・・・前方後円形・・・の墳形を持つ10数基の古墳の存在が知られる。これらは5世紀後半から6世紀前半・・・の築造とされ<る。>・・・
 前方後円形墳の分布する栄山江流域は、文献史学的には史料が乏しく当時の情勢が不明な地域になるが、考古学的には当時の倭・百済・加耶のいずれとも異なる独自の在地系勢力(馬韓残存勢力)が存在した地域とされる。そしてこの在地勢力が百済の支配下に入る時期(6世紀中頃)の前段階において、在地系の高塚古墳と列島系の前方後円形墳の2つの墓制が展開した。しかし栄山江流域は日本列島と連続する地域ではないほか、一帯では列島からの大量移住の形跡もなく、各前方後円形墳自体も1世代のみで築造を終焉するため、このような列島系の墳形が築造された背景は依然詳らかでない。現在も、被葬者としては在地首長説・倭系百済官人説・倭人説の3説に大きく分かれて議論が続くトピックになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%8D%8A%E5%B3%B6%E5%8D%97%E9%83%A8%E3%81%AE%E5%89%8D%E6%96%B9%E5%BE%8C%E5%86%86%E5%BD%A2%E5%A2%B3

 朝鮮半島西南部については、「日本列島の前方後円墳<は、>・・・3世紀中頃から7世紀前半頃にわたって展開した」(上掲)にもかかわらず、「1世代のみで築造を終焉する」(「注42」)等の特殊性があるのでひとまず措くとして、日本列島内では、熊襲を完全支配下に置いてしばらく経った時点でヤマト王権は強大化し、倭・高句麗戦での敗戦で実存的危機に直面したところ、現在の岩手県南部まで支配領域を広げた(注43)ことによって、蝦夷からの脅威を克服することができたことから、(連合政府を構成する国または国々が熊襲等のフロンティア勢力と組んでヤマト王権に叛旗を翻す恐れがほぼなくなったこともあり、)ヤマト王権の列島内支配が安定化し、もはや、支那の王朝による正統性を賦与される必要がなくなった、と。

 (注43)記紀等に登場する伝説的英雄のヤマトタケルの物語が、西征から始まり、東征で終わるのは、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%83%88%E3%82%BF%E3%82%B1%E3%83%AB
熊襲打倒と蝦夷抑止の歴史を、時間的に、一人の人間の事績へと圧縮したものと見てよいのではないか。

 ヤマト王権の、上述のような、日本列島内の領域拡大が、既存の二本立て軍制のままで実現し、支那王朝への朝貢も打ち切れることができた以上、弥生性の強化や軍制改革が、引き続き、先送りされたのは当然だった、と言えそうです。(太田)

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[雄略天皇]

 「5世紀後半から6世紀にかけての雄略天皇の時代は、渡来人第二波の時期でもあった。
 雄略天皇は、・・・倭の五王<(上出)>のうちの武であると比定される。
 『宋書』倭国伝に引用された478年の「倭王武の上表文」<(前出)>には、倭の王権が東(毛人)、西(衆夷)、北(海北)の多くの国を征服したことを述べられており、みずからの勢力を拡大して地方豪族を服属させたことがうかがわれる。また、海北とは朝鮮半島を意味すると考えられるところから、渡来人第二波との関連も考慮される。
 この時代のものと考えられる埼玉県の稲荷山古墳出土鉄剣(金錯銘鉄剣)<(前出)>には辛亥年(471年)の紀年銘があり、そこには「ワカタケル大王」の名がみえる。
 これは『日本書紀』『古事記』の伝える雄略天皇の本名と一致しており、熊本県の江田船山古墳出土の鉄刀銘にもみられる。東国と九州の古墳に「ワカタケル」の名のみえることは、・・・「倭王武の上表文」の征服事業の記載<(前出)>と整合的である。
 また、稲荷山古墳出土鉄剣<(注44)>銘には東国の豪族が「大王」の宮に親衛隊長(「杖刀人首」)として、江田船山古墳出土鉄刀銘には西国の豪族が大王側近の文官(「典曹人」)として仕え、王権の一翼をになっていたことが知られている。

 (注44)これももおちろん、太刀ではなく、大刀だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E8%8D%B7%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E5%87%BA%E5%9C%9F%E9%89%84%E5%89%A3

 職制と「人」とを結んで「厨人」「川瀬舎人」などのように表記する事例は、『日本書紀』雄略紀にもみられ、この時期の在地勢力とヤマト王権の仕奉関係は「人制」とよばれる。
 さらに、銘文には「治天下…大王」(江田船山)、「天下を治むるを左(たす)く」(稲荷山)の文言もあり、宋の皇帝を中心とする天下とはまた別に、倭の大王を中心とする「天下」の観念が芽生えている。これは、大王のもとに<支那>の権威からある程度独立した秩序が形成されつつあったことを物語る。
 上述した「今来漢人」は、陶作部、錦織部、鞍作部、画部などの技術者集団(品部)に組織され、東漢氏に管理をまかせた。また、漢字を用いてヤマト王権のさまざまな記録や財物の出納、外交文書の作成にあたったのも、その多くは史部とよばれる渡来人であった。こうした渡来人の組織化を契機に、管理者である伴造やその配下におかれた部などからなる官僚組織がしだいにつくられていったものと考えられる。
 いっぽう、5世紀後半(古墳時代中期後半)の古墳の分布を検討すると、この時代には、中期前半に大古墳のつくられた筑紫、吉備、毛野、日向、丹後などの各地で大規模な前方後円墳の造営がみられなくなり、ヤマト政権の王だけが墳丘長200メートルを超える大前方後円墳の造営をつづけている。
 この時期に、ヤマト政権の王である大王の権威が著しく伸張し、ヤマト政権の性格が大きく変質したことは、考古資料の面からも指摘できる。
 なお、平野邦雄<(注45)>は平凡社『世界大百科事典』(1988年版)の項目「大和朝廷」のなかで、「王権を中心に一定の臣僚集団による政治組織が形成された段階」としての「朝廷」概念を提唱し、ワカタケルの時期をもって「ヤマト朝廷」が成立したとの見解を表明している。

 (注45)1923~2014年。東大文(国史)卒、九州工大、文化庁主任文化財調査官、東京女子大教授(当時に東大文博)、横浜市歴史博物館館長。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%87%8E%E9%82%A6%E9%9B%84

 ワカタケルの没後、5世紀後半から末葉にかけての時期には、巨大な前方後円墳の築造も衰退しはじめ、一般に小型化していくいっぽう、小規模な円墳などが群集して営まれる群集墳の造営例があらわれ、一部には横穴式石室の採用もみられる。こうした動きは、巨大古墳を築造してきた地域の大首長の権威が相対的に低下し、中小首長層が台頭してきたことを意味している。これについては、ワカタケル大王の王権強化策は成功したものの、その一方で旧来の勢力からの反発を招き、その結果として王権が一時的に弱体化したという考えがある。
 5世紀後半以降の地方の首長層とヤマトの王権との関係は、稲荷山鉄剣や江田船山大刀<(注46)>に刻された銘文とその考古学的解釈により、地方首長が直接ヤマトの大王と結びついていたのではなく、地方首長とヤマト王権を構成する大伴、物部、阿倍<(注47)>などの畿内氏族とが強い結びつきをもつようになったものと想定される。

 (注46)くどいようだが、これも、太刀ではなく、大刀だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E7%94%B0%E8%88%B9%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3 (熊本県玉名郡和水町江田)
 (注47)「孝元天皇の皇子大彦命を祖先とする皇別氏族である。飛鳥時代から奈良時代に大臣級の高官を輩出する。平安時代以後は「安倍」と称する。・・・歴史上はっきりとした段階で活躍するのは宣化天皇の大夫(議政官)であった大麻呂(火麻呂とする説もある)が初見である。大麻呂は大伴金村・物部麁鹿火・蘇我稲目に次ぐ地位の重臣であったと言われている。推古天皇の時代には蘇我馬子の側近として麻呂が登場している。<乙巳の変(後出)後>の新政権で左大臣となったのは、阿倍倉梯麻呂(内麻呂とも)であった。・・・
 その後、阿倍氏は一族が分立して「布施臣」・「引田臣」(ともに後に朝臣の姓を受ける)などに分裂していった。だが、引田臣を率いる阿倍比羅夫が斉明天皇に仕えて将軍として活躍し、・・・遣唐使で留学生として唐に渡った仲麻呂は比羅夫の孫・・・であると言われている。・・・
 「阿倍氏」がいつ頃から「安倍氏」と改めたかには諸説あるが、平安時代初期の延暦〜弘仁年間説が有力であると言われている。・・・
 平安中期以降、安倍氏は安倍晴明を輩出した系統が主流となり、中世からは土御門家と名乗り、代々陰陽道の家として知られるようになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%80%8D%E6%B0%8F

 王は「大王」として専制的な権力を保有するようになったとともに、そのいっぽうでは大王と各地の首長層との結びつきはむしろ稀薄化したものと考えられる。また、大王の地位自体がしだいに畿内豪族連合の機関へと変質していく。5世紀末葉から6世紀初頭にかけて、『日本書紀』では短期間のあいだに清寧、顕宗、仁賢、武烈の4人の大王が次々に現れたと記し、このことは、王統自体もはげしく動揺したことを示唆している。また、こののちのオホド王(継体天皇)即位については、王統の断絶ないし王朝の交替とみなすという説(王朝交替説)がある。
 こうした王権の動揺を背景として、この時期、<支那>王朝との通交も途絶している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%83%88%E7%8E%8B%E6%A8%A9 前掲

⇒ヤマト王権のウィキペディア執筆者達の論理はおかしい。
 話は逆で、王統の動揺等の過渡期を経て、継体天皇の即位によってヤマト王権が再び安定化したこともさることながら、清寧天皇の父で前天皇たる雄略天皇の時までのヤマト王権の安定化が決定的であって、その時点で、もはや支那王朝によってヤマト王権を正統化してもらう必要性がなくなっていた、と解するのが自然というものだろう。
 なお、私見によれば、日本の場合、社会が安定化すれば、エージェンシー関係の重層化が進む傾向がいつの時代にも見られるのであって、この場合も、「大王と各地の首長層との結びつき<が>・・・稀薄化した」のは、その限りにおいては不思議ではない。(太田)
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 「ヤマト王権はまた、従来百済との友好関係を基盤として朝鮮半島南部に経済的・政治的基盤を築いてきたが、百済勢力の後退によりヤマト王権の半島での地位も相対的に低下した。このことにより、鉄資源の輸入も減少し、倭国内の農業開発が停滞したため、王権と傘下の豪族達の政治的・経済的求心力が低下したとの見方も示されている。6世紀に入ると、半島では高句麗に圧迫されていた百済と新羅がともに政治体制を整えて勢力を盛り返し、伽耶地方への進出をはかるようになった。
 こうしたなか、6世紀初頭に近江から北陸にかけての首長層を背景としたオホド大王(継体天皇)が現れ、ヤマトにむかえられて王統を統一した。
 しかし、オホドは奈良盆地に入るのに20年の歳月を要しており、この王権の確立が必ずしもスムーズではなかったことを物語る。
 オホド大王治世下の527年には、北九州の有力豪族である筑紫君磐井が新羅と連携して、ヤマト王権と軍事衝突するにいたった(磐井の乱<(前出)>)。

⇒この磐井の乱は、ヤマト王権統一国家における、権力に係るエージェンシー関係の重層的分有状態を裏づけている、というのが私の見方です。(太田)

 この乱はすぐに鎮圧されたものの、乱を契機として王権による朝鮮半島南部への進出活動が衰え、大伴金村の朝鮮政策も失敗して、朝鮮半島における日本の勢力は急速に揺らいだ。
 継体天皇の没後、531年から539年にかけては、王権の分裂も考えられ、安閑・宣化の王権と欽明の王権が対立したとする説もある(辛亥の変)。<(注48)>

 (注48)「継体・欽明朝の内乱は、仮説上の内乱。当時の歴史を記録した文献資料において不自然な点が存在することから、6世紀前半の継体天皇の崩御とその後の皇位継承を巡り争いが発生したという仮定に基づく。発生した年を『日本書紀』で継体天皇が崩御したとされている辛亥の年(西暦531年)と具体的に定めて、辛亥の変(しんがいのへん)と呼ぶ説もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%99%E4%BD%93%E3%83%BB%E6%AC%BD%E6%98%8E%E6%9C%9D%E3%81%AE%E5%86%85%E4%B9%B1

 いっぽう、オホド大王の登場以降、東北地方から九州地方南部におよぶ全域の統合が急速に進み、とくに磐井の乱ののちには各地に屯倉とよばれる直轄地がおかれて、国内的には政治統一が進展したとする見方が有力である。

  イ 片翼軍制時代

 540年に・・・オホド大王を擁立した大伴金村が失脚し<た(注49)>。

 (注49)「大伴金村<は、>・・・継体天皇6年(512年)に高句麗によって国土の北半分を奪われた百済からの任那4県割譲要請を受けて、金村はこれを承認する代わりに五経博士を渡来させた。継体天皇21年(527年)に発生した磐井の乱では物部麁鹿火を将軍に任命して鎮圧させた。・・・
 しかし、欽明天皇の代に入ると欽明天皇と血縁関係を結んだ蘇我稲目が台頭、金村の権勢は衰え始める。さらに欽明天皇元年(540年)には新羅が任那地方を併合するという事件があり、物部尾輿などから外交政策の失敗(先の任那4県の割譲時に百済側から賄賂を受け取ったことなど)を糾弾され失脚して隠居する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E9%87%91%E6%9D%91

⇒金村失脚に伴うヤマト王権軍主宰氏たる大伴氏(前出)の弱体化によって、ヤマト王権は、国軍主宰氏たる物部氏による、片翼軍制という危うい状況に陥ったことになります。
 なお、大伴氏の弱体化により、「物部氏と蘇我氏の二極体制ができあがる」とするのが通説です
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AC%BD%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87
が、蘇我氏は、「仏教を・・・いち早く取り入れた」こと、と、稲目、馬子二代続けて「天皇家の外戚となっていく」こと、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%87%E6%88%91%E6%B0%8F
で成り上がったのであり、軍事面で物部氏やかつての大伴氏のような役割を担うことはできなかったはずです。
 にもかかわらず、蘇我氏が二極体制の一極を占めることができたのは、支那仏教の中にあった鎮護国家思想(すぐ下の囲み記事参照)に注目し、同氏が、仏教を弱体化した軍制を補う安全保障の手段として、ヤマト王権家に売り込むことに成功したからである、と、私は見るに至っています。(太田)

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[鎮護国家]

 「仏教には国家を守護・安定させる力があるとする思想であ<り、>・・・『仁王護国般若波羅蜜経』や『金光明最勝王経』に説かれているが、この経典を供養することで国家が守護されるとされているところから、南北朝時代の<支那>や奈良時代の日本で盛んに仁王会や最勝会などの法要が行われた。
 また、鎌倉時代には、時代の転換期であり、また蒙古の襲来など、社会情勢が不安定であったことから、栄西の『興禅護国論』、日蓮の『守護国家論』、『立正安国論』など、鎌倉新仏教の開祖たちによって、仏教の思想(自派の教義)こそ国を救うものであると盛んに説かれている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%AE%E8%AD%B7%E5%9B%BD%E5%AE%B6
 「<しかし、>『仁王護国般若波羅蜜経』<は>・・・偽経と言われている。また、その証左として玄奘(602年~664年)訳『大般若波羅蜜多経』(660年~663年)の諸経には共に、該当する経典は含まれていない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E7%8E%8B%E7%B5%8C
 「<但し、>『金光明経』<は、偽経ではなく、>・・・4世紀頃に成立したと見られる仏教経典のひとつ<であって、>大乗経典に属し、日本においては『法華経』・『仁王経』とともに護国三部経のひとつに数えられ<、>・・・この経を広めまた読誦して正法をもって国王が施政すれば国は豊かになり、四天王をはじめ弁才天や吉祥天、堅牢地神などの諸天善神が国を守護するとされる。・・・
 日本へは、古くから『金光明経』(曇無讖<(どんむせん)>訳)が伝わっていたようであるが、その後8世紀頃義浄訳の『金光明最勝王経』が伝わり、聖武天皇は『金光明最勝王経』を写経して全国に配布し、また、741年(天平13年)には全国に国分寺を建立し、金光明四天王護国之寺と称された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%85%89%E6%98%8E%E7%B5%8C
 「<この>『金光明経』(Suvarnaprabhasa)<は、>・・・仏教に比べてヒンドゥーの勢力がますます強くなるグプタ期以降のインドの社会状況の中で,余所ですでに説かれている様々な教説を集め,仏教の価値や有用性や完備性をアピールすることで,インド宗教界に生き残ってブッダに由来する法を伝えながら自らの修行を続けていこうとした,大乗仏教徒の生き残り策のあらわれである.・・・
 <彼ら>は,王族を民衆ともども仏教に誘引し,彼らから経済的支援を得てインド宗教界に踏みとどまるため,世間的利益の獲得を主題とする<五品>等を編纂していった.その際には従来の仏教では一般的ではなかった諸要素を次々と取り入れていったが,『金光明経』における衆生利益は,仏教の伝統に則り釈尊の成道・法身獲得と不可分に結びつけられていたため,従来の理解や文脈を破壊したり逸脱したりすることのないままに諸要素の導入に成功した.」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/58/3/58_KJ00006159732/_article/-char/ja/
 「<ちなみに、>前2世紀(前漢)に大月氏より<支那>へ仏教は中国本土に伝達されたようであるが,・・・以来300年は低迷期間であった。
 「五胡十六国」時代の異民族支配の乱世になると,異国の仏教に抵抗のない蛮族により国を挙げて受け入れられた。・・・
 胡国は漢民族に対抗するための宗教を必要としていた。又国家の運命,戦争必勝,民衆支配する為の呪術を満たす仏教を採用した。・・・
 前秦の符堅により高句麗に仏教が伝播した。(372年)・・・
 「南北朝」時代(439~589)<に入ると、>・・・鮮卑族の北朝:北魏と漢民族の南朝:梁により仏教は華が咲いた。・・・
 北朝仏教<にあっては、北魏の初代の皇帝>・・・太祖道武帝(拓跋珪たくばつけい)<は、>・・・如何なく国の統治に利用した。鎮護国家的色彩が強く。後世にも引き継がれ<ることになる>。・・・
 <その>三代目の太武帝の時代には仏教を禁止したが,その以後の皇帝は仏教を保護して,国家の安全や繁栄を祈らせた。こうして仏教は国家宗教になり,寺院は三万二千,僧尼は二百万<に達した>といわれる。 
 <これを受け、>南朝<においても、>政治的対立と民衆の人心把握のため,仏教布教にしのぎを削った。熱狂的な仏教信者の梁の<初代皇帝の>武帝の時代が<その>華であった。
 武帝の思想は儒教と玄学が究極では一致という「三教一致」教養主義的なものであったが過激なまでに徹底していた。(後漢の末期:「牟子理惑論」仏・道・儒同一説が芽生えていた)・・・
 南朝に朝貢していた百済は
紀元384年東晋から仏教を受け入れて仏教国になった。」
http://www.jsdi.or.jp/~kuri/KABUDATA/kodaishi-buukyo-chuuka-hondo.htm

