太田述正コラム#11015(2019.12.30)
<映画評論64:わたしは、ダニエル・ブレイク(その3)>(2020.3.21公開)

 この映画に関し、英国では、ちょっとした論争が起きたようです。↓

 「<辞任したばかり、当時、前>保守党政権保険相だったイアン・ダンカン・スミス<が>、この映画での職安の職員の描き方は公正を欠いていると批判した・・・<のに対し、この>映画製作者<の一人>は、スミスは夢想の国(cloud cuckoo land)の住民だ、と返した。・・・
 労働党党首のジェレミー・コービンは、この映画のロンドンでの封切り日に<映画館に>現れ、フェイスブックでこの映画を称賛した。
 そして、2016年11月2日の下院での党首討論の際、社会保障制度の不公正さを批判し、テリーサ・メイ首相にこの映画を見るように促した。」(β)

 ここで、既に何度か登場したところの、ダンカン・スミス(1954年~)のちょっと面白い経歴をご紹介しておきます。
 彼は、エディンバラ生まれの英陸士卒であり、6年間英陸軍に勤務し、北アイルランドとローデシアへの駐屯歴があり、それから下院議員になり、2001年に保守党党首になるのですが、彼が党首に選ばれたことには、そのEU嫌い(Eurosceptic beliefs)に賛同したマーガレット・サッチャーの支援があったからだとされています。
 スミスは、保守党党首になった最初のカトリック教徒であるとともに、アーサー・バルフォア以来、二度目のスコットランド出身の保守党党首でもありました。
 しかし、彼では選挙に勝てないという声が保守党議員達の大勢となり、2003年に解任投票が成立して党首の座を降り、小説を書いたりします。
 2010年5月に、政権を労働党から奪取して新首相となったディヴィッド・キャメロンは、彼を保険相(Secretary of State for Work and Pensions)に任命しますが、時の蔵相が高度障害給付の削減案を出して来たことに反対して、2016年3月に辞任します。
 2019年にボリス・ジョンソンを党首にする保守党内選挙運動の主宰者を務め、議員票の50%、党員票の66%を得る大勝を博し、彼を党首、そして首相にします。
https://en.wikipedia.org/wiki/Iain_Duncan_Smith
 とまあ、こう見てくると、この映画は、制作者達、監督、脚本家の意図に反し、まんまとブレグジット推進派によってブレグジット目的のために利用されてしまったな、と思いますね。
 (そう確言はできないものの、可能性は大だと思っているのですが、)映画の中で自分が批判されていることを知ったスミスが、3月に、社会福祉予算の一層の削減に反対して閣僚を辞任したところ、これは5月に公開されたこの映画に抗議した形であり、それに対して、英国の一般国民は、この映画の中で描かれる職安職員達とスミスを重ね合わせて見ざるをえなくなり、どんどん削減される社会福祉予算と増大する困窮者達との間で苦しむ職員達に同情を寄せ、そんな職員達ならぬ、スミス(やジョンソン)が推進するブレグジットに一層の共感を寄せることになった可能性が大だからです。
 実際、1988年のロンドン滞在中に風邪らしき熱発でNHS下の診療を地区担当家庭医に受けた経験がある私に言わせれば、(滞在外国人にも)無償の医療制度が金食い虫の割には質に疑問符がつくのは当然なのであり、実際、英国人の平均寿命(2016年)は、21位で、ドイツ(26位)や米国(34位)こそ上回っているけれど、フランス(4位)やイタリア(7位)をはるかに下回っています。
https://memorva.jp/ranking/unfpa/who_whs_life_expectancy.php
 そういうわけで、社会福祉予算を削減するより前に、医療制度の自己負担分導入を伴う社会保険化を行うべきなのに、NHSに世論の圧倒的支持があるがゆえに、保守党も労働党もそれを行う勇気がないまま現在に至っており、その結果としての社会福祉予算の削減に対する(職安の職員達を含む)世論の怒りが、移民が社会福祉予算を食っているとして、過早なるブレグジットをもたらした、と、私は見ているのです。
 (社会保険制度下の医療制度が日本同様十全に機能しているフランス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%81%AE%E5%8C%BB%E7%99%82
も、英国と基本的に同じ理由(典拠省略)で社会保障予算の増大に苦しめられており、マカロン政権の年金予算削減案をめぐり、大規模な抗議デモが現在行われています
https://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye3867542.html
が、ドイツと共にEUを創設したフランスにはEU脱退という選択肢はほぼないことから、同政権が直面している事態はより深刻です。)

3 終わりに代えて

 もとより、(不発に終わったところの)政治的メッセージだけでは映画にはならないので、この映画は、職安の職員の中にも若干は、そして貧しい庶民の中には大勢の、人間主義者がいることを描くことで、カフカ的官僚制(β)と人間主義との息詰まる戦いをテーマにしており、その限りにおいては成功したと言えるでしょう。
 だからこそ、この映画はパルム・ドールを授与された、ということでしょう。
 考えてみると、私が前から指摘しているように、アングロサクソン文明は、個人主義をメイン、人間主義をサブ、とする人間主義的文明なのであって(コラム#省略)、英国、とりわけイギリスには、(日本ほどではないとはいえ、)人間主義者はいくらでもいるわけであり、この映画に人間主義者達・・その中には黒人も、黒人とのハーフもいる・・が登場するのは、決して御伽噺なんぞではありませんし、そもそも、NHSなどという善意の塊のような制度を戦後すぐに導入し、それをかたくなに維持し続けているのは、英国、というかイギリス、の人間主義的文明がしからしめた、ということなのだと思うのです。

(完)