太田述正コラム#11296(2020.5.18)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その24)>(2020.8.9公開)

 「仏教を中心に見る歴史・地理観は、天竺・震旦・本朝とつなげる三国史観を生むことになった。
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[三国史観的なものの初出時期]

 「最澄などは明確にインド・<支那>・日本という仏教の流伝を意識しており、・・・さらに平安中期になると、三国伝来と末法意識が重なり、特徴的な歴史観が生まれた。それを源為憲<(注66)の>『三宝絵』<(注67)>に見ることができる。」
http://nbra.jp/files/pdf/2019/2019_01-02.pdf

 (注66)?~1011年。「光孝源氏、美濃権守・源是恒の曾孫。筑前守・源忠幹の子。・・・文章生から内記・蔵人・式部丞を経て、三河権守・遠江守・美濃守・伊賀守などの地方官を歴任した。・・・
 文章・漢詩・和歌に秀で、『本朝文粋』に受領申文を載せ、『本朝麗藻』『類聚句題抄』などに漢詩作品を、『拾遺和歌集』(1首)に和歌作品を残している。そのほか『口遊』『世俗諺文』などの教養書も撰している。また仏教にも造詣が深<かった。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%82%BA%E6%86%B2
 (注67)「三宝絵詞<は、>・・・二品尊子内親王(966年 – 985年)のために学者源為憲(? – 1011年)が撰進。尊子内親王は三歳で父帝冷泉天皇の斎院に卜定され、退下ののち叔父にあたる円融天皇に入内するが、・・・982年・・・、密かに髪を切り入道した。その後、内親王の仏道の入門書として「三宝絵詞」3巻が献上された。・・・
 三宝とは仏(釈迦など諸仏)・法(経典)・僧を指し、本書はその功徳について述べたもの。上巻13話は釈迦の本生譚。中巻18話は本朝の高僧伝などで、内17話までが『日本霊異記』からの引用。下巻は年中の仏事(法会)の来歴・作法を月次に解説。三巻はそれぞれ、「昔」、「中頃」、「今」の時代に対応する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%AE%9D%E7%B5%B5%E8%A9%9E
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 12世紀前半に成立した『今昔物語集』は、天竺部・震旦部・本朝部に分けて仏法・世俗の数多くの説話を集成している。
 そこでも必ずしも強い歴史意識に基づくとは言えないが、釈迦仏の一代記から始めて、仏法伝達の歴史が基軸をなしている。
 三国史観はその後鎌倉期にかけて定着し、凝然<(注68)>(ぎょうねん)の『三国仏法伝通縁起』<(注69)>などで最終的な形態を完成することになる。

 (注68)1240~1321年。「東大寺の学僧。インド・<支那>・日本にまたがる仏教史を研究してその編述をおこない、日本仏教の包括的理解を追究して多くの著作をのこした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%9D%E7%84%B6
 「凝然は『三国仏法伝通縁起』と『八宗綱要』で、インド・<支那>・日本に伝わっている仏教は同一の流れにあり、優劣高低のない同一の仏法であると明確に説いている。これは三国仏教史観と呼ぶべきものである。」
https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=5&ved=2ahUKEwi02_C85LfpAhXXyYsBHSjgApIQFjAEegQIBBAB&url=https%3A%2F%2Fnichibun.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_action_common_download%26item_id%3D2300%26item_no%3D1%26attribute_id%3D19%26file_no%3D1&usg=AOvVaw2jjZcxefuxMBAE2_y6PzdR
 (注69)「3国すなわちインド,<支那>,日本における仏法伝通に関して述べた仏教史。東大寺凝然の著。・・・後宇多法皇の要請で著された<もの。>・・・3巻。1311年・・・7月の成立。上巻は天竺(インド)における仏教の発生と進展,震旦(<支那>)における毘曇(びどん),成実,戒律,三論,涅槃,地論,浄土,禅,摂論(しようろん),天台,華厳,法相,真言の13宗について概観し,中・下巻にわたって日本における三論,法相,華厳,俱舎(くしや),成実,律,天台,真言の8宗について,その流通,法脈などを精記し,下巻の巻末には当時ようやく盛行していた禅宗,浄土宗について略記している。」
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E4%BB%8F%E6%B3%95%E4%BC%9D%E9%80%9A%E7%B8%81%E8%B5%B7-513402