⇒高句麗、そして、百済まで伝わったとなれば、日本に伝わるのは必然だったわけだが、この仏教は、鎮護国家仏教であり、釈迦の本来の教えからかけ離れていた大乗仏教の中でも、とりわけ特異な仏教であった、ということを、我々は銘記すべきだろう。(太田)
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 6世紀前半は砂鉄を素材とする製鉄法が開発されて鉄の自給が可能になったこともあって、ヤマト王権は対外的には消極的となった。

⇒ここは、検証する労を惜しみましたが、私は、違うのではないか、という気がしています。(太田)

 562年、伽耶諸国は百済、新羅両国の支配下にはいり、ヤマト王権は朝鮮半島における勢力の拠点を失った。<(注50)>

 (注50)「新羅は5世紀中頃に高句麗の駐留軍を全滅させ、高句麗の長寿王は南下政策を推進して475年に百済の首都・漢城(ソウル特別市)を陷落させると、百済は南下して統一された国の存在しない朝鮮半島南西部への進出を活発化させた。統合されて間もない新羅は、機に乗じ秋風嶺を越えて西方に進出するなど、半島情勢は大きく変化した。

 5世紀末に百済の南下と新羅の統合により、任那加羅のうち北部に位置する小国群は自衛の為の統合の機運が生じ、高霊地方の主体勢力だった半路国(または伴跛国)が主導して後期伽耶連盟を形成したという説がある。479年、南斉に朝貢して〈輔国将軍・加羅王〉に冊封されたのは、この大加羅国と考えられている。
 大加羅を中心にした後期伽耶連盟は、481年に高句麗とそれに附属する濊貊の新羅侵入に対して、百済と共に援兵を送った。
 〈<この>濊貊(わいはく、かいはく)<と>は、<中共>の黒龍江省西部・吉林省西部・遼寧省から北朝鮮にかけて、北西から南東に伸びる帯状の地域に存在したとされる古代の種族。同種の近縁である濊(薉とも表記される)と貊の2種族を連称したもの。・・・
 文化や習俗は、モンゴル系の東胡、ツングース系の粛慎、朝鮮半島南部の韓族の何れとも異なる。〉
 [『史記』などの記載によれば、濊族の地の一部に夫余族が入ってきて、そこに残った濊族を支配するようになった可能性もあることから、・・・夫余に・・・征服王朝的性格が皆無とはいえないが、『魏志』によれば、「その民は土着し」「東夷の地域でもっとも平坦で、土地は五穀に適している」「性格は勇猛であるが謹み深く、他国へ侵略しない」とあって、農耕主体の定住民であり、侵略も好まず、また実際にその後に南下したという記録も存在しない<ので、夫余の南下を想定する必要はあるまい>。
 <なお、そもそも、>夫余族が南下して高句麗を建国した<のだ、>という伝説も<あるが>、近年の李成市の研究によれば、北夫余を奪取した高句麗が、新附の夫余族との融合と夫余の旧領を占有することの正当性と歴史的根拠を主張することをめざした政治的意図によるものであったことが明らかにされ、夫余と高句麗の種族的系譜関係はないものと結論づけられている。<確かに、>考古学的知見においても、高句麗の墓制が積石塚主体であるのに対して夫余の墓制は土壙墓であり、同族関係である可能性はきわめて低い。
 百済<の>夫余起源説も<あるが、これについても>、後進の百済が高句麗との同源を主張することによって高句麗との対等を主張した政治的主張であり、事実とは考えられない。
 <但し、>百済<に対し>、3世紀から4世紀にかけて高句麗族<が>南下<したこと>を想定する余地はある。]
 <その後、>百済が倭に対して半ば強要する形で加羅西部の四県を割譲させると、加羅諸国は百済と小白山脈を境界として接し険悪になった。
 百済が卓淳国・多羅国などへ侵攻すると、大加羅の異脳王は522年に新羅の法興王に対して婚姻を申し入れ、新羅との同盟を願ったが<、>叛服常ない新羅は却って任那加羅諸国への侵攻を繰り返し、532年には任那の金官国が新羅に降伏した。
 この為、任那加羅諸国は<、今度は>百済に救援を求め、百済は安羅に駐屯して新羅に備えるとともに、聖王が主宰して任那加羅諸国の首長と倭の使臣との間による復興会議(いわゆる任那復興会議)を開いたが、百済は単に任那加羅諸国を新羅から守ろうとしたのではなく、百済自身が任那加羅諸国への勢力拡大を狙っていた。
 こうして任那加羅地域は新羅・百済の争奪戦に巻き込まれることとなったが、百済が554年に管山城の戦いで新羅に敗れて聖王が戦死すると新羅の優勢は決定的となり、562年には大加羅(高霊)が新羅に滅ぼされ、残る加羅諸国は新羅に併合された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%BD%E8%80%B6
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%82%A4%E8%B2%8A (〈〉内)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A8%8E%E9%A6%AC%E6%B0%91%E6%97%8F%E5%BE%81%E6%9C%8D%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E8%AA%AC ([]内)
 「これに激怒した欽明天皇は562年(欽明天皇23年)に新羅に対して討伐軍を送るが、敵の罠にかかってしまい退却する。同年高句麗にも軍を送っている・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AC%BD%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87

⇒マクロ的に見れば、ヤマト王権は、自発的に朝鮮半島から手を引いてしまった、という感があります。
 私の言う、縄文的弥生性が背景にあったのでしょうが、いかんせん、片翼軍制時代に入って弥生性が再び脆弱化したため、朝鮮半島に積極的に拘(かかずら)いを続けるどころではなかった、ということではないでしょうか。(太田)

  ウ 無翼軍制(軍制崩壊)時代

 そのいっぽう、半島からは暦法など<支那>の文物を移入するとともに豪族や民衆の系列化・組織化を漸次的に進めて内政面を強化していった。
 ヤマト王権の内部では、中央豪族の政権における主導権や、田荘・部民などの獲得をめぐって抗争がつづいた。大伴氏失脚後は、蘇我稲目と物部尾輿が崇仏か排仏かをめぐって対立し、大臣蘇我馬子と大連物部守屋の代には、ついに武力闘争に至った(丁未の乱)。

⇒朝鮮半島南端部を失ったことで、大伴氏の権威が失墜し、そこに、蘇我氏が付け込んだ、ということではないでしょうか。(太田)

 丁未の乱<(注51)(ていびのらん)>を制した蘇我馬子は、大王に泊瀬部皇子を据えた<。>(崇峻天皇)<(注52)>

 (注51)「戦後、1950年代になると<、一時、>「<大化の>改新<存在>否定論」も台頭した<が、>・・・21世紀になると、改新詔を批判的に捉えながらも、大化・白雉期の政治的な変革を認める「新肯定論」が主流となり、「否定論」はそのままでは通用しない状況となっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8C%96%E3%81%AE%E6%94%B9%E6%96%B0
 (注52)「飛鳥時代(あすかじだい)は、・・・広義には、飛鳥に宮都が置かれていた崇峻天皇5年(592年)から和銅3年(710年)にかけての118年間を指す。狭義には、聖徳太子が摂政になった推古天皇元年(593年)から藤原京への遷都が完了した持統天皇8年(694年)にかけての102年間を指す。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E6%99%82%E4%BB%A3

⇒大伴氏も大伴金村の時の540年以降、威信が大幅に低下していた(前出)上に、こうして物部氏も没落したことから、とうとう、ヤマト王権は、無翼軍制(軍制崩壊)時代を迎えてしまうのです。
 ヤマト王権家の権威だって、まだ十分確立していなかったというのに・・。
 (なお、私は、「律令制を基本とした中央集権的な古代日本国家の起源とする・・・大化の改新<論>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8C%96%E3%81%AE%E6%94%B9%E6%96%B0
という言葉は、律令制国家時代(私の言う天武朝時代)は(私の言う)天智朝による改新諸政策に対する反改新の時代であった、という見地(後述)から、大化の改新という言葉は用いず、天智朝の事実上の発端となったところの、乙巳<(いっし)>の変という言葉だけを用いることにしています。
 なお、飛鳥時代という時代区分も、私は採用していません。)(太田)

 <しかし、>次第に両者は対立し、ついに馬子は大王を殺害した。
 続いて姪の額田部皇女を即位させて推古天皇<(注53)>とし、厩戸王<(厩戸皇子/聖徳太子)>とともに強固な政治基盤を築きあげ、冠位十二階や憲法十七条の制定など官僚制を柱とする大王権力の強化・革新を積極的に進めた。

 (注53)554~628年。天皇:593~628年。日本を含む東アジアで最初の女性君主。「第29代欽明天皇の皇女で、母は大臣・蘇我稲目の女・堅塩媛。第30代敏達天皇は異母兄で夫でもある。第31代用明天皇は同母兄、第32代崇峻天皇は異母弟。蘇我馬子は母方の叔父。・・・
 585年・・・に敏達天皇が崩御し・・・、用明天皇が2年ほど皇位に在ったが、・・・587年・・・に崩御した後、・・・<夫の敏達天皇逝去後、彼女を犯そうとしたことがある>穴穂部皇子を推す物部守屋と泊瀬部皇子を支持する蘇我馬子が戦い、蘇我氏の勝利に終わった。そこで<彼>女が詔を下して泊瀬部皇子(崇峻天皇)に即位を命じた<が、>、5年後の・・・592年・・・には崇峻天皇が馬子の指図によって暗殺されてしまい、翌月で・・・に、先々代の大后(皇后)であった<彼>女が、馬子に請われて・・・即位した。・・・
 <そして、>593年・・・、甥の厩戸皇子を皇太子として万機を摂行させた・・・
 <彼女は、>姿色端麗
進止軌制<にして>・・・頭脳明晰な人で・・・は外戚で重臣の馬子に対しても、国家の利益を損じてまで譲歩したことがなかった。ずっと後のことではあるが、推古天皇32年(624年)、馬子が倭の六県の一つである葛城県(馬子の本居(ウブスナ)とされる)の支配権を望んだ時、女帝は、「あなたは私の叔父ではあるが、だからといって、公の土地を私人に譲ってしまっては、後世から愚かな女と評され、あなたもまた不忠だと謗られよう」と言って、この要求を拒絶した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%A8%E5%8F%A4%E5%A4%A9%E7%9A%87

⇒「推古天皇が実子の竹田皇子の擁立を願ったものの、敏達の最初の大后が生んだ押坂彦人大兄皇子(舒明天皇の父)の擁立論が蘇我氏に反対する勢力を中心に強まったために、馬子と推古天皇がその動きを抑えるために竹田皇子への中継ぎとして即位したのだと言われている(だが、竹田皇子は間もなく薨去した)。」(上掲)とされていますが、こんな先例のない即位は、邪馬台国時代までの権威と権力分立の時代への復帰と権力の蘇我氏による掌握を目論んだ蘇我馬子のごり押しの結果であったところ、この馬子の目論見は、一枚上手の推古天皇によって挫折させられた、と、見ています。
 その推古天皇とタッグを組んだ厩戸皇子もまた、蘇我氏本流の血を引いていましたが、蘇我氏本流の専横ぶりに憤懣を抱きつつも、ちゃっかり馬子の目論見にヒントを得、推古天皇の陰に隠れることで馬子の目を欺きながら、後述するように、天皇家、ひいては日本の将来を見据えた布石を打ち続けた、と、私は考えるに至っています。(太田)

 6世紀中葉に日本に伝来した仏教は、統治と支配をささえるイデオロギーとして重視され、『天皇記』『国記』などの歴史書も編纂された。これ以降、氏族制度を基軸とした政治形態や諸制度は徐々に解消され、ヤマト国家の段階は終焉を迎え、古代律令制国家が形成されていくこととなる。
 7世紀半ばに唐が高句麗を攻め始めるとヤマトも中央集権の必要性が高まり、難波宮で<乙巳の変>が行われた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%83%88%E7%8E%8B%E6%A8%A9 前掲

⇒厩戸皇子は、日本が無翼軍制(軍制崩壊)時代になってしまったことに強い危機感を覚え、軍制の抜本的立て直しを行う決意を固め、支那の久方ぶりの統一王朝である隋の軍制を学んで参考にしたい、と思ったのだ、と、私は見ています。
 そのためにこそ、遣隋使は送られたのではないか、と。
 遣隋使の目的は、これまで、一般には以下のように考えられてきました。↓

 「倭の五王による南朝への奉献以来約1世紀<余>を経て・・・600年<に>・・・再開された遣隋使の目的は、東アジアの中心国・先進国である隋の文化の摂取が主であるが、朝鮮半島での新羅との関係を有利にするという、影響力維持の意図もあったが、倭の五王時代と違い、冊封を受けなかった。・・・
 隋は高句麗との緊張関係の中、冊封を巡る朝鮮三国への厳しい態度と違い、高句麗の背後に位置する倭国を重視して、冊封なき朝貢を受忍したと思われる。・・・
 その後603年(推古11年)冠位十二階や、604年17条憲法の制定など隋風の政治改革が行われ<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E9%9A%8B%E4%BD%BF

⇒しかし、ここに登場する十七条憲法に、全く軍事の話が出てこないというのはおかしい、と思いませんか?
 私は、十七条憲の策定には、遣隋使派遣の真意を隠す狙いもあったのではないか、と、想像を逞しくしています。
 注目したのは、ヤマト王権統一国家が、隋から「冊封を受けなかった」点です。
 それは、「朝鮮半島での新羅との関係を有利にするという、影響力維持の意図」等がなかったことを示唆しています。
 つまり、安全保障は、支那王朝とは無関係に、ヤマト王権統一国家単独で確保することとし、そのために必要な軍制を隋から主体的に継受する、より端的に言えば盗み取る、のが、厩戸皇子が遣隋使を派遣した真の意図であったのではないか、と、私は見るに至っているのです。(太田)

3 日本における弥生性の確立へ

 (1)厩戸皇子–聖徳太子コンセンサス立ち上げ

 ここで、改めて、厩戸皇子のことです。
 「厩戸皇子<(574~622年)は、>・・・橘豊日<(たちばなのとよひ)>皇子<(後の用明天皇)>と穴穂部間人皇女<(あなほべのはしひとのひめみこ)>との間に生まれた。橘豊日皇子は蘇我稲目の娘堅塩媛<(きたしひめ)>を母とし、穴穂部間人皇女の母は同じく稲目の娘・小姉君<(おあねのきみ)>であり、つまり厩戸皇子は蘇我氏と強い血縁関係にあった。
 厩戸皇子の父母はいずれも欽明天皇を父に持つ異母兄妹であり、厩戸皇子は異母のキョウダイ婚によって生まれた子供とされている。
 幼少時から聡明で仏法を尊んだと言われ・・・る。・・・
 聖徳太子という名称は死没129年後・・・751年・・・に編纂された『懐風藻』が初出と言われる。そして、平安時代に成立した史書である『日本三代実録』『大鏡』『東大寺要録』『水鏡』等はいずれも「聖徳太子」と記載し、「厩戸」「豐聰耳」などの表記は見えないため、遅くともこの時期には「聖徳太子」の名が一般的な名称となっていたことが伺える。
 ・・・また、大宝令の注釈書『古記』(天平10年、738年頃)には上宮太子の諡号を聖徳王としたとある。・・・

⇒こういったことを踏まえ、私は、人物自身は「厩戸皇子」、コンセンサスの方は「聖徳太子コンセンサス」、と、使い分けることにした次第です。(太田)

 ・・・585年・・・、敏達天皇崩御を受け、<厩戸皇子の>父・橘豊日皇子が即位した(用明天皇)。この頃、仏教の受容を巡って崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋とが激しく対立するようになっていた。・・・587年・・・、用明天皇は崩御した。皇位を巡って争いになり、馬子は、豊御食炊屋姫<(とよみけかしきやひめ)=額田部皇女>(敏達天皇の皇后)の詔を得て、守屋が推す穴穂部皇子を誅殺し、諸豪族、諸皇子を集めて守屋討伐の大軍を起こした。厩戸皇子もこの軍に加わった。討伐軍は河内国渋川郡の守屋の館を攻めたが、軍事氏族である物部氏の兵は精強で、稲城を築き、頑強に抵抗した。討伐軍は三度撃退された。これを見た厩戸皇子は、白膠の木を切って四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努める、と誓った。討伐軍は物部軍を攻め立て、守屋は<舎人の>迹見赤檮<(とみのいちい)>に射殺された。軍衆は逃げ散り、大豪族であった物部氏は没落した。

⇒厩戸皇子の仏教傾倒は、人間主義者たる彼が仏教が本来的には人間主義教であることを見抜いていたから(コラム#省略)であって、蘇我氏が仏教を鎮護国家教と捉えていたこと、かつまた、この蘇我氏が天皇家を蔑ろにしていたことに反発しつつも、耐え続けた人生を送った、というのが、繰り返しになりますが、私の仮説です。(太田)

 戦後、馬子は泊瀬部皇子<(はつせべのみこ)>を皇位につけた(崇峻天皇)。しかし政治の実権は馬子が持ち、これに不満な崇峻天皇は馬子と対立した。・・・592年・・・、馬子は<渡来系氏族の>東漢駒<(やまとのあやのこま)>に崇峻天皇を暗殺させた。その後、馬子は豊御食炊屋姫<(とよみけかしきやひめのみこと)>を擁立して皇位につけた(推古天皇)。皇室史上初の女帝である。厩戸皇子は皇太子となり、馬子と共に天皇を補佐した。

⇒皇子は、馬子の専横に一層怒りを募らせた、と見ています。(太田)

 同年、厩戸皇子は物部氏との戦いの際の誓願を守り、摂津国難波に四天王寺を建立した。四天王寺に施薬院、療病院、悲田院、敬田院の四箇院を設置した伝承がある。・・・

⇒これは、皇子の人間主義教仏教の考え方に基づく施策でしょう。(太田)

 594年・・・、仏教興隆の詔を発した。・・・595年・・・、高句麗の僧慧慈が渡来し、太子の師となり「隋は官制が整った強大な国で仏法を篤く保護している」と太子に伝えた。

