太田述正コラム#10572006.1.23

<オフ会の報告(その3)>

 (7)縄文モード・弥生モード

 A氏が、「最近、普段余りお付き合いのない人々と話をする機会があったが、多くが心から日本は軍事力を持たず、戦争は米国にやってもらえばよいと考えていることを知ってショックを受けた。米国が日本を守ってくれない場合もありうることを全く考えていないのだ」と体験を語りました。

そこで私は、「終戦を境に日本は180度変わってしまい、その状態が基本的に現在まで続いている。これは二度の大戦であれだけ叩きつぶされ荒廃したドイツが、先の大戦直後にまずやったことが諜報機関の再立ち上げであり、積極的な諜報面での対米貢献で米国に貸しをつくりhttp://www.nytimes.com/cfr/international/20040701fareview_v83n4_naftali.html2004年6月26日アクセス)、その上で次にすみやかに国防軍の再建に着手したのと比べると、余りにも違いすぎる。これは、単に戦争にあけくれてきた欧州にドイツが位置していたからだ、といったことだけでは到底説明がつかない。

ちなみに、現在ドイツで、2003年の対イラク戦開戦直後に、米軍がバグダッドのフセインの居所を爆撃した際、ドイツの諜報機関が米軍にフセインの居所を教えた可能性があり、仮にそれが本当だとすると、当時のドイツ政府の対イラク戦開戦反対のスタンスに相反するのではないかと問題になっている。ドイツ議会での諜報機関の答弁は、米軍に教えたのはフセインの居所ではなく、爆撃してはならない一般人居住地区だ、という人を食ったものだった。いずれにせよ、ドイツの諜報機関の力量がしのばれる。(http://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-fg-briefs19.1jan19,1,4113007,print.story。1月20日アクセス)

これにひきかえ、日本にはいまだに諜報機関がないし、軍事力は使えない状況だ。

元に戻るが、そこで私は、終戦後の日本が180度変われたということは、その要素が前からあったということだ、と考え、それを縄文モードと呼ぶことにした。そして、これと対蹠的なモードを弥生モードと呼ぶことにして、両モードの循環が日本の歴史ではないか、と考えた。このように考えると、平安時代に朝廷が武力を廃棄してしまい・・死刑まで廃止してしまった(注1)のだが・・後に武士の台頭を招くことになったり、戦国時代から徳川幕府による太平の世に切り替わったとたん、火器を事実上廃止してしまって、火器の技術革新も行われなくなる(ノエル・ペリン「鉄砲を捨てた日本人」(中公文庫)等)、という大きな変化が起きたことが、説明できるように思えた。

 (注1)「仏教思想を根拠に平安時代の嵯峨天皇が818年に死刑を停止する宣旨を公布。以後347年間、死刑は公的に存在しなかったとされるが(ただし前九年の役における藤原経清への斬首など例外もある)、武家政権になって復活、現在に至る。なお、古代社会で長期間にわたって死刑廃止を実行したのは世界史的にみても日本だけである。」(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%BB%E5%88%91%E3%81%AE%E5%BB%83%E6%AD%A2。1月22日アクセス)

 (8)米原子力空母の横須賀配備

 私が、「横須賀への米原子力空母の配備に対する反対論が盛り上がらないことには驚いた」と問題提起すると、何人かの出席者がうなづきました。

 そこで私は更に、次のように述べました。

「小型とはいえ、原子力発電所を首都圏に設置してもよいと首都圏の住民が考えているというのであれば、何も、日本海に面した柏崎等から、東京まで原子力発電の電気を遠路持ってくることはない。東京湾岸に原子力発電所を設置すべきだ、ということになる。

それはともかく、首都圏に米陸海空軍の主要基地があるのはおかしいのであって、それだけでも原子力空母の配備を契機に米海軍基地は首都圏外に持って行くべきだと思う。首都圏に米軍の主要基地があるのは、占領時代の名残だ。

ちょっと脱線するが、私が1989年に防衛施設庁で在日米軍基地従業員の担当課長になった時、在日米軍司令部の担当課長(軍人OBのシビリアン)に就任挨拶に行ったところ、机の上に(恐らくわざと)占領時代の日本の労働問題全般を担当していたGHQの課長の書いた回想録が置いてあり、在日米軍司令部の担当課長は、「これは、私のずっと前の前任者の書いた本だよ」と私に言ってのけたものだ。在日米軍関係者の意識はこんなものか、と呆れた記憶がある。

首都圏に在日米軍司令部や在日米陸・海・空軍司令部がないと、日本政府との連絡調整に支障が生ずると米軍は言うだろうが、そもそも、在日米各軍は、末端の部隊であって、本来日本政府の連絡調整の相手とされていること自体が占領時代の名残だ。

そして、ここで、私自身が考えている、米空母の新母港の場所の候補地の一つを説明したのですが、ここは、オフ会への出席者以外にはお教えしないことにします。(言い忘れましたが、出席者の皆さんも、当分の間は、ご自分の胸の内にしまっておいてください。)

本件がらみで、私は更に発言を続けました。

原子力空母の母港を横須賀以外の場所に新しくつくるのには、大きな経費がかかるが、将来ここに、日本の原子力潜水艦の基地を設けることができるし、場合によっては、米空母にはお引き取り願って、そこを日本の原子力空母の母基地にしてもよい。

何も日本も空母、特に原子力空母を持つべきだと言っているのではなく、かかるオプションを確保しておくことに意味がある、と思うのだ。

現在の日本は十数隻の在来型潜水艦を持っているが、米国がもはや一隻も在来型潜水艦を持っていないことを見ても、いかに在来型潜水艦が相対的には無用の長物か分かる。中共等はまだ在来型潜水艦が主力だから、日本の在来型潜水艦は、自衛隊や米軍の訓練用標的としての役割に毛が生えた程度の意味しか持っていない。

また、海上自衛隊が持っている50隻以上の護衛艦は、その大部分が潜水艦を撃沈するためのものだが、実は、日本はP-3Cを大量に持っており、潜水艦を撃沈するためなら護衛艦は一隻もいらない。護衛艦は、本来空母を守るためだけにある、と言ってもよい。

換言すれば、日本が空母を持たないのなら、護衛艦を保有している意味はほとんどない、ということだ。(弾道ミサイル防衛用途に護衛艦が一部使われつつある話には立ち入らない。)

(続く)