太田述正コラム#11033(2020.1.8)
<丸山眞男『福沢諭吉の哲学 他六篇』を読む(その19)>(2020.3.30公開)

 「・・・福沢が「物ありて然る後に倫あるなり、倫ありて然る後に物を生ずるに非ず。臆断を以て先づ物の倫を説き、其倫に出て物理を害する勿れ」(文明論之概略、巻之一)と断じたとき、それが思想史的に如何に画期的な意味を持っていたかということは、以上の簡単な叙述からも理解されるであろう。

⇒丸山が、この引用文の文脈を無視したのが故意であったのなら何をかいわんやですが、過失であったとしたらしたらで、それだけで、史学に関わる「学者」として失格でしょう。
 上記引用文に《》を私が付けましたが、その前後はこうなっています。↓
 「天文を談ずるには、先づ地球の何物にして其運転の如何なるを察して、然る後に此地球と他の天体との関係を明にし、四時循環の理をも説く可きなり。
 故に云く、《物ありて然る後に倫あるなり、倫ありて然る後に物を生ずるに非ず。
 臆断を以て先づ物の倫を説き、其倫に由て物理を害する勿れ》。
 君臣の論も猶斯の如し。
 君と臣との間柄は人と人との関係なり。
 今この関係に就き条理の見る可きものありと雖ども、其条理は偶ま世に君臣なるもの有て然る後に出来たるものなれば、此条理を見て君臣を人の性と云ふ可らず。
 若しこれを人の性なりと云はゞ、世界万国、人あれば必ず君臣なかる可らざるの理なれども、事実に於て決して然らず。
 凡そ人間世界に父子夫婦あらざるはなし、長幼朋友あらざるはなし。
 此四者は人の天稟に備はりたる関係にて、これを其性と云ふ可しと雖ども、独り君臣に至ては地球上の某国に其関係なき処あり、方今民庶会議の政府を立たる諸国、即是なり。
 此諸国には君臣なしと雖ども、政府と人民との間に各其義務ありて、其治風或は甚だ美なるものあり。」(『文明論之概略』巻之一の二章の終わりより)
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 何のことはない、諭吉は、政体には君主制以外にも民主制等が存在するところ、君主制と民主制のどちらが良いかといったことはあらかじめ定まっているわけではない、という話をしているのであって、それは、丸山が(私が大幅に端折りましたが)ここまで延々と論述してきた話とは直接関係のない、次元の異なった、話、である、ということが分かります。
 どうして諭吉が、それだけを端的に書かなかったかですが、その理由は容易に想像がつきます。
 政治的に問題視されそうな話をしているので、《》の部分を含む、仰々しい飾りを付けてそれらをいわば魔除けにしているのです。
 では、諭吉は、どうして、こんな政治的に問題視されそうな話をここでする必要があったのでしょうか。
 それは、その割とすぐ後で、(民主制についても同じことが言えるわけですが、)君主制は、従って、その一形態であるところの、日本の天皇制も、それ自体が優れているわけではなく、それを生かすも殺すも運用次第である、換言すれば、それがいかなる機能を果たしているか次第である、ということを言いたかったからなのです。↓
 「我国の皇統は国体と共に連綿として外国に比類なし。
 之を我国一種、君国並立の国体と云て可なり。
 然りと雖ども、仮令ひこの並立を一種の国体と云ふも、之を墨守して退くは之を活用して進むに若かず。
 之を活用すれば場所に由て大なる功能ある可し。
 故に此君国並立の貴き由縁は、古来我国に固有なるが故に貴きに非ず、之を維持して我政権を保ち我文明を進む可きが故に貴きなり。
 物の貴きに非ず、其働の貴きなり。
 猶家屋の形を貴ばずして、其雨露を庇ふの功用を貴ぶが如し」(『文明論之概略』巻之一の三章の始めのあたりより)(上掲)(太田)

(続く)