⇒これは、遣隋使派遣の伏線づくりを皇子自らが行ったのだ、と、私は見ています。(太田)

 ・・・597年・・・、<豪族の>吉士磐金<(きしのいわかね)>を新羅へ派遣し、翌年に新羅が孔雀を贈ることもあったが、・・・600年・・・新羅征討の軍を出し、交戦の末、調を貢ぐことを約束させる。
 [<隋は581年に楊堅(高祖・文帝)によって建国され、588年に支那を統一していた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%8B 
が、600年に、皇子は>「倭の五王による南朝への奉献以来約1世紀を経て<使節を送ったものの、>・・・倭の五王時代と違い、冊封を受けなかった。・・・高祖<は、使節から聞いた>俀國の政治のあり方が道理に外れたものだと納得できず、改めるよう訓令した<ため、>これが国辱的な出来事だとして、日本書紀から隋使の事実そのものが、除外されたという。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E9%9A%8B%E4%BD%BF ]

⇒人間主義(縄文性)に基づく諸施策を行った上で、今度は、皇子は、弥生性の獲得を企図し、新羅と緊張関係をあえて作り出すとともに、併せて、新羅が朝貢を開始していた隋
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85
の情勢把握に努めた、ということではないでしょうか。(太田)

 ・・・601年・・・、斑鳩宮を造営した。
 602年・・・、再び新羅征討の軍を起こした。同母弟・来目皇子<(くめのみこ)>を将軍に筑紫に2万5千の軍衆を集めたが、渡海準備中に来目皇子が薨去した(新羅の刺客に暗殺されたという説がある)。後任には異母弟・当麻皇子<(たいまのみこ)>が任命されたが、妻の死を理由に都へ引き揚げ、結局、遠征は中止となった。
 この新羅遠征計画は天皇の軍事力強化が狙いで、渡海遠征自体は目的ではなかったという説もある。
 また、来目皇子の筑紫派遣後、聖徳太子を中心とする及びそれに近い氏族(秦氏や膳氏など)が九州各地に部民を設置して事実上の支配下に置いていったとする説もあり、更に後世の大宰府の元になった筑紫大宰も元々は上宮王家<(注54)>が任じられていたとする見方もある。・・・

 (注54)「厩戸皇子は「上宮厩戸豊聡耳太子」ともいう。「上宮」が付く。「上宮」が付くのは「宮の南の上殿」に住んでいたからだという。」
http://tsukudaosamu.com/pdf/6-5.pdf

 ・・・603年・・・、いわゆる冠位十二階を定めた。氏姓制ではなく才能を基準に人材を登用し、天皇の中央集権を強める目的であったと言われる。

⇒皇子の最大の関心事は、日本の軍制がガタガタになってしまっていたのを立て直すことと、その前提として極めて低レベルであった日本に弥生性を獲得・・復活して強化・・させること、そのためにも、鎮護国家教を奉じ、軍事に疎いが専横を極める蘇我氏本流を打倒することだった、と、私は見ているわけです。
 朝鮮半島がらみのこの一連の軍事行動や、この軍事行動に藉口した九州における天皇家基盤の強化、そして、この冠位十二階、は、そのための諸布石であった、と。(太田)

 604年・・・、「夏四月 丙寅朔戊辰
皇太子親肇作憲法十七條」(『日本書紀』)いわゆる十七条憲法を制定した。豪族たちに臣下としての心構えを示し、天皇に従い、仏法を敬うことを強調している<(既述)>。・・・
 ・・・607年・・・、屯倉を各国に設置する。高市池、藤原池、肩岡池、菅原池などを作り、山背国栗隈に大溝を掘る。

⇒更に、皇子は、天皇家への権力集中と天皇家の全国的な経済基盤の確立を図ったわけです。(太田)

 小野妹子、<通事(通訳)の>鞍作福利<(くらつくりのふくり)>を使者とし随に国書を送った。<これは、2回目の、しかし、本来の趣旨的には最初の遣隋使だった。(太田)>翌年、返礼の使者である裴世清が訪れた。
 ・・・裴世清が携えた書には「皇帝問倭皇」(「皇帝 倭皇に問ふ」)とある。これに対する返書には「東天皇敬白西皇帝」(「東の天皇
西の皇帝に敬まひて白す)とあり、隋が「倭皇」とした箇所を「天皇」としている。この返書と裴世清の帰国のため、妹子を、高向玄理<(注55)>、南淵請安<(注56)>、旻<(注57)>ら留学生と共に再び隋へ派遣した。・・・

 (注55)たかむこのくろまろ。?~654年。魏の初代皇帝文帝曹丕の末裔と称する漢人系渡来人の後裔である高向氏の出身。608年に隋に留学するも、608年の2回目(3回目)、614年の3回目(4回目。最終回)の時にも帰国しなかったどころか、618年からは唐の時代になったけれど引き続きとどまり、渡航32年後の640年に、新羅経由で、南淵請安と共に帰国した。
 「645年・・・の大化の改新後、旻と共に新政府の国博士に任じられる。・・・646年・・・遣新羅使として新羅に赴き、新羅から任那への調を廃止させる代わりに、新羅から人質を差し出させる外交交渉を取りまとめ、翌647年・・・に新羅王子・金春秋を伴って帰国し、金春秋は人質として日本に留まることとなった・・・。・・・649年)に八省百官を定めた。・・・654年・・・遣唐使の押使として唐に赴くこととなり、新羅道経由で莱州に到着し、長安に至って3代目皇帝・高宗に謁見するものの病気になり客死した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%90%91%E7%8E%84%E7%90%86 (地の文、及び、[]内)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E9%9A%8B%E4%BD%BF 地の文。前掲
 「国博士<は、>・・・645年・・・蘇我本宗家の滅亡後、孝徳天皇践祚・中大兄皇子任皇太子の日に・・・旻・・・と高向・・・玄理が任命された官職で、左右大臣・内臣とともに設置されている。・・・唐から輸入した新制度・政策を立案し、推進する目的で設置され、政治顧問として国政全般の諮問に応える職であったと推定される。臨時的な職とみられ、・・・649年・・・を最後に,この官名は史書には現れなくなっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%8D%9A%E5%A3%AB
 (注56)みなぶちのしょうあん。生没年不詳。「漢系渡来氏族出身<。>・・・中大兄皇子と中臣鎌子<(後の中臣鎌足)>は請安の塾に通う道すがら蘇我氏打倒の計画を練ったと伝えられる。・・・大化の改新・・・以前に死去したものと思われる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%B7%B5%E8%AB%8B%E5%AE%89
 (注57)みん。?~653年。漢系渡来氏族出身。「魏の陳思王・曹植の後裔とする系図がある。・・・高向玄理・南淵請安らとともに隋へ渡り、24年間にわたり同地で仏教のほか易学を学び、<他の二人より早く、>632年・・・に日本に帰国。その後、蘇我入鹿・藤原鎌足らに「周易」を講じた。・・・大化の改新ののちに、高向玄理とともに国博士に任じられ、・・・649年・・・高向玄理と八省百官の制を立案している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%BB
 曹植(192~232年)は、「曹操の五男で・・・陳王に封じられ、諡が思であったことから陳思王とも呼ばれる。唐の李白・杜甫以前における<支那>を代表する文学者として、「詩聖」の評価を受けた。・・・曹操が没すると<兄の曹丕によって>側近が次々と誅殺され、・・・死去するまで各地を転々とさせられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B9%E6%A4%8D

⇒遣隋使派遣の最大の目的は、長年にわたる支那の分裂を解消して統一を果たしたところの、隋の軍事・・軍制と弥生性・・を学び、参考にすること、より直截的に言えば軍事機密を盗むこと、だった、それを狙ってスパイを送り込んだのだ、と、私は見たいわけです。
 そのための、まず、留学生(スパイ)達の人選ですが、天皇家には、自分達が支那から渡来した弥生人達の子孫であるとの意識があったと想像され、渡来人達ばかりを指名することに何の躊躇もなかったと考えられます。
 で、比較的最近渡来した家系の者達ばかりを選んだのは、恐らくは漢語ネイティブであったからであって、魏の皇族の家系の者・・旻は多分事実である一方高向は自称にとどまるが・・を2名も入れたのは、隋が、魏(曹魏)に朝貢を行っていて、後に、そのご縁で魏(北魏=元魏)という王朝を北支那に作ったところの、鮮卑の拓跋部出身者が作った国である
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E9%AD%8F
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%8B
ので、隋の指導層に容易に食い込めるのではないか、と目されたからでしょう。
 南淵だけは魏とは関係がなさそうですが、だからこそ、彼こそ、最優秀で最重要な留学生(スパイ)で、厩戸皇子のアバター的存在であった、と思われます。
 留学(スパイ)期間が、旻が24年、高向と南淵が32年、という常識外れの長期にわたったのは、皇子から、ミッションが完遂できるまで帰国に及ばず、と固く申し渡されていたからでしょう。
 ところが、隋側が警戒して、ミッションが遅々として進捗しなかったところ、幸か不幸か、隋が唐に代替わりをしてくれたおかげで、混乱で勉強がはかどらなかったところ、唐の新事情についても勉強した上で帰国したい、という申し開きを行うことで引き続きとどまり続けた・・日本/南淵らの側からすれば代替わりを余儀なくされた隋ではなく新たに建国された唐の軍制/弥生性をこそ改めて「盗」む必要が生じた・・けれど、唐側の猜疑心も自ずから強まっていったので、まず、旻を帰国させ、仏僧として仏教と易とを日本で「普及」させる活動に従事させ、その情報を唐にフィードバックさせることで、唐側の猜疑心の軽減を図ったのではないでしょうか。
 その上で、ミッションが完遂できた、と、高向と南淵が判断できた640年に、この二人は帰国した、と見るわけです。
 その時点では、既に皇子は亡くなっていたけれど、皇子は、自分の後の天皇として、自分の子であるけれど母親が蘇我氏本流の蘇我馬子の娘であった山背大兄王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E8%83%8C%E5%A4%A7%E5%85%84%E7%8E%8B
だけではなく、自分の従兄弟である押坂彦人/大兄皇子の子で、蘇我本流どころかおよそ蘇我氏と無縁であった田村皇子(593?~641年。舒明天皇:629~641年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%92%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87
にも目をかけていた可能性が大であり、恐らくは、山背大兄王だけではなく、田村皇子にも親しく直接、蘇我本流排除・軍制改革/弥生化構想・・これを私は、幕末の島津斉彬コンセンサスに準えて、(聖徳太子と遣隋使達が協力して作り上げたところの)聖徳太子コンセンサスと名付けたわけだ・・を伝えていたと想像されるところ、これを受け、舒明天皇は、結果的に自分の生前最後の重要指示として、自分の子で将来の天皇と目されていた中大兄皇子(626~672年。天智天皇:(661)668~672年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%99%BA%E5%A4%A9%E7%9A%87
に、640年に帰国した(厩戸皇子のアバター的存在たる)南淵請安の下で学ばせた、と、私は考えたいのです。
 もとより、この話は、中大兄皇子の母親である(後の皇極/斉明天皇)・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%89%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87
にも、夫の舒明天皇から伝えられてはいた可能性があります。
 (中大兄皇子の同母弟である大海人皇子(後の天武天皇)は生年不詳です
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87
が、当時、まだ幼少だったためか、それとも、天皇後継可能性ある者と見なされていなかったからなのかは不明ですが、南淵に学ぶ機会はなかったようです。
 これが、私見では、聖徳太子コンセンサスの完遂を著しく遅らせてしまう、という形で、日本の古代史、ひいては日本史全体及び、(とりわけ)朝鮮半島史全体、に大きなマイナスの影響を与えることになるのです(後述)。

 ・・・613年・・・、掖上池、畝傍池、和珥池を作る。難波から飛鳥までの大道を築く。日本最古の官道であり、現在の竹内街道とほぼ重なる。

⇒皇子は、日本で初めて、軍事用の道路を作った、と、受け止めるべきでしょう。(太田)

 ・・・614年・・・、犬上御田鍬らを隋へ派遣する。最後の遣隋使となる。
 ・・・615年・・・までに三経義疏<(注58)>を著した。

 (注58)「<厩戸皇子>によって著されたとされる『法華義疏』(伝 推古天皇23年(615年))・『勝鬘経義疏』(伝
推古天皇19年(611年))・『維摩経義疏』(伝
推古天皇21年(613年))の総称である。それぞれ『法華経』・『勝鬘経』・『維摩経』の三経の注釈書(義疏・注疏)である。・・・
 この種の注釈書は当時の<支那>に多く見られ<、>『法華義疏』は梁の法雲(476年

529年)による注釈書『法華義記』と7割同文で、これをもとにしたものであることが分かる<し、>『勝鬘経義疏』は敦煌出土の『勝鬘経義疏本義』と7割同文。未発見の6世紀前半と推定される注釈書をもとにしたものと思われる<し、>『維摩経義疏』もやはり梁の吉蔵(549年
– 623年)の『維摩経義疏』や敦煌出土の『維摩経義記』と類似して・・・いる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%B5%8C%E7%BE%A9%E7%96%8F

⇒脱線ですが、仮に、三経義疏が本当に厩戸皇子自身の著作であったとすれば、遺憾なことですが、当時、著作権の概念が確立していたとも思えないので、皇子を責めるわけにもいかないでしょう。(太田)

 ・・・620年・・・、厩戸皇子は馬子と議して『国記』、『天皇記』、『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』を編纂した。

⇒これら、執筆、編纂活動は、蘇我氏本流の目を欺くためのやっつけ仕事だった、と、私は見たいですね。(太田)

 ・・・622年・・・、斑鳩宮で倒れた厩戸皇子の回復を祈りながらの厩戸皇子妃・膳大郎女が・・・薨去し、その後を追うようにして・・・厩戸皇子は薨御した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90

⇒過酷で心労が絶えない生涯を送り、皇太子のままで天皇に即位する前に49年で寿命が尽きた、ということでしょう。(太田)

—————————————————————————————–
[蝦夷]

〇粛慎

 私は、下掲に登場する「粛慎(しゅくしん)」について、大陸北東部から渡来した人々であって、蝦夷はこの「粛慎」と何らかの関係がある、と見ている。↓

 「<660年>には、阿倍臣が粛慎を討伐する際、陸奥の蝦夷を自分の船に乗せて河を越え渡島に渡ったが、到着後に渡島に住む蝦夷から粛慎の水軍が多数襲来するので、河を渡って朝廷に仕えたいと申し出る記述があり、この時代には熟蝦夷の一部が朝廷軍として働いていたと見られている。なお粛慎と呼ばれる集団も詳細は不明であり本州以外に住んでいる蝦夷の別称という説もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9D%A6%E5%A4%B7
 「『日本書紀』に粛慎が登場する箇所は、大きく分けて以下の3つがある。
欽明天皇の時に佐渡島へ粛慎が来たこと
斉明天皇の時の阿倍<(前出)>比羅夫の粛慎討伐
天武天皇・持統天皇の時の粛慎の来訪と官位を与えたこと
 これら粛慎について、どのような集団かという説はさまざまあるが、おおむね以下のようにまとめられよう。
・蝦夷(えみし)と同じであるとする説。粛慎と呼ぶのは<支那>の古典にも見られる由緒ある名前であるからとする。
・蝦夷とも「<支那>文献中の粛慎」とも違う民族であるとする説(ニヴフ、アレウトなど、もしくは現存しない民族)。
・「<支那>文献中の粛慎」と同じツングース系民族であるとする説。
・また北海道のオホーツク海沿岸や樺太などに遺跡が見られるオホーツク文化人(3世紀〜13世紀)という説も有力である。
 粛慎の訓は「みしはせ」とする説と「あしはせ」とする説とがあり、未だに定まっていない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%9B%E6%85%8E_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)

〇出雲勢力

 「粛慎」が何であれ、この「粛慎」こそが、ヤマト王権連合に最も激しく抵抗したらしいところの、出雲勢力の中核だったのではなかろうか。
 (濊貊(わいはく)や夫余や高句麗は、前述したように、全て定着民勢力であり、戦いにおいても騎馬戦術を中心としてはいなかったようであることから、下掲のような出雲勢力と直接的な関りがあったとは思えない。)↓

 「日本国最初の正史「日本書紀」は720(養老4)年の完成<で>・・・あるが、今も謎が多い。<謎の>最たるものが、もう一つの歴史書「古事記」がほぼ同時期につくられたことだ。
 古事記は712(和銅5)年の成立。ともに天武天皇の意向で編さんされたとされるが、両書には違いも多く、一人の天皇が意図した歴史書としては不可解極まる。
 オオクニヌシの国の支配権が高天原に移ること(国譲り)を正統とする点は両書で共通するが、・・・古事記では神話の3分の1ほども出雲神話が占める。ところが、日本書紀の本文はごく簡単に触れるだけだ。・・・
 この謎に「古事記は敗れた側の歴史を語る。勝者(天皇側)の日本書紀とは成り立ちが違う」と答えるのが、三浦佑之<(注59)>(すけゆき)・千葉大名誉教授(古代文学)の新刊「出雲神話論」(講談社)である。・・・

 (注59)1946年~。津高卒、成城大文芸卒、同大院博士後期課程単位取得退学、共立女子短大、千葉大教授を経て立正大文学部教授、同大定年退官。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E4%BD%91%E4%B9%8B

 独自の文化を誇った列島の各地域も、やがてヤマトに制圧される。彼ら敗者の歴史を語ったのが古事記であり、中でもヤマトとの対立が抜きんでて激しかった出雲が敗者の象徴として入念に神話に描かれた、と考え<るわけだ。>」
https://mainichi.jp/articles/20200122/k00/00m/040/131000c
(1月22日アクセス)
 「『日本書紀』における八岐大蛇の記述がある一書第4では、天から追放されたスサノオは、新羅の曽尸茂梨(そしもり)に降り、この地吾居ること欲さず「乃興言曰
此地吾不欲居」と言い息子の五十猛神(いそたける)と共に土船で東に渡り出雲国斐伊川上の鳥上の峰へ到った(「遂以埴土作舟
乘之東渡 到出雲國簸川上所在 鳥上之峯」)後、八岐大蛇を退治した。・・・
 そして・・・『古事記』によれば、・・・ヤマタノオロチの尾から出てきた草那藝之大刀<(注60)>(くさなぎのたち、紀・草薙剣)を天照御大神に献上し、それが古代天皇の権威たる三種の神器の一つとなる(現在は、愛知県名古屋市の熱田神宮の御神体となっている)。その後、櫛から元に戻したクシナダヒメを妻として、出雲の根之堅洲国にある須賀(すが)の地(中国・山陰地方にある島根県雲南市)へ行きそこに留まった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%B5%E3%83%8E%E3%82%AA

