太田述正コラム#11294(2020.5.17)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その23)>(2020.8.8公開)

 「・・・平安初期以来、勅撰の歴史書の編纂はなくなったが、歴史意識はやや異なる方向から進展した。
 それは仏教によるもので、歴史観が地理観と結びついている。
 仏教はインド(天竺)に発するものであるから、他の文化が中国発であるのに較べて、さらに中心が遠くにある。・・・
 日本は・・・文明の中心である天竺からははるかに隔たった辺土でしかないことになる。
 そこに末法説<(注62)>が重なる。・・・

 (注62)「末法思想とは、釈迦が説いた正しい教えが世で行われ修行して悟る人がいる時代(正法)が過ぎると、次に教えが行われても外見だけが修行者に似るだけで悟る人がいない時代(像法)が来て、その次には人も世も最悪となり正法がまったく行われない時代(=末法)が来る、とする歴史観のことである。・・・『大集経』(正式名『大方等大集経』)<に説かれる。>・・・
 末法思想は、<支那>では隋・唐代に盛んとな<った。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E6%B3%95%E6%80%9D%E6%83%B3
 「大集経<は、>・・・<支那>仏教では、『般若経』・『華厳経』・『涅槃経』・『大宝積経』と共に、大乗仏教五部経の1つに数えられ・・・ている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%9B%86%E7%B5%8C

 諸説が行われていたが、次第に仏滅を紀元前949年として、正法千年、像法千年、末法万年説が定着する。
 それによると、1052年が末法元年になる。
 このように、日本における末法説は辺土説<(注63)>と重なることでより深刻度を増す。

 (注63)「本地垂迹説とは、仏教の立場から神と仏の関係を説いた理論で、それは辺土説に基づいて成立した。辺土説とは「我が国を釈迦の生誕地インドから遠く離れた辺土と位置付け、末法の辺土では、仏がそのまま現れても衆生を救うことが出来ない。そこで仏は方便をこらし、神に姿を変えて我が国に垂迹した」とする説で、その語源は法華経如来寿量品の本門(釈迦如来の教え)・迹門(人間釈迦の教え)にある。如来寿量品には釈迦如来(本地)が人間釈迦(垂迹)に姿を変えてこの世に現れ、人々にその教えを説いたと記されており、この関係が神仏にも適用され、仏を本地、神をその垂迹と位置付けた。」
http://imakumanojinja.or.jp/kumanosinkou.html

 しかし、末法・辺土観は、同時に真剣な仏法の実践への志向を強めるものでもあり、必ずしも退廃的な風潮に陥ったわけではない。<(注64)>」(53~54)

 (注64)「末法思想<は、>・・・日本では平安時代の頃から現実化してきた。平安初期には(まだ一般的ではなかったものの)すでに最澄や景戒<(前出)>には、末法であるとの自覚が見られる。伝教大師が著した(とされるが現在では偽書とみられている)『末法燈明記』の中には・・・末法が近づいている旨が書かれている。一般的には、特に1052年・・・は末法元年とされ人々に恐れられ、盛んに経塚造営が行われた。 この時代は貴族の摂関政治が衰え院政へと向かう時期で、また武士が台頭しつつもあり、治安の乱れも激しく、民衆の不安は増大しつつあった。また仏教界も天台宗を始めとする諸寺の腐敗や僧兵の出現によって退廃していった。このように仏の末法の予言が現実の社会情勢と一致したため、人々の現実社会への不安は一層深まり、この不安から逃れるため厭世的な思想に傾倒していった。
 『末法灯明記』は、現在は末法であって無戒の時代であることを強調するものであり、これは仏教が堕落し社会が混乱している時代に育った鎌倉新仏教の祖師たちに大きな影響を与えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E6%B3%95%E6%80%9D%E6%83%B3

⇒何ということはない、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想の目論見通りに歴史が展開し、歴代天皇(朝廷)が権力を諸武家ひいては武士達(や僧兵達!)へ委譲して行くにつれて自力救済が横行する緊張感に満ちた社会へと日本が変貌していき、自力救済が行われる過程で、武士が非武士に対し、或いは武士相互に、殺傷を伴う武力行使を行う機会も増えていったことから、人々の間で世も末である的な意識が醸成され、それを予期して、これまた予め準備されていたところの、神仏習合教が多宗派に分かれていきつつ、活性化していき、人々に対して精神的な癒しを提供し始めた、というわけです。
 なお、私は、それが「末法」意識よりは、「末代」意識だったとする森新之介説(注65)、に共感を覚えています。(太田)

 (注65)「森新之介<は>、「末法」「末代」「末世」の異同に関して論じた専論は明治から今日に至るまで全く存在しないにも関わらず、全てが末法(思想)と同義として扱われていると批判し・・・、従来、区別せずに用いられていた「末法」「末代」「末世」に関して、「末代」や「末世」の語源は儒教・道教などの古代中国思想に由来する用語であって末法および末法思想とは直接的な関係は無いとし、日本の平安から鎌倉にかけて人々に強い影響を与えたのは、実際の災害や飢饉などと漢学の知識が結びつけられた「末代(観)」であって、末代との関係が薄い末法思想は当時の社会には限定的な影響しか与えなかった、と主張している。」(上掲)
 森新之介(1983年~)は、「早稲田大学第一文学部人文専修卒業、東北大学大学院文学研究科日本思想史専攻分野博士課程後期修了。博士(文学)。現在、東北大学大学院専門研究員。」
https://www.amazon.co.jp/%E6%91%82%E9%96%A2%E9%99%A2%E6%94%BF%E6%9C%9F%E6%80%9D%E6%83%B3%E5%8F%B2%E7%A0%94%E7%A9%B6-%E6%A3%AE-%E6%96%B0%E4%B9%8B%E4%BB%8B/dp/4784216650

(続く)