⇒前田雅之(注70)は、「文明国の中国と後進国の日本ではどう頑張っても漢>和という構図から逃れられない。・・・<こ>の構図<から>逃れる方法、これが三国観であった。仏教を基軸にしているから、仏を生んだ天竺が最高位にある。そこから、天竺>震旦=本朝という構図が出て来るだろう。つまり、天竺を第三項として震旦との対等関係が論理上導き出せるのである。さらに、鎌倉初期の高僧(歌人でもある)慈円が出した梵=和>漢という構図になると、天竺と本朝をイコール化して、震旦を下位に置いてしまうのである。慈円がこれを言い出したのは、和歌=仏法という構図の主張であった。<但し、この慈円説はすぐ廃れ、「震旦=本朝」が流布し続けた。>」(『なぜ古典を勉強するのか:近代を古典で読み解くために』より)
https://books.google.co.jp/books?id=umljDwAAQBAJ&pg=PA125&lpg=PA125&dq=%E5%89%8D%E7%94%B0%E9%9B%85%E4%B9%8B+%E4%B8%89%E5%9B%BD&source=bl&ots=_Ngm8GxS8D&sig=ACfU3U2Tn-KAo8fISlGyrc0lT1FsM9UkaA&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwi82K6luL3pAhWTFIgKHY8IDEcQ6AEwBXoECAsQAQ#v=onepage&q=%E5%89%8D%E7%94%B0%E9%9B%85%E4%B9%8B%20%E4%B8%89%E5%9B%BD&f=false
と指摘していますが、末木には、この説に何らかの言及をして欲しかったところです。(太田)

 (注70)1954年~。早大教育(国文)卒、同大院博士課程単位取得退学、東京女学館短期大、東京家政学院大を経て、明星大教授。早大博士。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E9%9B%85%E4%B9%8B

 『今昔物語』は、このように仏法を基軸としながらも、必ずしも仏教信仰にのめり込むものではなく、ある距離を取って冷静に見ているところに特徴がある。
 愛宕の山の聖人に夜ごと普賢菩薩が現れるのを、漁師が野猪の仕業と見破った話(第二十巻十三話)<(注71)>のような批判的な視点に、新しい時代への息吹が見られる。」(54)

 (注71)http://www7b.biglobe.ne.jp/~zuiun/218konjaku-10.html

⇒この「話」を、ぜひ「注70」のURLを開いて読んでみていただきたいが、この「話」の場合は、「武士」ならぬ「武力」賞讃であるところ、今昔物語全体として、「案外人々の生活は楽しく、ユーモアがよく理解され、精神的にはのびのびしていたのではないかと思われる<と共に、>・・・とかく武人に対する賞賛が目立つが、これも、やがて武家の世になる世相の一端を示すのであろう。」
https://japanknowledge.com/articles/koten/shoutai_38.html
という感想に私も同感であり、いささか大胆に私見を述べれば、「1120年代からあまり遠くない」時期に今昔物語集をまとめ上げた人(人々?)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E6%98%94%E7%89%A9%E8%AA%9E%E9%9B%86
は、武家関係者(達)であって、彼らとして、弥生性の獲得に成功した一方で仏教を弥生性の毒消しに用いることにも目途がつきかけていた、すなわち、桓武天皇ら歴代諸天皇から課せられたミッションが果たせそうになってきた、という背景の下、かかる高揚感を記録すると共に、そのことを一般にも広報宣伝する目的で、この目的に適合的な諸話を集め、必要に応じ、改変を加えつつ、編纂した、というものです。(太田)

(続く)