 (注60)「天智天皇7年(668年)に新羅の僧・道行(どうぎょう)が熱田神宮から草薙剣を盗み、新羅に持ち帰ろうとした(『日本書紀』二十七巻、天智天皇)。『尾張国熱田太神宮縁起』では、一度目は神剣が自ら神宮に戻って失敗。二度目は船が難破して失敗、神剣は日本側に回収された(草薙剣盗難事件も参照)。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%8F%A2%E9%9B%B2%E5%89%A3

 紀記は、出雲の祖であるスサノオ(注61)が朝鮮半島出身であることを示唆しており、草薙剣もまた朝鮮半島由来のものであると考えられたとしても不思議はない。
 新羅の僧が草薙剣を本国に盗んで持ち帰ろうとしたとの伝承があるのは、少なくとも日本側に、そしてひょっとしたら朝鮮半島側にも、そのような認識があったからではなかろうか。
 私は、草薙剣の本体を見た人がおらず、ないしは、見た人も見なかったことにしてきているように思われ、また、その形代も壇ノ浦の戦いで失われたとされ、現在宮中に祀られているとされるところの、再作成された形代が失われたかつての形代(以上、上掲)、ひいては本体、を忠実に模したものである保証はどこにもないことから、本体や形代が「草那藝之大刀」とも呼ばれ、太刀ではなく大刀とされていても、実は、本体は太刀であったのではないか、と、勘ぐっている。
 (見た人は、それが太刀であり、それでは、スサノオよりも前の代から伝わってきた刀ではなくなく偽の神器だ、ということになりかねないので、見なかったことにしてきた、と解するわけだ。)

 (注61)スサノオが出雲の祖であるゆえんは以下の通りだ。↓
 「葦原色許男神<(=大穴牟遅神(オオナムヂ、後の大国主))>はこの隙に逃げようと思い、スサノオの髪を部屋の柱に結びつけ、大きな石で部屋の入口を塞いだ。スサノオの生大刀と生弓矢、スセリビメの天詔琴を持ち、スセリビメを背負って逃げ出そうとした時、琴が木に触れて鳴り響いた。
 ちなみに、生大刀(いくたち)は、直刀であり、反りのある刀(太刀)ではない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E5%A4%A7%E5%88%80
 また、生弓矢は、いきいきとした生命力のある弓と矢のことだ。
https://kotobank.jp/word/%E7%94%9F%E5%BC%93%E7%9F%A2-2005550

 その音でスサノオは目を覚ましたが、その際に髪が結びつけられていた柱を引き倒してしまった。スサノオが柱から髪を解く間に、葦原色許男神は逃げることができた。
 スサノオは、葦原中津国(地上)に通じる黄泉比良坂(よもつひらさか)まで葦原色許男神を追ったが、そこで止まって逃げる葦原色許男神に「お前が持つ大刀と弓矢で従わない八十神を追い払え。そしてお前が大国主、また宇都志国玉神(ウツシクニタマ)になって、スセリビメを妻として立派な宮殿を建てて住め。この野郎め」といった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9B%BD%E4%B8%BB%E3%81%AE%E7%A5%9E%E8%A9%B1#%E6%A0%B9%E3%81%AE%E5%9B%BD%E8%A8%AA%E5%95%8F

〇蝦夷

 いずれにせよ、少なくとも、下掲は事実である、と言ってよさそうだ。↓ 

 「古代の蝦夷(えみし)は、本州東部とそれ以北に居住し、政治的・文化的に、大和朝廷やその支配下に入った地域への帰属や同化を拒否していた集団を指した。統一した政治勢力をなさず、積極的に朝廷に接近する集団もあれば、敵対した集団もあったと考えられている。・・・
 東北方言と出雲方言の類似性から、古代出雲系の民族のうち国譲り後も大和王権に従わなかった勢力が蝦夷(えみし)となったとする見方もある。出雲弁とツングース諸語の類似などから、蝦夷はもともと日本にいなかった馬を引き連れて大陸から来た北方新モンゴロイドの騎馬民族とする説もある。また蝦夷の戦術(騎射、軽装甲)もモンゴル系民族と類似している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9D%A6%E5%A4%B7

 しかし、不思議なことに、この、弥生性に富んだ、蝦夷の戦術(騎馬戦術・武器)を、ヤマト王権は、当初、部分的にしか継受しようとはしなかったようなのだ。
 (長期的にも全面的継受はしたわけではないが・・。)↓

 「日本において馬が登場するのは4世紀以降であり、考古学的には6世紀の古墳から挂甲、直刀、鏃、馬具が一括して出土するようになる。

 7世紀から9世紀まで断続的に続いた大和と蝦夷の戦争で大和へ帰服した蝦夷が俘囚となると、和人側に蝦夷が狩猟で培った乗馬や騎射の技術が伝わった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A8%8E%E5%B0%84
 「日本における乗馬の風習の開始は・・・5世紀初頭が上限であり、以後、馬の飼養、馬具の国産化が軌道にのって騎馬の風習が一般化したのは5世紀末以降とみられる・・・
 <但し、>北方遊牧民のあいだでは馬上からの連射のため、短弓の使用が一般的であるが、日本では戦国時代に至るまで長弓であった・・・。また、刀剣も騎馬民族のものは馬上から振り下ろすため刀身に反りのある刀が一般的だが、日本列島の古墳から出土する刀はすべて直刀である・・・
 <また、>文献史家の水野祐は・・・「騎馬民族」とは戦闘においてつねに集団的な騎馬戦法を主体とする種族であるとし、日本においては記紀においても、後世にあってもそのようなことがなかった<、とも指摘している。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A8%8E%E9%A6%AC%E6%B0%91%E6%97%8F%E5%BE%81%E6%9C%8D%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E8%AA%AC 前掲 
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 (2)天智天皇–聖徳太子コンセンサス実現へ着手

 「626年・・・蘇我馬子が死に、子の蝦夷がかわって大臣となった。・・・628年・・・推古天皇が後嗣を指名することなく崩御した。
 有力な皇位継承権者には田村皇子と山背大兄王(聖徳太子の子)がいた。血統的には山背大兄王の方が蘇我氏に近いが・・・蝦夷は田村皇子を次期皇位に推した。[その理由については諸説がある
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%92%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87
が、]蝦夷は山背大兄王を推す叔父の境部摩理勢<(さかいべのまりせ。稲目の弟?)>を滅ぼして・・・<い>る。これが舒明天皇である。・・・
 [舒明天皇は、在位中、最初の遣唐使を送り、・・・旻、・・・<そして、>高向玄理と・・・南淵請安が帰国し<ている>。・・・
 <この舒明天皇は、>641年・・・崩御<する。>(上掲)] 
 <舒明天皇の皇后が皇極天皇として即位するが、>643年・・・<蝦夷の子の>入鹿は蘇我氏の血をひく古人大兄皇子<・・中大兄皇子の異母兄・・>を皇極天皇の次期天皇に擁立しようと望んだ。そのためには・・・山背大兄王の存在が邪魔であると考え・・・軍勢をさしむけ、山背大兄王の住む斑鳩宮を攻めさせ<たので、王は、>・・・生駒山へ逃れ・・・そこで・・・東国へ逃れて再挙することを勧められるが、・・・王は民に苦しみを与えることになると採り上げ<ず、>・・・王子と共に自殺。・・・
 このことによって聖徳太子の血を引く上宮王家は滅亡した。入鹿が山背大兄王一族を滅ぼしたことを知った蝦夷は、「自分の身を危うくするぞ」と嘆いている。・・・
 中大兄皇子と鎌足は南淵請安の私塾で周孔の教えを学び、その往復の途上に蘇我氏打倒の密談を行ったとされる。

⇒彼らが学んだのは周孔(孔子)の教えもさることながら、厩戸皇子の遺志を受けたところの、南淵らが取りまとめた、聖徳太子コンセンサスであった、と、私は見ています。
 そして、それは、(漢人王朝の仇敵であり続けた遊牧民族的な戦術・武器を用いたところの)蝦夷・・蘇我蝦夷ではない!・・の戦法の習得、と、封建制の確立、とを二本柱とするものであり、その前提としての、鎮護国家教を信奉し専横を極める蘇我氏本流の除去であった、と。(太田)

 <皇子と>鎌足は更に蘇我一族の長老・蘇我倉山田石川麻呂を、その娘を皇子の妃の一人とすることで、同志に引き入れ・・・た。

⇒これは、蘇我氏主流全体を一時(どき)に敵に回さないための高等戦術だった、と思われます。(太田)

 ・・・645年・・・三韓(新羅、百済、高句麗)から進貢(三国の調)の使者が来日した。・・・
 中大兄皇子と鎌足はこれを好機として暗殺<を>実行<した>。(・・・三韓の使者の来日は入鹿をおびき寄せる偽りであったと<する説もある。>)・・・
 <翌日、>・・・蝦夷は舘に火を放ち・・・自殺し・・・蘇我本宗家は滅び<、更にその翌日、>皇極天皇は軽皇子へ譲位した。孝徳天皇<(注62)>である。

 (注62)596~654年。天皇:645~654年。「皇極天皇(斉明天皇)の同母弟。天智天皇(中大兄皇子)・間人皇女・天武天皇(大海人皇子)の叔父。姪・間人皇女を皇后にした。阿倍倉梯麻呂(阿倍内麻呂)の娘の小足媛を妃として、有間皇子を儲けた。他に子女は確認されていない。蘇我倉山田石川麻呂の娘の乳娘(ちのいらつめ)を妃とした。・・・仏法を尊び、神道を軽んじた。柔仁で儒者を好み、貴賎を問わずしきりに恩勅を下した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87

 <天皇の譲位は前代未聞であった。・・・中臣鎌子(後の藤原鎌足)が即位前の軽皇子時代に接近していたことが知られる・・・。・・・翌々日に皇極天皇は中大兄皇子に位を譲ろうとした。中大兄は辞退して軽皇子を推薦した。 ⇒中大兄皇子は母の皇極天皇にも言い含めた上で決行したと私は見ており、その後の成り行きは皇子の筋書き通りに進行させたもの、とも見ています。  皇極天皇が退位し軽皇子を天皇にすることによって、皇極天皇に対する疑惑の目を逸らすとともに、自分は新天皇の陰に隠れて権力をふるう、という魂胆で。  これは、皇子が、彼が尊敬していたはずであるところの、(推古天皇の陰に隠れて権力をふるった)厩戸皇子の偉大なる「先例」に倣ったものでしょう。(太田)  軽皇子は三度辞退して、古人大兄皇子<(注63)>を推薦したが、古人大兄は辞退して出家した。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87 〉

 (注63)?~645年。「母は蘇我馬子の娘・蘇我法提郎女(ほほてのいらつめ)で大臣・蘇我入鹿とは従兄弟に当たる。娘は倭姫王(天智天皇の皇后)。・・・三韓から進貢の使者が来日し、宮中で儀式が行なわれた<際、>古人大兄皇子は皇極天皇の側に侍していた・・・。古人大兄皇子は私宮(大市宮)へ逃げ帰り「韓人が入鹿を殺した。私は心が痛い」(「韓人殺鞍作臣
吾心痛矣」)と言った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BA%BA%E5%A4%A7%E5%85%84%E7%9A%87%E5%AD%90

 中大兄皇子は皇太子に立てられた。中大兄皇子は阿倍内麻呂を左大臣、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣、中臣鎌足を内臣に任じ<た。>・・・
 <これが、>乙巳の変<である。>・・・
 <ちなみに、今では、>大化の改新<なるものはなかったとされるに至っている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%99%E5%B7%B3%E3%81%AE%E5%A4%89

⇒孝徳天皇の2人の妃の父親(つまりは孝徳天皇の義父)である2人を間に挟むことで天皇と蘇我氏本流を油断させる一方で、その上下を、自身と鎌足が挟む形でこの2人を有名無実化しているわけです。(太田)
 
 その後の、中大兄皇子の事績は次の通りです。

 「645年
-・・・9月、<自分の兄であると共に義父でもあった、>古人大兄皇子を謀反の疑いにて処刑・・・

⇒恐らくは、当初からの計画に基づいたものだったでしょうが、中大兄皇子の果断さ、容赦なさが現れています。
 この点だけは、実弟の大海人皇子もそっくり(後述)ですが・・。(太田)

  649年 –
3月、蘇我日向の密告を受け、<もう一人の義父になっていたところの、>蘇我倉山田石川麻呂を謀反の疑いにて自害に追い込む

⇒掌返しで、今度は、(やはり、恐らくは、当初からの計画に基づき、)蘇我氏本流の一層の弱体化を実現したわけです。(太田)

  653年 – 孝徳天皇の意に反し、群臣らを率いて<天皇の下を去る。>
  654年 – 10月、孝徳天皇崩御

⇒そして、更に、(世間の目を欺くために傀儡として擁立したところの)孝徳天皇を、(これまた、恐らくは、当初からの計画に基づき、)憤死させた、と言っていいでしょう。
 〈<なお、この間、何と、孝徳天皇の>皇后<の>間人皇女<(注64)(はしひとのひめみこ)まで中大兄皇子と行動を共にしている。>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87 前掲〉

 (注64)?~665年。「父は舒明天皇、母は皇極天皇(斉明天皇)。天智天皇の同母妹、天武天皇の同母姉に当たる。・・・<母親、>斉明天皇陵である越智岡上陵に合葬された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%93%E4%BA%BA%E7%9A%87%E5%A5%B3

  655年 – 1月、母・斉明天皇即位(皇極天皇重祚)。引き続き皇太子・・・
  658年 –
11月、蘇我赤兄の密告を受け、孝徳天皇の遺児・有間皇子を謀反の罪にて処刑

⇒自分の政敵になりそうな人間を次々に、計画的に、着実、かつ、確実、に消していった、ということです。
 但し、同母弟の大海人皇子まで消すことを考えなかったことが、大変な禍根を残すことになります。
 その結果、聖徳太子コンセンサスの実現が大幅に遅延することになってしまうのです(後述)。(太田)

  659年 – 阿倍比羅夫に蝦夷国(東北地方・北海道)遠征を命じる

⇒約200年前の5世紀後半に、(雄略天皇に同定される)倭王武が蝦夷を攻略した(前出)時点以降、蝦夷の話が姿を消してしまっていたにもかかわらず、7世紀後半にもなって、(別段、蝦夷が非違行為を行ったといった前兆など皆無なのに、)突然、中大兄皇子は蝦夷攻略を開始したことになりますが、これは、厩戸皇子のアバターたる南淵請安からのインプットに基づくところの、蝦夷の戦術・武器の習得、が最大の目的の行動だった、と私は見ているわけです。
 中大兄皇子は、15年もかけて自分の権力基盤を固め、それと並行して、具体的な、聖徳太子コンセンサス実現計画を練った上で、ついにその実現に着手した、と。
 ところが、あろうことか、それから間もなく、白村江の戦いで、日本は大敗北を喫する羽目に陥ってしまうのです。↓(太田)

  660年 – 百済が唐と新羅に攻め滅ぼされる。百済皇子の扶余豊璋を帰国させる
  661年 –
百済再興を救援するために西下するが、7月、斉明天皇が・・・崩御。皇太子のまま称制
  663年 – 7月、白村江の戦いにて唐・新羅連合軍に大敗・・・

⇒その結果、日本は、唐の占領下に置かれる(コラム#9255)、という未曽有の展開となり、中大兄皇子は、聖徳太子コンセンサス実現を当面断念することを余儀なくされます。(太田)

  667年 – 3月、近江大津宮へ遷る
  668年 –
1月、即位。2月、大海人皇子を皇太弟とする。10月、高句麗が唐と新羅に攻め滅ぼされる。・・・
  670年 – ・・・11月、子・大友皇子を史上初の太政大臣に任ずる
  671年 – 10月、大海人皇子が吉野へ去る。12月・・・崩御」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%99%BA%E5%A4%A9%E7%9A%87 前掲 

⇒671年中に、唐の日本占領軍が撤退し、日本が独立を回復したのを見届けることができたものの、天智天皇は、精魂が尽き果てて逝去した、という形です。
 天智天皇は、後事を、全て、息子の大友皇子を始めとする子孫達と藤原/中臣家に託すことになったのですが・・。(太田)

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[白村江の戦い]

一、白村江の戦いで日本が唐に敗れた理由

 「白村江の戦い・・・(663年10月4日~10月5日)・・・<の時の>唐の水軍<は>、その主力は靺鞨<(注65)>で構成されていたという。
・・・

 (注65)「隋唐時代に<支那>東北部、沿海州に存在した農耕漁労民族。・・・
 後に高句麗遺民と共に渤海国を建国した南の粟末部と、後に女真族となって金朝,清朝を建国した北の黒水部の2つが主要な部族であった。・・・
 婦人は布製の服をまとい、男子は猪(イノシシ)や犬(イヌ)の皮を衣とする。・・・
 地面に穴を掘って死者を埋めるが、棺はない。生前乗っていた馬を殺して屍前に供える。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%BA%E9%9E%A8

⇒靺鞨は、遊牧民ではないが騎馬民族ではあったと言えそうだ。(太田)

 <日本側:>
 第一派:1万余人。船舶170余隻。指揮官は安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津。
 第二派:2万7千人。軍主力。指揮官は上毛野君稚子、巨勢神前臣譯語、阿倍比羅夫(阿倍引田比羅夫)。
 第三派:1万余人。指揮官は廬原君臣(いおはらのきみおみ)(廬原国造の子孫。現静岡県静岡市清水区を本拠とした)。・・・
 661年5月、第一派倭国軍が出発。・・・662年3月、主力部隊である第二派倭国軍が出発。・・・
 <唐・新羅側:>
 森公章<(注66)>は<この戦いの時は>不明<ながら>、660年の百済討伐の時の唐軍13万、新羅5万の兵力<に>相当するものだったと推定<している。

 (注66)1958年~。東大文(国史)卒、奈良国立文化財研究所、高知大を経て東洋大教授。この間、東大博士。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E5%85%AC%E7%AB%A0

 靺鞨水軍は唐軍の内数ということになる。>・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%9D%91%E6%B1%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
 「白村江の戦い<の>・・・海上戦<で>・・・倭国・百済連合軍がとった作戦は「我等先を争はば、敵自づから退くべし」という極めてずさんなものであった(『日本書紀』)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%9D%91%E6%B1%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
 「<そして、日本は>大敗した。・・・<また、>陸上でも、唐・新羅の軍は倭国・百済の軍を破り、百済復興勢力は崩壊した。白村江に集結した1,000隻余りの倭船のうち400隻余りが炎上した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%9D%91%E6%B1%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 前掲
 「白村江の戦いの・・・敗戦の因は、<靺鞨群を含む(太田)>唐の組織的な軍事力の編成にくらべ、倭軍団は地方豪族を核とした国造軍の寄合的な性格を帯びていた兵士の編成差に求められそう<だ>。」
https://books.google.co.jp/books?id=BeN420Jy6SAC&pg=PA138&lpg=PA138&dq=%E5%9B%BD%E9%80%A0%E8%BB%8D&source=bl&ots=6vaxOpG__g&sig=ACfU3U2MhCqDONcCWFyx_rd3nzeMCKCilg&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwiXjuiapqPlAhWKy4sBHaLLBYw4ChDoATAGegQICBAB#v=onepage&q=%E5%9B%BD%E9%80%A0%E8%BB%8D&f=false

⇒日本は、唐軍に敗れた、というよりも、靺鞨に敗れた、という思いだったのではなかろうか。(太田)

二、その唐/武周が最終的に敗北した理由

 唐は、鮮卑系の王朝であり、初代の李淵と二代目の李世民(皇帝:626~49年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%AE%97_(%E5%94%90)
の時代の唐軍は精強だった。
 しかし、白村江の戦いのあった663年を含む、655年~705年の間、支那の最高権力者は武則天だった(垂簾政治→皇帝(690年~))。
 その「武皇后は<、>自身に対する有力貴族(関隴貴族集団)の積極的支持がないと自覚していたため、自身の権力を支える人材を非貴族層から積極的に登用し<たが、>この時期に登用された人材・・・は低い身分の出身であり、貴族制下では宮廷内での出世が見込めない人物<であり、>・・・人材の採用に当たっては、・・・才能と武皇后への忠誠心<が>重視<され>た。・・・

⇒「低い身分の出身」となれば、鮮卑系ではなく、基本的に漢人達であったと思われ、彼らに「才能」はあったとしても、「軍事的才能」があったとは思いにくい。(太田)

 <唐は、>660年・・・、新羅の請願を容れ百済討伐の軍を起こし、百済を滅ぼした。
 <次いで、663年に>倭国(日本)・旧百済連合軍と劉仁軌率いる唐軍が戦った白江口の戦い(白村江の戦い)にも勝利し、<更に>その5年後には孤立化した高句麗を滅ぼした(唐の高句麗出兵)が、(671年に新羅が反旗を翻したため、まず、日本から撤退し、更には、678年までに唐軍は朝鮮半島からの撤退を余儀なくされ(コラム#9255)、更に、武皇后[が周の皇帝を称した690年を経た後の696年には、彼女]の暴政と営州都督・趙文翽の横暴により契丹が大規模な反乱を起こして河北へ侵攻するなど、遼東・遼西の情勢は・・・悪化した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%89%87%E5%A4%A9
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%91%E4%B8%B9 ([]内)
 なお、彼女の父親・・・武士彠(ぶしやく)<は>軍人であり、鮮卑系か漢人かは不明だが、その父親は財産家、というので、軍人の家系ではなかったはずだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%A3%AB%E3%82%AB%E3%82%AF
 彼女の母親は隋の皇族だったので、鮮卑系に違いないが・・。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%8A%E9%81%94_(%E9%9A%8B)
 この白村江の戦いは、北の黄河文明と南の長江文明の勢力争いの結果としての黄帝の三苗征服伝説(コラム#10982)の、南が東に変わった形での再現、とも言えよう。
 そして、長江文明が敗れたように、長江文明の出店であった日本もまた、黄河文明に破れ、短期間ではあったが、一旦征服されてしまったけれど、新羅が唐に反旗を翻し、恐らくは、この事態に対応するために唐の占領軍は671年に日本から引き揚げ、更には、この新羅のおかげで、678年までに唐軍が朝鮮半島から完全に撤退するに至った、ということもあって、日本は、その後も、20世紀に至るまで、再度他国に占領されるという憂き目に遭うことを免れたわけだ。(コラム#9255)
 なお、征服されたと書いたし、私自身、そう信じているけれど、征服された、と日本の史書は記していないし、征服した、と支那の史書もまた記していない(コラム#9255)ことは興味深い。
 (完全な想像だが)日本がその本来的縄文性を「発揮」し、白村江の戦いの敗戦だけで降伏してしまった、という負けっぷりの良さに唐軍は呆れ、日本列島を占領したものの、半信半疑、おっかなびっくり、という感じだったのではなかろうか。
 また、唐が占領軍を引き揚げる時にも、日本は黙って見送ったに違いない。
 だからこそ、日本は、唐軍の引き揚げから30年経った701年、再び、遣唐使・・正しくは遣周使だが、最高権力者は武則天で変わっていない・・の派遣を試み、天候が悪く失敗に終わるも、その翌702年に送ることに成功し、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E5%94%90%E4%BD%BF
唐(周)側も何事もなかったかのように、遣唐使を受け入れたのだろう。
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[対蝦夷戦]

 これを、私は、前述したように、聖徳太子コンセンサス実現に向けての着手、と見るわけだ。↓(太田)

 「658年・・・には<中大兄皇子が(太田)>阿倍比羅夫<に>水軍180隻を率い<させ>蝦夷を討伐している。・・・
 <660年>には、阿倍臣が粛慎<(前出)>を討伐する際、陸奥の蝦夷を自分の船に乗せて河を越え渡島に渡ったが、到着後に渡島に住む蝦夷から粛慎の水軍が多数襲来するので、河を渡って朝廷に仕えたいと申し出る記述があり、この時代には熟蝦夷の一部が朝廷軍として働いていたと見られている。なお粛慎と呼ばれる集団も詳細は不明であり本州以外に住んでいる蝦夷の別称という説もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9D%A6%E5%A4%B7
 <「蝦夷」という呼称は、この頃にはまだなかったことを下掲が示唆している。↓(太田)>
 「日本の律令制国家は、大宝元年(701)に大宝律令が施行されたことにより本格的に成立する。この律令制国家が直面した問題として、現在の東北地方より北方の地域を支配領域に組み込んでいなかったことが挙げられる。律令制国家は東北地方への進出を正当化するため、<支那>で創出された華夷思想を適用させたことが特徴である。すなわち、未服属の集団を蝦夷(エミシ)と呼称し、東方の異民族(東夷)として設定したのである。」
https://dornsife.usc.edu/assets/sites/63/docs/2013_Meiji-USC_Exchange-Igarashi_handout.pdf 
 天武朝(後出)は、本来、そのためにはそぐわなかったところの、唐から継受した軍制でもって、蝦夷に対処したが、量の優位があったので、破綻は免れた、ということだ。↓(太田)

 「律令制国家が保有した軍事力は、唐・新羅との野戦を想定して構築されたものであった。機動力のある蝦夷との戦闘には不向きであったため、劣勢に立たされることが多かった。そのため、蝦夷の戦闘力は高いという認識が生まれた。・・・
 <そこで、>陸奥国・出羽国は平時から蝦夷に備えるため、前線の城柵に一定の兵力を配備しておくことが求められた。
 そのため、守備兵力を増強するために鎮兵制が導入され、現在の関東地方に相当する「坂東」から兵士が派遣された。軍団兵士は交替で勤務するのに対し、鎮兵は常勤の形態で拠点の守備を行なった。
 <こうして>、古代東北の基本軍制は、軍団兵士制と鎮兵制から構成される独自の形態<とな>った。・・・
 <その上でだが>、蝦夷は継戦能力に限界があったという欠点があり、複数の集団が連合することで強化を意識していた。一方、律令制国家は広範囲からの動員が可能であり、蝦夷に比べると継戦能力に優れていた。そのため、個々の戦闘で劣勢に立たされても、物量で押し切ることが可能であった。・・・
 <結局、>律令制国家は物量で蝦夷を押し切ったため、軍事面の大きな革新はもたらされることはなかった・・・。」(五十嵐基善<(注67)>「律令制下における軍事問題の特質について―古代東北の軍事行動を中心として―」より)
http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=2&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwj36ei61pTnAhUJG6YKHQ1JDTIQFjABegQIARAC&url=http%3A%2F%2Fdornsife.usc.edu%2Fassets%2Fsites%2F63%2Fdocs%2F2013_Meiji-USC_Exchange-Igarashi_handout.pdf&usg=AOvVaw1B9xuu_ZoYPpoSyLbBuBxa 前掲

 (注67)明治大学修士、同大文学部兼任講師
https://jglobal.jst.go.jp/detail?JGLOBAL_ID=201501059299213676

 復活した天智朝(後述)は、改めて、聖徳太子コンセンサスの実現を再開し、そのための対蝦夷戦を本格的に行い始める。↓(太田)

 「光仁天皇<(後出)(天皇:770~781年)>以降、蝦夷に対する敵視政策が始まっている。また、光仁天皇以降、仏教の殺生禁止や天皇の権威強化を目的に鷹の飼育や鷹狩の規制が行われて奥羽の蝦夷に対してもこれを及ぼそうとし、またそれを名目に国府の介入が行われて支配強化につながったことが蝦夷の反乱を誘発したとする指摘もある。宝亀5年(774年)には按察使大伴駿河麻呂が蝦狄征討を命じられ、・・・811年・・・まで特に三十八年戦争とも呼ばれる蝦夷征討の時代となる。一般的には4期に分けられる。

 第1期
 桃生城に侵攻した蝦夷を征討するなど、鎮守将軍による局地戦が行われた。蝦夷の蜂起は日本海側にも及び、当時出羽国管轄であった志波村の蝦夷も反逆、胆沢地方が蝦夷の拠点として意識され始めた。後半は主に出羽において戦闘が継続したが、伊治呰麻呂らの協力もあり、・・・778年・・・までには反乱は一旦収束したと考えられている。

 第2期
 ・・・780年・・・から・・・781年・・・まで。伊治呰麻呂の乱(宝亀の乱)<(注68)>とも呼ばれる。・・・

 (注68)「・・・780年<5月1日>・・・、政府側に帰服して上治郡の大領に任じられていた「蝦夷」である伊治公呰麻呂<(これはり/これはるのあざまろ。生没年不詳)>が、覚鱉城(かくべつじょう)造営に着手するために伊治城(現在の宮城県栗原市にあった城柵)に駐留することとなった陸奥按察使紀広純およびそれに付き従っていた陸奥介大伴真綱、牡鹿郡大領であった道嶋大楯らを襲撃。紀広純、道嶋大楯の殺害に至ったのち、呰麻呂に呼応して反乱した軍勢が陸奥国府であった多賀城を襲撃し、物資を略奪して城を焼き尽くした・・・。
 <「この時期は政府によって各国に置かれた軍団兵と、政府側に帰属した蝦夷・俘囚によって構成される俘軍という二本立ての現地兵力によって、敵対する蝦夷と武力衝突が起きていた時期であるが、その中で呰麻呂は俘軍を率い政府側で戦功を重ねていた。・・・
 ・・・778年・・・6月に前年行われた海道・山道蝦夷の征討に際しての戦功を賞し、外従五位下の位階が授けられた<が、>・・・これは地方在住者として最高の位であり、これによって彼は官人たりえる身分を得たと考えられる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E6%B2%BB%E5%91%B0%E9%BA%BB%E5%91%82 >
 <これを、宝亀の乱と呼ぶ。>
 陸奥国、出羽国両国統治の最高責任者であった陸奥按察使が殺害され、多賀城が失陥したことにより、政府による東北地方の経営は大打撃を被った。この事件に大きな衝撃を受けた政府は、呰麻呂の行動を「伊治公呰麻呂反」と記して、八虐のうち謀反にあたると断じ、国家転覆の罪に当たるとした。のみならずただちに征東大使、出羽鎮狄将軍を派遣して軍事的な鎮圧に当たらしめたが、陸奥国の動乱はより深まっていき、政府と蝦夷が軍事的に全面対決する時代が到来する。にもかかわらず首謀者であった呰麻呂は捕らえられることなく、その後の記紀にも現れずに歴史の中に消えてしまっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9D%E4%BA%80%E3%81%AE%E4%B9%B1

 藤原小黒麻呂が征東大使となり、翌・・・781年・・・には乱は一旦終結に向かったと推察されている。
 <「・・・787年・・・の記録に「蝦夷に横流しされた綿で敵が綿冑を作っている」という記述があり、」蝦夷との間で「不正な交易が行われていたことがうかがえる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9D%A6%E5%A4%B7 >

 第3期
 ・延暦八年の征夷
 ・・・789年・・・に、前年征東大使となった紀古佐美らによる大規模な蝦夷征討が開始された。紀古佐美は5月末まで衣川に軍を留め、進軍せずにいたが、桓武天皇<(後出)(天皇:781~806年)>からの叱責を受けたため蝦夷の拠点と目されていた胆沢に向けて軍勢を発したが、・・・官軍は阿弖流爲率いる胆沢蝦夷軍に翻弄され、惨敗を喫し・・・紀古佐美の遠征は失敗に終わったという(巣伏の戦い)。・・・
 延暦八年の征夷は、5月下旬から末頃に起こった巣伏の戦いと呼ばれる第一次胆沢合戦の後に、第二次胆沢合戦が起こっていた可能性が指摘されている。

 ・延暦十三年の征夷
 ・・・794年・・・には、再度の征討軍として征夷大使大伴弟麻呂、征夷副使坂上田村麻呂による蝦夷征伐が行われた。・・・、田村麻呂は四人の副使(副将軍)の一人にすぎないにもかかわらず唯一史料に残っているため、中心的な役割を果たしたらしい。

 ・延暦二十年の征夷
 ・・・801年・・・には坂上田村麻呂が征夷大将軍として遠征し、夷賊(蝦夷)を討伏した。このとき蝦夷の族長・阿弖流爲は生存していたが、いったん帰京してから翌年、確保した地域に胆沢城を築くために陸奥国に戻っていることから、優勢な戦況を背景に停戦したものと見られている。・・・
 大墓公阿弖利爲と盤具公母禮が五百余人を率いて降伏し・・・、田村麻呂が2人を助命し仲間を降伏させるよう提言したこ<が、>群臣が反対し阿弖利爲と母禮が河内国椙山で斬られた・・・。・・・
 第3期の蝦夷征討は、・・・803年・・・に志波城を築城したことで終了した。

 第4期
 ・・・811年・・・の文室綿麻呂による幣伊村征討が行われ、和賀郡、稗貫郡、斯波郡設置に至った。爾薩体・幣伊2村を征したと<されるが、>・・・征討軍が本州北端に達したという説もある。翌年には徳丹城が建造され、9世紀半ばまでは使用されていたが、このとき建郡された3郡については後に放棄されている。・・・
 <すなわち、「朝廷は蝦夷に対する直接の征服活動を諦め、畿内朝廷の支配領域の拡大は現在の岩手県と秋田県のそれぞれ中部付近を北限として停止する。
 その後は、現地の朝廷官僚や大和化した俘囚の長たちが蝦夷の部族紛争に関与することなどにより、徐々に大和化が進行していったものと思われる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9D%A6%E5%A4%B7 前掲>
 <なお、>朝廷は平時より陸奥国・出羽国各地に城柵を設置して、国内各地の軍団に番を組ませて守備させた。また、それぞれの城柵に属する鎮兵も設置されて協力して城柵を守った。鎮兵は坂東(関東地方)各国から派遣された。また、奈良時代初期の征討の場合には北陸道・東海道各地から兵が現地へ派遣されたが、奈良時代中期以降は坂東各国からの派兵に限定されたため、同地域には大きな負担になった。一方、北陸道は出羽国と密接な越後国を含めて兵士の負担を負うことは無かったが、代わりに米などの兵粮を負担させられる場合が多かった。これらの兵粮は来朝する蝦夷や城柵付近に定住した俘囚に対する支給にも用いられた。更に大規模な征討の際には坂東や東山道など幅広い地域から兵粮の調達が行われた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9D%A6%E5%A4%B7%E5%BE%81%E8%A8%8E
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 (3)天武朝時代–聖徳太子コンセンサス抑圧

  ア 天武天皇による唐流軍制策定着手

 「660年代後半、都を近江宮へ移していた天智天皇は同母弟の大海人皇子を皇太子(『日本書紀』には「皇太弟」とある。また、大海人皇子の立太子そのものを『日本書紀』の創作とする説もある)に立てていたが、・・・671年11月23日・・・、自身の皇子である大友皇子を太政大臣につけて後継とする意思を見せはじめた。その後、天智天皇は病に臥せる。大海人皇子は大友皇子を皇太子として推挙し、自ら出家を申し出、吉野宮(現在の奈良県吉野)に下った。天智天皇は大海人皇子の申し出を受け入れた。
 ・・・672年1月7日・・・天智天皇が・・・崩御した。大友皇子が跡を継ぐが、・・・大海人皇子は・・・7月24日・・・に吉野を出立した。まず、名張に入<っ>・・・たが、名張郡司は出兵を拒否した。大海人皇子は美濃、伊勢、伊賀、熊野やその他の豪族の信を得ることに成功した。続いて伊賀に入り、ここでは阿拝郡司(現在の伊賀市北部)が兵約500で参戦した。そして積殖(つみえ、現在の伊賀市柘植)で長男の高市皇子の軍と合流した(鈴鹿関で合流したとする説もある)。さらに伊勢国でも郡司の協力で兵を得ることに成功し、美濃へ向かった。美濃では大海人皇子の指示を受けて多品治が既に兵を興しており、不破の道を封鎖した。これにより皇子は東海道、東山道の諸国から兵を動員することができるようになった。美濃に入り、東国からの兵力を集めた大海人皇子は・・・7月31日・・・に軍勢を二手にわけて大和と近江の二方面に送り出した。
 近江朝廷の大友皇子側は東国と吉備、筑紫(九州)に兵力動員を命じる使者を派遣したが、東国の使者は大海人皇子側の部隊に阻まれ、吉備と筑紫では現地の総領を動かすことができなかった。特に筑紫では、筑紫率の栗隈王が外国に備えることを理由に出兵を断ったのだが、大友皇子はあらかじめ使者の佐伯男に、断られた時は栗隈王を暗殺するよう命じていた。が、栗隈王の子の美努王、武家王が帯剣して傍にいたため、暗殺できなかった。それでも近江朝廷は、近い諸国から兵力を集めることができた。
 大和では大海人皇子が去ったあと、近江朝が倭京(飛鳥の古い都)に兵を集めていたが、大伴吹負が挙兵してその部隊の指揮権を奪取した。吹負はこのあと西と北から来襲する近江朝の軍と激戦を繰り広げた。この方面では近江朝の方が優勢で、吹負の軍はたびたび敗走したが、吹負は繰り返し軍を再結集して敵を撃退した。やがて紀阿閉麻呂が指揮する美濃からの援軍が到着して、吹負の窮境を救った。
 近江朝の軍は美濃にも向かったが、指導部の足並みの乱れから前進が滞った。・・・村国男依らに率いられて直進した大海人皇子側の部隊は、・・・8月8日・・・に息長の横河で戦端を開き、以後連戦連勝して箸墓での闘いでの勝利を経て進撃を続けた。・・・8月20日・・・に瀬田橋の戦い(滋賀県大津市唐橋町)で近江朝廷軍が大敗すると、翌・・・8月21日・・・に大友皇子が首を吊って自決し、乱は収束した。・・・翌・・・673年・・・2月、大海人皇子は飛鳥浄御原宮を造って即位した。
 近江朝廷が滅び、再び都は飛鳥(奈良県高市郡明日香村)に移されることになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AC%E7%94%B3%E3%81%AE%E4%B9%B1

⇒唐軍撤退後で、軍制が著しくガタガタになっていたことに付け入り、大海人皇子は、兄との約束を反故にし、甥を殺害して日本の権力を武力によって奪取したわけです。
 爾後、天武天皇は、自分が殆どあずかり知らないところの、聖徳太子コンセンサスの実現を追求するどころか、唐の軍制を直輸入する形での軍制改革構想の策定に着手するのです。(太田)

  イ 持統天皇による唐流軍制策定完了

 「649年・・・祖父の蘇我石川麻呂が中大兄皇子に攻められ自殺した。石川麻呂の娘で中大兄皇子の<妃の一人>だった造媛(みやつこひめ)は父の死を嘆き、やがて病死した。・・・

⇒蘇我本流と言ってもよいところの彼女は、実父の天智天皇を憎悪していた、と見ます。(太田)

 657年・・・13歳で叔父の大海人皇子・・・に嫁した。中大兄皇子は彼女だけでなく大田皇女、大江皇女、新田部皇女の娘4人を弟の大海人皇子に与えた。・・・667年・・・以前に大田皇女が亡くなったので、<彼>女が大海人皇子の妻の中でもっとも身分が高い人になった。・・・

⇒同母姉妹を含む姉妹達を一人の男性を巡って競わせるような仕打ちをしたことで、実父への元からの憎悪が一層募った、とも見ます。(太田)

 671年・・・大海人皇子が・・・吉野に隠棲したとき、・・・大海人皇子の<妃達>のうち、吉野まで従ったのは<彼>女だけではなかったかとされる。・・・
 壬申の乱<の際、>・・・乱の計画に与<り、>・・・天武天皇の在位中、皇后は常に天皇を助け、そばにいて政事について助言した。・・・

⇒だから、彼女の爾後の言動は、よく理解できるように思います。(太田)

 天武天皇<が686年に亡くなると、同じく天武天皇の妃達の一人で亡き実姉の子である大津皇子をその翌月処刑していたこともあり、皇太子であった実子の草壁>皇子を直ちに即位させることはしなかった。・・・<その草壁皇子が689年に亡くなると、その子の>軽皇子(後の文武天皇)に皇位継承を望むが、軽皇子は幼く(当時7歳)当面は皇太子に立てることもはばかられた。こうした理由から<彼女>は自ら天皇に即位することにした。・・・
 持統天皇の治世は、天武天皇の政策を引き継ぎ、完成させるもので、飛鳥浄御原令の制定と藤原京の造営が大きな二本柱である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E5%9B%A3_(%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC)
 「軍団は大宝元年(701年)制定の大宝律令に規定されているが、いつ成立したかを直接記す史料はない。7世紀半ばまでの日本の軍隊は歴史学で国造軍と呼ばれ、中央・地方の豪族が従者や隷下の人民を武装させて編成していた。国造軍と比べたときの軍団の特徴は、兵士を国家が徴兵したことと、軍事組織を地方民政機構から分離したことの二点である。遅くみる説では大宝令となるが、もう少し早くみて持統天皇3年(689年)の飛鳥浄御原令によるとする説が有力なものとしてある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E5%9B%A3_(%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC)
 「軍団兵士制の特徴は、律令により運用される組織的な構造を持っていた点にある。公民を軍団兵士として徴発することにより、大規模な兵力を保有することが可能となった。その総兵力数は、奈良時代においては人口約
500~600 万人に対して約 20 万人であったとする推算がある【下向井 1999】。」
http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=2&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwj36ei61pTnAhUJG6YKHQ1JDTIQFjABegQIARAC&url=http%3A%2F%2Fdornsife.usc.edu%2Fassets%2Fsites%2F63%2Fdocs%2F2013_Meiji-USC_Exchange-Igarashi_handout.pdf&usg=AOvVaw1B9xuu_ZoYPpoSyLbBuBxa
 「戸籍を6年に1回作成すること(六年一造)、50戸を1里とする地方制度、班田収授に関する規定など、律令制の骨格が本令により制度化されたと考えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E6%B5%84%E5%BE%A1%E5%8E%9F%E4%BB%A4
 「当初は全国に多数置かれたが、辺境・要地を除き一時的に停止されたこともあり、<桓武天皇の子で桓武天皇の次の次の次の天皇であるところの、佐賀源氏の祖の嵯峨天皇を兄に持ち、桓武平氏の直接の祖の葛原親王を弟に持つ、>淳和天皇の時の826年には東北辺境を除いて廃止された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E5%9B%A3_(%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC) 前掲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B3%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87 (<>内)

⇒この、唐流軍制、すなわち、政府が直轄するところの、軍団、なる凄まじい大兵力の動員可能性を担保するために律令制度が導入された、と考えればいい、ということです。
 ちなみに、防人については、以下の通りです。(太田)↓

 「大宝律令の軍防令(701年)、それを概ね引き継いだとされる養老律令(757年)・・・により規定され運用された。・・・
<支那におけると>同様、任期は3年で諸国の軍団から派遣され、任期は延長される事がよくあり、食料・武器は自弁であった。大宰府がその指揮に当たり、壱岐・対馬および筑紫の諸国に配備された。加えて、出土文字資料においては2004年に佐賀県唐津市の中原遺跡において「防人」の墨跡を持つ木簡が出土しており、肥前国にも配置されていた可能性がある。
当初は遠江以東の東国から徴兵され、その間も税は免除される事はないため、農民にとっては重い負担であり、兵士の士気は低かったと考えられている。徴集された防人は、九州まで係の者が同行して連れて行かれたが、任務が終わって帰郷する際は付き添いも無く、途中で野垂れ死にする者も少なくなかった。・・・
 防人が東国から徴兵された時期、その規模は2000人程度を数えた。・・・
 757年以降は九州からの徴用となった。奈良時代末期の792年に桓武天皇が健児の制を成立させて、軍団・兵士が廃止されても、国土防衛のため兵士の質よりも数を重視した朝廷は防人廃止を先送りした。実際に、8世紀の末から10世紀の初めにかけて、しばしば新羅の海賊が九州を襲った(新羅の入寇)。弘仁の入寇の後には、人員が増強されただけではなく一旦廃止されていた弩を復活して、貞観、寛平の入寇に対応した。

 院政期になり北面武士・追捕使・押領使・各地の地方武士団が成立すると、質を重視する院は次第に防人の規模を縮小し、10世紀には実質的に消滅した。1019年に九州を襲った刀伊を撃退したのは、大宰権帥藤原隆家が率いた九州の武士であった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%B2%E4%BA%BA

⇒軍団や防人の廃止についての記述に、復活天智朝二代目の桓武天皇の名前が登場したことを頭に刻んでおいてください。(太田)

  ウ 文武・元明・元正・聖武・孝謙・淳仁・称徳(孝謙重祚)による軍団制風化

 文武・元明(女)・元正(女)・聖武・孝謙(女)・淳仁・称徳(女。孝謙重祚)の各天皇は、聖徳太子コンセンサスに関心がないどころか、天武、持統両天皇が導入した唐流軍制、すなわち、軍団制、さえも風化するにまかせました。

 「文武天皇<(683~707年。天皇:697~707年)は、>・・・草壁皇子(天武天皇第二皇子、母は持統天皇)の長男。母は阿陪皇女(天智天皇皇女、持統天皇の異母妹、のちの元明天皇)。・・・祖母・持統から譲位されて天皇の位に即<いたが、>・・・当時15歳という先例のない若さだったため、持統が初めて太上天皇を称し後見役についた。・・・
 大宝元年・・・(701年・・・)に大宝律令が完成し、翌年公布している。・・・

⇒持統天皇が703年まで存命であり、大宝律令は、名実ともに、天武、持統夫妻の産物です。(太田)

 ・・・妃や皇后を持った記録は無い。皇后及び妃は皇族出身であることが条件であり、即位直後・・・に夫人(ぶにん)とした藤原不比等の娘・藤原宮子が妻の中で一番上位であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87

 「元明天皇<(661~721年。天皇:707~715年)は、>・・・天智天皇の皇女で、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘・姪娘(めいのいらつめ)。持統天皇は父方では異母姉、母方では従姉で、夫の母であるため姑にもあたる。大友皇子(弘文天皇)は異母兄。天武天皇と持統天皇の子・草壁皇子の正妃であり、文武天皇と元正天皇の母。・・・
 715年・・・9月2日、自身の老いを理由に譲位することとなり、孫の首皇子はまだ若かったため、娘・・・<の>元正天皇・・・に皇位を譲って同日太上天皇となった。女性天皇同士の皇位の継承は日本史上唯一の事例となっている。・・・721年・・・・・・娘婿の長屋王と藤原房前に後事を託し、さらに遺詔として葬送の簡素化を命じて・・・崩御した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87

⇒文武天皇に引き続き、元明天皇も、軍制に関することどころか、国制万般について、何の業績もあげていません。(太田)

 「元正天皇<(680~748年。天皇:715~724年)は、>・・・皇太子である甥の首皇子(聖武天皇)がまだ若いため、母・元明天皇から譲位を受け即位。・・・歴代天皇の中で唯一、母から娘への皇位継承が行われた。
この皇位継承は、父が草壁皇子であるため、男系の血筋をひく女性皇族間での、皇位の男系継承である。・・・
 720年・・・に、日本書紀が完成した。

⇒日本書記は天武天皇が編纂を命じた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80
ものであり、それがようやく完成した、というだけのことです。(太田)

 またこの年、藤原不比等が病に倒れ亡くなった。翌年長屋王が右大臣に任命され、事実上政務を任される。長屋王は元正天皇のいとこにあたり、また妹・吉備内親王の夫であった。・・・
 ・・・723年・・・、田地の不足を解消するために三世一身法が制定された。これにより律令制は崩れ始めていく。

⇒そうである以上、唐流軍制、すなわち、軍団制、の見直しも必要になったはずですが、元正天皇は何もやった形跡がありません。(太田)

 ・・・724年・・・、皇太子(聖武天皇)に譲位し、太上天皇となる。譲位の詔では新帝を「我子」と呼んで譲位後も後見人としての立場で聖武天皇を補佐した。
 ・・・743年・・・、聖武天皇が病気がちで職務がとれなくなると、上皇は改めて「我子」と呼んで<(注69)>天皇を擁護する詔を出し、翌年には病気の天皇の名代として難波京遷都の勅を発している。

 (注69)「聖武天皇<の幼少時に>・・・母の宮子<は>心的障害に陥ったため、その後は長く会うことはな<く、>・・・物心がついて以後の天皇が病気の平癒した母との対面を果たしたのは齢37のときであった。」

 晩年期の上皇は、病気がちで政務が行えずに仏教信仰に傾きがちであった聖武天皇に代わって、橘諸兄<(後出)>・藤原仲麻呂<(後出)>らと政務を遂行していたと見られている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E6%AD%A3%E5%A4%A9%E7%9A%87

 「聖武天皇<(701~756年。天皇:724~749年)は、>治世の初期は、皇親勢力を代表する長屋王が政権を担当していた。この当時、藤原氏は自家出身の光明子(父:藤原不比等・・・)の立后を願っていた。しかし、皇后は夫の天皇亡き後に中継ぎの天皇として即位する可能性があるため皇族しか立后されないのが当時の慣習であったことから、長屋王は光明子の立后に反対していた。ところが・・・729年・・・に長屋王の変<(注70)>が起き、長屋王は自害、反対勢力がなくなったため、光明子は非皇族として初めて立后された。・・・

 (注70)「天武天皇の孫で,高市 (たけち)
皇子の第1皇子である長屋王(684〜729)が謀反の疑いで自殺させられた事件
 長屋王は聖武天皇即位とともに左大臣となり藤原氏に対抗する勢力となった。729年,王は左道(邪道)<(邪教)>を学び国家を傾けようとしているという密告により兵士に邸宅を囲まれ,聖武天皇の命で妻子とともに自殺。・・・
 聖武天皇と夫人(ぶにん)藤原光明子(ふじわらのこうみょうし)(のちの光明皇后)との間に生まれた皇太子基王(もといおう)(某王との説も)が前年に死去する一方、別の夫人県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)が安積親王(あさかしんのう)を生んだ状況下で、安積立太子を阻むとともに第2子誕生を期待して、光明子立后をめざす藤原氏が、反対派と目される長屋王を排除するために起こした事件とみられる。」
https://kotobank.jp/word/%E9%95%B7%E5%B1%8B%E7%8E%8B%E3%81%AE%E5%A4%89-857302

⇒聖武天皇は、病弱であった上に、私は、母親の精神疾患のこともあり、精神面にも問題を抱えていたのではないかと想像していますが、このような、皇親系と藤原氏系の家臣達の深刻な内紛を傍観するだけであった様子が窺えます。
 なお、藤原氏の男性達は、折角ここまでして藤原氏の女性たる光明子の立后を図り、それに成功したというのに、その光明子は、天武朝の皇親達に取り込まれ、天武朝の人間になってしまうのです(後述)。(太田)

 なお、最終的に聖武天皇の後宮には他に4人の夫人が入ったが、光明皇后を含めた5人全員が藤原不比等・県犬養三千代のいずれか、または両人の血縁の者である。
 ・・・737年・・・に天然痘の大流行が起こり、藤原四兄弟を始めとする政府高官のほとんどが病死するという惨事に見舞われ、急遽、長屋王の実弟である鈴鹿王を知太政官事に任じて辛うじて政府の体裁を整える。さらに、・・・740年・・・には藤原広嗣の乱が起こっている。乱の最中に、突然関東(伊勢国、美濃国)への行幸を始め、平城京に戻らないまま恭仁京へ遷都を行う。その後、約10年間の間に目まぐるしく・・・遷都(平城京から恭仁京、難波京、紫香楽京を経て平城京に戻る)・・・行われた・・・。詳しい動機付けは定かではないが、遷都を頻繁に行った期間中には、前述の藤原広嗣の乱を始め、先々で火災や大地震など社会不安をもたらす要因に遭遇している。

⇒藤原広嗣の乱が起きたこと、また、起きてからの狼狽よう、は、上述した私の見方を裏づけるものです。(太田)

 天平年間は災害や疫病(天然痘)が多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依し、・・・741年・・・には国分寺建立の詔を、・・・743年・・・には東大寺盧舎那仏像の造立の詔を出している。これに加えてたびたび遷都を行って災いから脱却しようとしたものの、官民の反発が強く、最終的には平城京に復帰した。

⇒聖武天皇は、鎮護国家教仏教に更にのめり込んでしまうとともに、不必要な出費に国家のカネを散財し続けたわけです。(太田)

 また、藤原氏の重鎮が相次いで亡くなったため、国政は橘諸兄(光明皇后の異父兄にあたる)が執り仕切った。・・・743年・・・には、耕されない荒れ地が多いため、新たに墾田永年私財法を制定した。しかし、これによって律令制の根幹の一部が崩れることとなった。・・・

⇒いよいよ、唐流軍制、すなわち、軍団制、の見直しが焦眉の急になったというのに、聖武天皇は、当然ながら、何もしていません。(太田)

 744年・・・には安積親王が脚気のため急死した。これは藤原仲麻呂による毒殺と見る説がある。
 ・・・749年・・・、娘の阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位した(一説には自らを「三宝の奴」と称した天皇が独断で出家してしまい、それを受けた朝廷が慌てて手続を執ったともいわれる)。譲位して太上天皇となった初の男性天皇となる。

⇒そして、彼は、無責任にも、天皇の座を投げ出してしまうのです。
 (投げ出すのであれば、もっとずっと早くにそうすべきだったというのに・・。)(太田)

 ・・・752年・・・、東大寺大仏の開眼法要を行う。・・・754年・・・には唐僧・鑑真が来日し、皇后や天皇とともに会った・・・。・・・756年・・・に天武天皇の2世王・道祖王を皇太子にする遺言を残して崩御した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87

⇒聖武天皇は、最後まで、不必要な出費に国家のカネを散財しながら亡くなった、というわけです。

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[藤原不比等]

 ふじわらのふひと(659~720年)は、「藤原鎌足の次男。・・・『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』などの史料では天智天皇の落胤と書かれる。・・・歴史学者の間では皇胤説の支持は少ないが、もし本当に皇胤であったとすれば、後の異例とも言える不比等の出世が、天武天皇・持統天皇代に行われた皇親政治(天智・天武系皇子を朝廷の要職に就け、政治の中枢を担わせた形態)の延長として考えることも可能になるとして、支持する・・・保立道久<(注71)のような>・・・学者もいる。

 (注71)ほたてみちひさ(1948年~)。国際基督教大卒、都立大修士、東大史料編纂書助手、助教授、教授、所長、その後退任。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E7%AB%8B%E9%81%93%E4%B9%85

 11歳の時、父・鎌足が死去。父の生前の関係から、近江朝に近い立場にいたが、壬申の乱の時は、数えで13歳であったために何の関与もせず、近江朝に対する処罰の対象にも天武朝に対する功績の対象にも入らなかった。だが、中臣金をはじめとする鎌足の同族(中臣氏)の有力者が近江朝の要人として処罰を受けたこともあって、天武朝の初期には中臣(藤原)氏は朝廷の中枢から一掃された形となっており、有力な後ろ盾を持たない不比等は・・・大舎人の登用制度によって出仕して下級官人からの立身を余儀なくされたと考えられている。・・・
 ・・・697年・・・には持統天皇の譲位により即位した草壁皇子の息子・軽皇子(文武天皇)の擁立に功績があり、更に大宝律令編纂において中心的な役割を果たしたことで、政治の表舞台に登場する。また、阿閉皇女(元明天皇)付き女官で持統末年頃に不比等と婚姻関係になったと考えられている橘三千代<(注72)>の力添えにより皇室との関係を深め、文武天皇の即位直後には娘の藤原宮子が天皇の夫人となり、藤原朝臣姓の名乗りが不比等の子孫に限定され、藤原氏=不比等家が成立している。

 (注72)「県犬養三千代・・・ともいう。・・・はじめ敏達天皇系皇親である美努王に嫁し、葛城王(後の橘諸兄)<等>・・・を生んだ・・・。
 軽皇子(後の文武天皇)<が683>年に出生しており、元明天皇と三千代の主従関係から、三千代は軽皇子の乳母を務めていたと考えられている。
 時期は不詳であるが美努王とは離別し、藤原不比等の後妻となり、光明子<ら>・・・を生んだ」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%8C%E7%8A%AC%E9%A4%8A%E4%B8%89%E5%8D%83%E4%BB%A3
 
 文武天皇と<不比等の娘>宮子の間に・・・首皇子(聖武天皇)が生まれ<た後>、さらに橘三千代との間の娘である光明子を聖武天皇に嫁がせたが、光明子は不比等の死後、不比等の息子の藤原四兄弟の力によって光明皇后となり初の非皇族の人臣皇后の例となった。
 不比等は氏寺の山階寺を奈良に移し興福寺と改めた。その後、養老律令の編纂作業に取りかかるが養老4年(720年)に施行を前に病死した。享年62。養老律令を実施したのは孫の仲麻呂の時である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%B8%8D%E6%AF%94%E7%AD%89

⇒抜群の能力があったとしても、少なくとも、当時の天皇家の人々が不比等が天智天皇の落胤だと信じていなければ、彼の異例の出世を説明できない、と、私は思う。(太田)
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[橘諸兄]

 たちばなのもろえ(684~757年)。「敏達天皇の後裔で、大宰帥・美努王の子。母は橘三千代で、光明子(光明皇后)は異父妹にあたる。・・・
 ・・・藤原四兄弟<等の死去の後の>・・・738年・・・正三位・右大臣に任ぜられ、・・・以降、国政は橘諸兄が担当、遣唐使での渡唐経験がある・・・吉備真備・・・玄昉をブレインとして抜擢して、聖武天皇を補佐することになった。・・・
 ・・・740年・・・に大宰少弐・藤原広嗣が、政権を批判した上で・・・玄昉と・・・<吉備>真備を追放するよう上表を行う。しかし実際には、国政を掌っていた諸兄への批判及び藤原氏による政権の回復を企図したものと想定される。<そして、>広嗣<は>九州で兵を動かして反乱を起こす・・・(藤原広嗣の乱)・・・
 ・・・743年・・・従一位・左大臣に叙任され、・・・749年・・・にはついに正一位に陞階。生前に正一位に叙された人物は日本史上でも6人と数少ない。また残りの5人のうち、2人は天皇の生母・外祖母であり、最後に生前叙位された三条実美は没する寸前であったため、純粋に官職を昇りつめて正一位の状態で政務にあたったのは藤原仲麻呂・藤原永手と諸兄の史上3人に限られる。
 しかし、同年・・・に孝謙天皇が即位すると、国母・光明皇后の威光を背景に・・・藤原仲麻呂の発言力が増すようになる。これに先立って・・・745年・・・頃より諸兄の子息・奈良麻呂が長屋王の遺児である黄文王を擁立して謀反の企図を始める。・・・
・・・755・・・年・・・聖武上皇が病気で伏していた際に、酒の席で上皇について不敬の発言があり謀反の気配がある旨、側近の佐味宮守から讒言を受けてしまう。・・・この讒言については聖武上皇が取り合わなかったが、諸兄はこのことを知り翌・・・756年・・・に辞職を申し出て致仕した。
 ・・・757年<の>・・・諸兄の没後間もな<く、>子息の奈良麻呂は橘奈良麻呂の乱を起こし獄死している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E8%AB%B8%E5%85%84

⇒天武朝の諸天皇もそうだが、橘三千代自身が軍制改革/弥生性獲得に無関心であったと想像され、それが、初婚の時の子である橘諸兄、更には、孫の橘奈良麻呂に受け継がれたのだろう。
 他方、二度目の結婚の時の子供達は、女性の光明子(光明皇后)は母親の無関心さを受け継ぎ、男性の四兄弟は父親不比等の聖徳太子コンセンサス実現に向けての意欲を受け継いだ、と、私は見たい。(太田)
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[吉備真備]

 195~775年。「吉備地方で有力な地方豪族吉備氏の一族<出身>。・・・(<717年の第9回>)遣唐<使
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E5%94%90%E4%BD%BF
における>留学生となり、・・・阿倍仲麻呂・玄昉らと共に入唐し・・・経書と史書のほか、天文学・音楽・兵学などを幅広く・・・学ぶこと18年、・・・735年・・・に玄昉と同船で・・・帰朝した。・・・

⇒私の役人時代の経験に照らせば、遣隋/遣唐使経験者達、とりわけ、遣隋/遣唐留学経験者、の懇親会的なものが存在したはずであり、吉備真備は、遣隋/遣唐使の本来の目的が何であったか、そして、いかなる成果があったのか、を、先輩経験者達が公式非公式に聞かされていたと考えられる上、出発前に、第8回遣唐使(702~704年)が、現地に行ったら唐が周に代わっていて慌てた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E5%94%90%E4%BD%BF
という話も聞かされたはずであり、唐には、その軍制を含む国制にやはり問題があるのではないか、との意識を抱いて渡唐した、と想像される。だからこそ、真備は兵学も・・というか、他は隠れ蓑で、兵学を・・学んだのだ、と思うのだ。(太田)

 帰朝後は聖武天皇や光明皇后の寵愛を得て、・・・735年・・・中に従八位下から一挙に10階昇進して正六位下に、・・・736年・・・に外従五位下、・・・737年・・・に従五位上に昇叙と、急速に昇進する。・・・738年・・・に橘諸兄が右大臣に任ぜられて政権を握ると、真備と同時に帰国した玄昉と共に重用され、真備は右衛士督を兼ねた。・・・
 740年・・・には、真備と玄昉を除かんとして藤原広嗣が大宰府で反乱を起こす(藤原広嗣の乱)。・・・
 751年・・・には遣唐副使に任命され、翌天・・・752年・・・に再び危険な航海を経て入唐。同地では阿倍仲麻呂と再会<し、>その翌年の・・・753年・・・に帰国<した。>・・・

⇒真備は、その直後に発生した安史の乱(755~763年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%8F%B2%E3%81%AE%E4%B9%B1
の情報に接した時、日本の、唐流の軍制、しかも空洞化しつつあったその軍制、への憂慮の念が一層募ったことだろう。(太田)

 764年)、造東大寺長官に任ぜられ、70歳で帰京した。同年に発生した藤原仲麻呂の乱において、緊急に従三位に昇叙され、中衛大将として追討軍を指揮して、優れた軍略により乱鎮圧に功を挙げ、仲麻呂は戦死した。

⇒真備は、兵学を学んだ成果を、遅ればせながら発揮したわけだ。
 彼が、兵学に通じた、能ある爪を隠している鷹である、ということを見抜いていた人々が、さすがに天武朝の朝廷内に、藤原氏の男子達以外にも少しはいたからこそ、彼に白羽の矢が立ったのだろう。
 真備は、本来、同志である仲麻呂を打つ羽目になったことに天を恨みつつも、任務を果たした、というわけだ。(太田)

 翌天平神護元年(765年)には勲二等を授けられた。翌・・・766年・・・、称徳天皇(孝謙天皇の重祚)と法王に就任した弓削道鏡の下で中納言となり、同年の藤原真楯薨去に伴い大納言に、次いで従二位・右大臣に昇進して、左大臣の藤原永手と共に政治を執った。これは地方豪族出身者としては破格の出世であり、学者から立身して大臣にまでなったのも、近世以前では、吉備真備と菅原道真のみである。
 ・・・770年・・・、称徳天皇が崩じた際には、娘(妹)の由利を通じて天皇の意思を得る立場にあり、永手らと白壁王(後の光仁天皇)の立太子を実現した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%82%99%E7%9C%9F%E5%82%99

⇒真備は、聖徳太子コンセンサス実現への意欲に乏しい歴代天皇に隠忍自重して仕え続け、その最晩年において、ついに、称徳天皇に「なり替わり」、天智天皇の遺志を密かに受け継いでいることに彼が気付いていたところの、白壁王(後述)、を、天皇に就ける秘密工作に関与し、それに成功した、というわけだ。(太田)
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[藤原広嗣]

〇藤原広嗣

 藤原広嗣(?~740年)は、「藤原式家の祖である参議・藤原宇合の長男。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BA%83%E5%97%A3

〇藤原広嗣の乱

 「藤原不比等政権の末期から、日本は新羅に朝貢させる<(注73)>ことで安定した外交関係を築き、それを前提とした軍事縮小を行い経済的な余裕を持った。

 (注73)「天武天皇・・・は、親新羅政策をと<り、>・・・次代の持統天皇(在位690年〜697年)も亡夫の天武天皇の外交方針を後継し、同様に親新羅政策をとった<ものの>、新羅に対しては対等の関係を認めず、新羅が日本へ朝貢するという関係を強いたが、新羅は唐との対抗関係からその条件をのんで日本への朝貢関係をとった。
 天武天皇の即位から780年まで、日羅関係の情勢に応じながらも遣日本使が30回以上送られている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%BE%85%E9%96%A2%E4%BF%82

⇒藤原不比等が、天武朝が軍縮路線を転換せざるをえなくなることを期待して、持統天皇を丸め込んで朝鮮半島に対する積極政策を復活させた、ということだろう。(太田)

 <しかし、>続く長屋王も軍縮路線を継承した<ため、>藤原四兄弟<は、彼を>討<つ>。
 藤原四兄弟は唐と対立する渤海と同盟し、唐<と結んでい>る新羅に軍事的圧力をかける外交方針を取った。それに伴い、西海道に節度使を置き大規模な演習を行うなど、軍事拡張路線に転じた。

⇒不比等が天智天皇と藤原鎌足のどちらの子であろうと、二人に共通するところの、聖徳太子コンセンサス実現への思い、を受け継いでいて不思議はないわけであり、不比等の四人の男の子供達が、祖父と父の二代にわたる思いを受け継いだ、とすれば、彼らがこのような外交・軍事政策を採ったのは、完全に腑に落ちる、というものだ。(太田)

 <ところが、>・・・737年・・・朝廷の政治を担っていた藤原四兄弟が天然痘の流行によって相次いで死去し<てしまい、」>代って政治を担った橘諸兄<(前出)>は軍拡政策と天然痘による社会の疲弊を復興する<として>、新羅との緊張緩和と軍事力の縮小政策を取った。
 また、<橘諸兄は、>唐から帰国した吉備真備と玄昉<を>重用<す>るようになり、藤原氏の勢力は大きく後退した。

⇒吉備真備と玄昉は聖徳太子コンセンサス信奉者だったわけだが、素知らぬ顔をして、実は藤原家の代理ないしエージェントとして、政権中枢に食い込んだ、と、私は見ているわけだ。(太田)

 <そして、>・・・738年・・・藤原宇合<(注74)>の長男・広嗣(藤原式家)は大養徳(大和)守から大宰少弐に任じられ、大宰府に赴任した。

 (注74)うまかい(694~737年)。藤原不比等の三男。藤原式家の祖。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%87%E5%90%88

 この人事は対新羅強硬論者だった広嗣を中央から遠ざけ、新羅使の迎接に当たらせる思惑があったが、広嗣はこれを左遷と感じ、強い不満を抱いた。
 ・・・740年・・・4月に新羅に派遣した遣新羅使が追い返される形で8月下旬に帰国した。憤った広嗣は8月29日に政治を批判し、吉備真備と玄昉の更迭を求める上表を送った。同時に筑前国遠賀郡に本営を築き、烽火を発して太宰府管内諸国の兵を徴集した。軍縮によって官兵の動員には時間がかかると予測した広嗣は、関門海峡を臨む登美、板櫃(豊前国企救郡)、京都(豊前国京都郡)の三郡鎮に兵を増派した。また、中央には広嗣の政治路線に同調する中臣名代、大和長岡といった実務官人は少なくなく、挙兵に応じて在京の支持勢力がクーデターに成功することに期待した。

⇒すぐ上の囲み記事で紹介した真備の(私が見るところの)真意を知っていながら、真備ほど忍耐力のない藤原広嗣は、真備らをダシにして、要は、聖徳太子コンセンサスの抑圧を続ける天武王朝に対して決死の忠諫を行った、ということだろう。(太田)

 9月3日、広嗣が挙兵したとの飛駅が都にもたらされる。聖武天皇は大野東人を大将軍に任じて節刀を授け、副将軍には紀飯麻呂が任じられた。東海道、東山道、山陰道、山陽道、南海道の五道の軍1万7,000人を動員するよう命じた。4日、朝廷に出仕していた隼人<(注75)>24人に従軍が命じられる。5日、佐伯常人、阿倍虫麻呂が勅使に任じられた。

 (注75)「律令制に基づく官職のひとつ・・・。兵部省の被官、隼人司に属し[朝廷の軍事に従事し]た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%BC%E4%BA%BA
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%BC%E4%BA%BA%E5%8F%B8 ([]内)

 朝廷からは伊勢神宮へ幣帛が奉納され、また、諸国に観世音菩薩像をつくり、観世音経10巻を写経して戦勝を祈願するよう命じられた。

⇒聖武天皇は、神頼み、仏頼み、という体たらくだったわけだ。(太田)

 9月21日、長門国へ到着した大野東人は、渡海のために同地に停泊している新羅船の人員と機器の徴用の許可を求めた。
同日、額田部広麻呂が40人の兵とともに密かに渡海し、登美、板櫃、京都
< https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BA%83%E5%97%A3%E3%81%AE%E4%B9%B1#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BA%83%E5%97%A3%E3%81%AE%E4%B9%B1.png ←地図>
の三鎮を奇襲して営兵1,767人を捕虜とし、橋頭堡を確保した。

⇒前段は、「国際法違反」の緊急避難措置であり、官軍の、兵力不足、海軍力不足を、如実に示している。(太田)

 9月22日、勅使佐伯常人、阿倍虫麻呂が隼人24人、兵4,000人を率いて渡海して、板櫃鎭に陣を構え、一帯を制圧した。
 広嗣は大隅国・薩摩国・筑前国・豊後国の兵5,000人を率いて鞍手道を進軍、弟の綱手は筑後国・肥前国の兵5,000人を率いて豊後国から進軍、多胡古麻呂が田河道を進軍して三方から官軍を包囲する作戦であった。
 9月25日、豊前国の諸郡司が500騎、80人、70人と率いて官軍に投降してきた。
 9月29日、「広嗣は凶悪な逆賊である。狂った反乱を起こして人民を苦しめている。不孝不忠のきわみで神罰が下るであろう。これに従っている者は直ちに帰順せよ。広嗣を殺せば5位以上を授ける」との勅が九州諸国の官人、百姓にあてて発せられた。
 10月9日、広嗣軍1万騎が板櫃川(北九州市)に至り、河の西側に布陣。勅使佐伯常人、阿倍虫麻呂の軍は6,000人余で川の東側に布陣した。広嗣は隼人を先鋒に筏を組んで渡河しようとし、官軍は弩を撃ち防いだ。常人らは部下の隼人に敵側の隼人に投降を呼びかけさせた。すると、広嗣軍の隼人は矢を射るのをやめた。
 常人らは十度、広嗣を呼んだ。ようやく乗馬した広嗣が現れ「勅使が来たというが誰だ」と言った。常人らは「勅使はわれわれ佐伯常人と阿倍虫麻呂だ」と応じた。すると、広嗣は下馬して拝礼し「わたしは朝命に反抗しているのではない。朝廷を乱す二人(吉備真備と玄昉)を罰することを請うているだけだ。もし、わたしが朝命に反抗しているのなら天神地祇が罰するだろう」と言った。常人らは「ならば、なぜ軍兵を率いて押し寄せて来たのか」と問うた。広嗣はこれに答えることができず馬に乗って引き返した。
 この問答を聞いていた広嗣軍の隼人3人が河に飛び込んで官軍側へ渡り、官軍の隼人が助け上げた。これを見て、広嗣軍の隼人20人、騎兵10余が官軍に降伏してきた。投降者たちは3方面から官軍を包囲する広嗣の作戦を官軍に報告し、まだ綱手と多胡古麻呂の軍が到着していないことを知らせた。
 その後、広嗣軍は板櫃川の会戦に敗れて敗走した。広嗣は船に乗って肥前国松浦郡値嘉嶋(五島列島)に渡り、そこから新羅へ逃れようとした。ところが耽羅嶋(済州島)の近くまで来て船が進まなくなり、風が変わって吹き戻されそうになった。広嗣は「わたしは大忠臣だ。神霊が我を見捨てることはない。神よ風波を静めたまえ」と祈って駅鈴を海に投じたが、風波は更に激しくなり、値嘉嶋に戻されてしまった。
 10月23日、値嘉嶋(現在の宇久島)に潜伏していた広嗣は安倍黒麻呂によって捕らえられた。
 11月1日、大野東人は広嗣と綱手の兄弟を、肥前国唐津(現・佐賀県唐津市)で斬った。
 乱の鎮圧の報告がまだ平城京に届かないうちに、聖武天皇は突如関東に下ると言い出し都を出てしまった。聖武天皇は伊賀国、伊勢国、美濃国、近江国を巡り恭仁京(山城国)に移った。その後も難波京へ移り、また平城京へ還って、と遷都を繰り返すようになる。遠い九州で起きた広嗣の乱を聖武天皇が極度に恐れたためであったとされる。

⇒聖武天皇自身、弥生性など皆無であったことがよく分かる。(太田)

 天平13年(741年)1月、乱の処分が決定し、死罪16人、没官5人、流罪47人、徒罪32人、杖罪177人であった。藤原式家の広嗣の弟たちも多くが縁坐して流罪に処された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BA%83%E5%97%A3%E3%81%AE%E4%B9%B1
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[藤原仲麻呂]

〇藤原仲麻呂

 なかまろ(705~764年)。「藤原四兄弟<の一人で>藤原南家の始祖である藤原武智麻呂の次男・・・聡明鋭敏<で知られ、>・・・叔母にあたる光明皇后の信任が厚く、従兄妹で皇太子だった阿倍内親王(後の孝謙天皇)とも良好な関係にあった。・・・

⇒仲麻呂がうまくこの両名を手なずけた、ということだろう。(太田)

 749年・・・に聖武天皇が譲位して阿倍内親王が即位(孝謙天皇)すると・・・大納言に昇進。次いで、光明皇后のために設けられた紫微中台の令(長官)と、中衛大将を兼ねた。光明皇后と孝謙天皇の信任を背景に仲麻呂は政権と軍権の両方を掌握して左大臣橘諸兄の権力を圧倒し、事実上の「光明=仲麻呂体制」が確立された。
 ・・・752年・・・大仏開眼供養会が盛大に催され、その夜女帝は内裏に帰らず仲麻呂の私邸である田村第におもむき、しばらくここを在所とした。孝謙天皇は後年も平城京の修理を理由として田村第に長逗留したことから、この邸宅は「田村宮」とも呼ばれた。
 この頃の太政官では仲麻呂の上位に外伯父の橘諸兄と実兄の藤原豊成が左右の大臣として並んでいた。仲麻呂は豊成を中傷しようと機会を窺っていたが、仲麻呂をよく知る豊成は乗じる隙を与えなかった。その一方で・・・755年・・・には諸兄が朝廷を誹謗したとの密告があり、聖武上皇はこれ許したものの諸兄は恥じて翌・・・756年・・・に左大臣を辞官した。
 同年聖武上皇が崩御。遺詔により道祖王が皇太子に立てられた。しかし、翌・・・757年・・・に道祖王は喪中の不徳な行動が問題視されて皇太子を廃され、仲麻呂の意中であった大炊王(後の淳仁天皇)が立太子される。

⇒恐らく、仲麻呂が、道祖王より大炊王の方が傀儡化が容易であるとふんで、孝謙天皇にあることないことを吹き込み、道祖王を失脚させ、大炊王の立太子に成功したのだろう。(太田)

 この王は、仲麻呂の早世した長男・真従の未亡人(粟田諸姉)を妃としており、かねてより仲麻呂の私邸である田村第に身を寄せる身の上であった・・・。<同年、>祖父の不比等が着手した養老律令を施行するとともに、仲麻呂は紫微内相に任ぜられ大臣に准じる地位に就いた。
 こうした仲麻呂の台頭に不満を持ったのが橘諸兄の子の奈良麻呂<(注76)>だった。

 (注76)721?~757年。父は橘諸兄、母は藤原不比等の娘。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E5%A5%88%E8%89%AF%E9%BA%BB%E5%91%82

 皇太子廃立をうけて奈良麻呂は大伴古麻呂らとともに、仲麻呂を殺害して天武天皇の孫にあたる皇族を擁立する反乱を企てるが、はやくも同年6月に上道斐太都らの密告により計画が露見。奈良麻呂の一味は捕らえられ、443人が処罰される大事件となった。奈良麻呂と古麻呂をはじめ、新帝擁立の候補者に名が挙がっていた道祖王や黄文王も捕縛され拷問を受けて獄死、反乱に関与したとして右大臣藤原豊成も左遷された(橘奈良麻呂の乱)。

⇒そこで、反聖徳太子コンセンサス派がクーデタを起こそうとしたが失敗した、というわけだ。(太田)

 これによって仲麻呂は太政官の首座に就き、名実ともに最高権力者となった。・・・758年・・・8月に孝謙天皇が譲位して大炊王が即位(淳仁天皇)する。淳仁天皇を擁立した仲麻呂は独自な政治を行うようになり、中男と正丁の年齢繰上げや雑徭の半減、問民苦使や平準署の創設など徳治政策を進めるとともに、官名を唐風に改称させる唐風政策を推進した。

⇒天武朝に対する仲麻呂による目くらまし、といったところだろう。(太田)

 そして仲麻呂自身は太保(右大臣)に任じられる。さらに、仲麻呂の一家は姓に恵美の二字を付け加えられるとともに、仲麻呂は押勝の名を賜与された。また鋳銭と出挙の権利も与えられ<た。>・・・
 758年・・・唐で安史の乱<(755~763年)>が起きたとの報が日本にもたらされると、仲麻呂は大宰府をはじめ諸国の防備を厳にすることを命じる。・・・759年・・・には新羅が日本の使節に無礼をはたらいたとして、仲麻呂は新羅征伐の準備をはじめさせた。軍船394隻、兵士4万700人を動員する本格的な遠征計画が立てられるが、この遠征は後の孝謙上皇と仲麻呂との不和により実行されずに終わる。

⇒政権・軍権を掌握してからも隠忍自重10年にして、ついに、仲麻呂は、聖徳太子コンセンサスの実現に向けて動き出したけれど、孝謙/称徳天皇に横やりを入れられてしまい、挫折した、というわけだ。(太田)

 ・・・760年・・・仲麻呂は皇族以外で初めて太師(太政大臣)に任じられるが、同年光明皇太后が崩御。皇太后の信任厚かった仲麻呂にとってこれが大きな打撃となる・・・
 762年・・・頃病になった孝謙上皇は自分を看病した道鏡を側に置いて寵愛するようになった。

⇒この二重の打撃によって、仲麻呂の壮図は、完全に挫折させられることになる。(太田)

〇藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)

 仲麻呂は淳仁天皇を通じて、孝謙上皇に道鏡との関係を諌めさせた。これが孝謙上皇を激怒させ、・・・孝謙上皇・道鏡と淳仁天皇・仲麻呂との対立は深まり危機感を抱いた仲麻呂は、・・・764年・・・自らを都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使に任じ、さらなる軍事力の掌握を企てる。しかし謀反の密告があり、上皇方に先手を打たれて天皇のもとにあるべき御璽や駅鈴を奪われると、仲麻呂は平城京を脱出する。子の辛加知が国司を務めていた越前国に入り再起を図るが、官軍に阻まれて失敗。仲麻呂は近江国高島郡の三尾で最後の抵抗をするが官軍に攻められて敗北する。敗れた仲麻呂は妻子と琵琶湖に舟をだしてなおも逃れようとするが、官兵石村石楯に捕らえられて斬首された。享年59。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BB%B2%E9%BA%BB%E5%91%82
 「<淳仁天皇は、>恵美押勝の乱・・・に加担しなかったものの・・・廃位<され、>・・・淡路国に流され・・・殺害されたと推定され<る。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B3%E4%BB%81%E5%A4%A9%E7%9A%87

⇒結局のところは、またもや、藤原氏から、忍耐力なき男が暴発して自滅して終わった、というわけだが、夜明けは、もう目の前までやってきていた。。(太田)
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 「孝謙天皇</称徳天皇(718~770年。孝謙天皇:749~758、称徳天皇:764~770年)は、>・・・父は聖武天皇、母は・・・光明皇后(光明子)。・・・738年・・・に・・・立太子し、史上唯一の女性皇太子となった。・・・749年・・・に父・聖武天皇の譲位により即位した。治世の前期は皇太后(光明皇后)が後見し、・・・皇太后の甥にあたる藤原仲麻呂の勢力が急速に拡大した。・・・
⇒光明皇后は藤原家出身ではあっても、聖徳太子コンセンサスには関心がなかったものの、甥は甥なるがゆえに可愛かった、ということでしょう。(太田)

 756年・・・に父の聖武上皇が崩御し、新田部親王の子である道祖王を皇太子とする遺詔を残した。
 しかし翌・・・757年・・・、孝謙天皇は皇太子にふさわしくない行動があるとして道祖王を廃し、自身の意向として舎人親王の子大炊王を新たな皇太子とした。・・・強まる仲麻呂の権勢にあせった橘奈良麻呂や大伴古麻呂らは、孝謙天皇を廃して新帝を擁立するクーデターを計画した。しかし事前に察知した仲麻呂により、関係者は・・・粛清された(橘奈良麻呂の乱)。以降仲麻呂の権勢はさらに強まった。

⇒軍制改革/弥生性獲得に関心がない派とその意欲に燃える派が相いれないのは当然です。(太田)

 758年・・・、孝謙天皇は病気の光明皇太后に仕えることを理由に大炊王(淳仁天皇)に譲位し、太上天皇となる。・・・仲麻呂は大炊王から「藤原恵美朝臣」の姓と「押勝」の名が与えられ、藤原恵美押勝と称するようになり、・・・さらに権勢を振るうようになった。・・・

⇒仲麻呂は、大炊王(淳仁天皇)を自分のロボットに仕立てようとし、それに成功した、と見ます。(太田)

 ・・・760年・・・に光明皇太后が崩御すると、孝謙上皇と仲麻呂・淳仁天皇の関係は微妙なものとなった。・・・

⇒孝謙上皇は、かねてより、仲麻呂の軍制改革/弥生性獲得への意欲に不快感を抱いていたけれど、母親が仲麻呂を庇護していたので泳がして来た、ということではないでしょうか。(太田)

 761年・・・病に伏せった孝謙上皇は、看病に当たった弓削氏の僧・道鏡を寵愛するようになった。・・・762年・・・孝謙上皇は五位以上の官人を呼び出し、淳仁天皇が不孝であることをもって仏門に入って別居することを表明し、さらに国家の大事である政務を自分が執ると宣言した。不和の原因は道鏡を除くよう淳仁天皇と仲麻呂が働きかけた事や、皇統の正嫡意識を持つ孝謙上皇が淳仁天皇に不満を持ったことなどあげられている。

⇒理由としては、それに加えて、淳仁天皇が仲麻呂のロボットと化していたことへの不快感があったと想像されます。(太田)

 ・・・763年・・・から・・・764年・・・には道鏡や吉備真備・・・が要職に就く一方で、仲麻呂の子達が軍事的要職に就くなど、孝謙上皇と淳仁天皇・仲麻呂の勢力争いが水面下で続いた。
 ・・・764年・・・、仲麻呂が軍事準備を始めた事を察知した孝謙上皇は、山村王を派遣して淳仁天皇の元から軍事指揮権の象徴である鈴印を回収させた。これを奪還しようとした仲麻呂側との間で戦闘が起きたが、結局鈴印は孝謙上皇の元に渡り、仲麻呂は朝敵となった。仲麻呂は太政官印を奪取して近江国に逃走したが・・・殺害された。

⇒天武朝の事実上最後の天皇であった孝謙/称徳天皇は、天武朝の始祖にして彼女の高祖父であった天武天皇の嗅覚と果断さは受け継いでいたのでしょうね、(弘文天皇ならぬ)仲麻呂の先手を取って彼を殺害したわけです。(太田)

 ・・・<そして、>道鏡を大臣禅師とし・・・淳仁天皇を廃して大炊親王とし、淡路公に封じて流刑とした。
 淳仁天皇の廃位によって孝謙上皇は事実上、皇位に復帰した。後世では孝謙上皇が重祚したとして、これ以降は称徳天皇と呼ばれる。日本史上唯一の、出家のままで即位した天皇である。以降、称徳天皇と道鏡による政権運営が6年間にわたって続く事になるが、皇太子はふさわしい人物が現れるまで決められない事とした。
 765年・・・に飢饉や和気王の謀叛事件が起きるなど、乱後の政情は不安定であった。同年10月に称徳天皇は道鏡の故郷である河内弓削寺に行幸した。この弓削行幸中に道鏡を太政大臣禅師に任じ、本来臣下には行われない群臣拝賀を道鏡に対して行わせた。・・・一方でほぼ同じ時期に淡路で廃帝・淳仁が変死を遂げている。<その上で、>天皇即位とともに行われる大嘗会を行ったが、・・・即位式は行われていない。
 またこの年には墾田永年私財法によって開墾が過熱したため、寺社を除いて一切の墾田私有を禁じている。
 ・・・766年・・・道鏡を法王とした。道鏡の下には法臣・法参議という僧侶の大臣が設置され、弓削御浄浄人が中納言となるなど道鏡の勢力が拡充された。一方で太政官の首席は左大臣・藤原永手であったが、吉備真備を右大臣に抜擢するなど異例ずくめであった。こうして称徳天皇=道鏡の二頭体制が確立された。

⇒これは、邪馬台国当時の政治体制への復帰とでも形容すべきものであり、孝謙/称徳天皇が長生きしていたならば、爾後、女系天皇制が定着した可能性があります。(太田)

 称徳天皇は次々と大寺に行幸し、西大寺の拡張や西隆寺の造営、百万塔の製作を行うなど仏教重視の政策を推し進めた。一方で神社に対する保護政策も厚かったが、伊勢神宮や宇佐八幡宮内に神宮寺を建立するなど神仏習合がさらに進んだ。また神社の位階である神階制度も開始されている。一方で『続日本紀』では、政治と刑罰が厳しくささいなことで極刑が行われ、冤罪を産んだと評されている。

⇒卑弥呼同様、女性首長は祭祀を掌ると相場が決まっているわけですが、孝謙/称徳天皇の時代においては、これは、鎮護国家教たる仏教の振興を意味していました。(太田)

 ・・・769年・・・には称徳天皇の異母妹・不破内親王と氷上志計志麻呂が天皇を呪詛したとして、・・・流刑にされている。同じく称徳天皇の異母妹・井上内親王を妻としていた中納言・白壁王(後の光仁天皇)は天皇の嫉視を警戒し、酒に溺れた振りをして難を逃れようとしていた。

 ・・・769年・・・、大宰府の主神(かんづかさ)中臣習宜阿曾麻呂が「道鏡が皇位に就くべし」との宇佐八幡宮の託宣を報じたとされた。これを確かめるべく、和気清麻呂を勅使として宇佐八幡宮に送ったが、清麻呂はこの託宣は虚偽であると復命した。これに怒った称徳天皇と天皇の地位を狙っていた道鏡は清麻呂を・・・因幡員外介として左遷し、さらに大隅国へ配流した(宇佐八幡宮神託事件)。
 ・・・770年・・・に発病し、病臥する事になる。このとき、看病の為に近づけたのは宮人(女官)の吉備由利(吉備真備の姉妹または娘)だけで、道鏡は崩御まで会うことはなかった。道鏡の権力はたちまち衰え、軍事指揮権は藤原永手や吉備真備ら太政官に奪われた。

⇒吉備真備の長年にわたる隠忍自重がもう少しで報われる時が、ついにやってきたのです。(太田)

 ・・・称徳天皇は・・・崩御した。宝算53。・・・
 ・・・崩御にあたって藤原永手や藤原宿奈麻呂・吉備真備ら群臣が集まって評議し、白壁王を後継として指名する「遺宣」が発せられたという。白壁王は光仁天皇として即位する。

⇒吉備真備が白壁王と示し合わせた上で病床の称徳天皇を遮断し、「遺宣」を偽造したに相違ありません。
 こうして、藤原氏の不幸や犠牲のおかげで、天武朝は滅び、天智朝の復活が実現したのです。(太田)

 道鏡は失脚して下野国薬師寺別当に左遷され、弓削浄人も土佐に流された。・・・
 <彼女は、>史上6人目の女帝で、天武系からの最後の天皇である。この称徳天皇以降は、江戸時代初期に即位した第109代明正天皇(在位:1629年~1643年)に至るまで、850余年、女帝が立てられることはなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E8%AC%99%E5%A4%A9%E7%9A%87

⇒こうして復活した天智朝が現在の皇室へと繋がっていくこととなったところ、この復活天智朝が、天武朝の全面的否定を行ったのは当然でした。
 その結果、起こったことが、以下の三点です。
 すなわち、復活天智朝の立場からするところの、(聖徳太子コンセンサスを抑圧した)天武朝の歴代天皇への嫌悪感から、
第一に、聖徳太子コンセンサスを抑圧した天武朝において、その9代8人中実に5代4人が女性天皇であったこと、しかも、天武朝第2代の持統天皇と第4代の元明天皇の2人がどちらも、聖徳太子コンセンサス実現を目指した天智天皇の子でありながら、天智朝の男系に皇位を渡さないという目的もあって天皇に積極的に即位してコンセンサス抑圧側に立った諸施策を継続したこと、元明天皇に至っては、同様の目的もあって、天武朝の男性皇子の女子である第5代の元正天皇に皇位を継承させ、男系継承であるけれど史上初めて女性天皇を二代続かせた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E6%AD%A3%E5%A4%A9%E7%9A%87
こと、そして、第7代にして第8代の孝謙/称徳天皇が、何の躊躇もなく、かつ、何の根回しもなく、すんでのところで女系天皇になる子をもうけるところであったこと、から、女性天皇一般への信頼感が失墜し、女性天皇が事実上禁止されるに至ったと考えられるのです。
 江戸時代における特殊事情における2つの例外を除き、この考え方が現在まで引き継がれてきていることはご存知の通りです。
 そして、
 第二に、天武天皇の配偶者たる持統天皇と天武天皇の男の子の配偶者たる元明天皇、に対するに、天智天皇の子たる弘文天皇と孫たる光仁天皇、の対照的な事例(や、藤原不比等の男子の四兄弟に対するに女子の光明子(光明皇后)の対照的な事例)から、女子たる子孫は婚家(こんか)の考え方に染まるが男子たる子孫は染まらない、というイメージが独り歩きするに至った結果、女系天皇が、事実上禁止されるどころかタブー視されるに至った、と考えられるのです。
 更に、
第三に、藤原不比等が実は天智天皇の男子であったとの認識の下、不比等の男子子孫達が聖徳太子コンセンサスの実現に向けて努力を重ね、抑圧に堪え、或いは暴発して不慮の死を遂げさせられ、続けた結果として、天智朝が復活し、聖徳太子コンセンサス実現に向けての努力が再開され、ついに同コンセンサスが完遂されるに至ったことから、爾後、復活天智朝によって、このような抜群の功績を多とされ、藤原氏が貴族の筆頭として処遇されるようになり、このような処遇が実に昭和初期まで続けられた、と考えられるのです。
 ここで、簡単な中間総括をしておきましょう。↓

 日本は、統一政権成立以降、物部氏を中心とした諸氏連合軍が国軍、大伴氏を中心とした諸氏連合軍がヤマト王権家軍、という両翼からなる軍制を持っていた。
 ところが、まず、大伴氏が弱体化して片翼軍制となり、次いで物部氏が弱体化して無翼軍制つまりは軍制空洞化の時代を迎えた。
 これに危機意識を抱いた厩戸皇子(と南淵請安ら)によって、軍制の再建、と、その前提としての弥生性の獲得、を目指す、聖徳太子コンセンサスが成立する。
 それは、蝦夷の戦法の習得、と、封建制の確立、とを二本柱とするものだった。
 このコンセンサスの実現に着手したのが中大兄皇子時代に始まる天智王朝であり、この事業を天智王朝の人々と二人三脚で推進したのが、鎌足から始まる中臣/藤原氏本流である。
 その出鼻を挫き足をすくったのが、天武天皇に始まる天武朝である。
 天武朝は、唐流軍制の継受、そのための律令制の導入、でお茶を濁そうとした。
 この天武朝を(、吉備真備らの協力の下、)終わらせ、再び、聖徳太子コンセンサスの実現に向けて動き出したのが、光仁天皇に始まる復活天智朝である。(太田)

(以下、2020.3.28東京オフ会の日のディスカッションに続く)