太田述正コラム#11298(2020.5.19)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その25)>(2020.8.10公開)

 「摂関と院政は天皇(帝)と分立した政権というわけではない。
 確かに院政期には院が「治天の君」となり、院庁下文(いんのちょうくだしぶみ)や院宣(いんぜん)<(注72)>が国権の最高の意思表示とされるが、院は天皇の父であり、王権が分裂したわけではなかった。

 (注72)「律令によれば、政府の最終決定意思は、天皇が裁可した上で、詔勅または太政官符により表示することと規定されていた。しかし、平安後期に上皇が治天の君(事実上の統治者)として君臨し、政務を取り仕切る院政が開始すると、詔勅や太政官符に代わる、政治意思の表示方式を確立する必要が生じた。そこで、治天の政務機関として設置された院庁の発給する文書、すなわち院庁下文が、詔勅や太政官符と同等の効力を持つものとして取り扱われるようになった。
 院宣は私的な文書としての性格が強く、即応性・柔軟性の高い文書だったのに対して、院庁下文は、詔勅・太政官符のように、重要事項について対応するための文書だった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%A2%E5%BA%81%E4%B8%8B%E6%96%87

⇒そうではなく、私のように、国の権力と権威とが分裂ならぬ分離していた、と捉えるべきでしょう。
 但し、藤原氏も広義の天皇家ですから、広義の天皇家において、別個の人間がそれぞれ国の権力と権威を担っていた、と。(太田)

 それが、武家政権になると、天皇を中心とした朝廷と対抗するもう一つの王権の核ができることになる。
 過渡期となる平氏政権にあっては朝廷から独立した王権となることはできず、都落ちの際も安徳天皇を擁することで自己正当化を図った。・・・

⇒平氏も源氏も(藤原氏同様)広義の天皇家なのであり、鎌倉幕府という「武家政権」だって、院が権威、武家の棟梁が権力、を担う、という意味で、それまでの、権力と権威の分離、の延長でしかない、というのが私の考えです。
 (両者が権力を分有していた、という説には私は与しませんが、ここでは立入りません。)
 で、マクロ的に見れば平氏勢力と源氏(源義仲)勢力、それに源氏(源頼朝)勢力、の三つ巴の戦いであったところの、治承・寿永の乱(1180~1185年)、は、武家の間の権力争いが、時の権威の担い手たる後白河法皇を奪い合う形で行われたものであって、権威の担い手でも権力の担い手でもなかった・・だからこそ、それは安徳天皇のような幼児で足りた・・天皇を平氏が拉致したことなど、殆ど何の意味もなかった、というのが、私の見方です。(太田)
 
 源頼朝は平氏政権と異なり、拠点を東国の鎌倉に定めてそこから動かず、兵を派遣して平氏を滅ぼした。
 全国に守護・地頭を配置して支配権を確立するとともに、征夷大将軍に任じられて、政権の基礎を固めた。・・・

⇒平氏も源氏(源義仲)も、そして後の源氏(足利家)も、豊臣秀吉も、権力の担い手として、権威の担い手、と同じ場所に居住し執務したのに対し、源氏(源頼朝)と徳川家、は、権威の担い手、とは異なった場所に居住し執務したところ、私は、これは、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想の推進者達が予期していなかった成行だったのではないか、と、現時点では見ています。(太田)

 朝廷側の強みは何よりも王朝時代に積み上げた高度な文化と秩序であり、武家にはそれが欠けていた。

⇒ハテ?
 源頼朝は、父親が従四位下源義朝、母親が熱田神宮大宮司従四位下藤原季範(1090~1155年)の娘で正室の由良御前(?~1159年)との間の嫡長男という生まれながらの貴族であり、「1158年・・・後白河天皇准母として立后した統子内親王の皇后宮権少進となり、・・・1159年・・・2月に統子内親王が院号宣下を受けると、上西門院蔵人に補される。上西門院殿上始において徳大寺実定、平清盛などの殿上人が集う中で献盃役をつとめる。また同年1月には右近衛将監に、6月には二条天皇の蔵人にも補任される。・・・1159年・・・12月・・・14日、13歳の頼朝は右兵衛権佐へ任ぜられる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%9C%9D
と、小さい時から、朝廷勤務経験を積んでおり、「慈円と親交があって和歌を詠み、贈答歌の「陸奥の いはでしのぶは えぞしらぬ ふみつくしてよ 壺の石ぶみ」は新古今和歌集に入撰している。」(上掲)という教養人であり、「法華経の写経や埋経、暗誦(あんじゅ)などを行い、「法華八幡の持者」と称された。」(上掲)と、仏教にも造詣があり、彼に「高度な文化と秩序・・・が欠けていた」などとは到底言えそうもありませんが・・。(太田)

 戦時には強い力を発揮しても、平和な時代を支配する知恵は、朝廷がはるかに豊かな蓄積を持っていた。

⇒平安時代末期から始まった(私の言うところの)弥生モードの時代には、平時と戦時は裏合わせであって、平時に係る「豊かな蓄積」しか「持ってい」なかった朝廷ではなく、平時と戦時の両面に係る「豊かな蓄積」を持っていた武家の源氏の棟梁格であったからこそ、頼朝は、「挙兵直後から・・・朝廷の従来の枠を外れた方法で御家人の所領の保証、敵方の没収所領の給付を行い本領安堵新恩給付という豪族たちの最大の願望を実現していき坂東豪族の支持を集めていった。」(上掲)などという芸当をやってのけることができたのです。(太田)

 そこで幕府としては、朝廷の文化を受容し、有職故実によって作り上げてきた秩序に学びながら、独自の秩序と文化を作っていかなければならなかった。

⇒ですから、末木センセ、ご冗談でしょ。(太田)

 実朝の横死によって源氏が途絶えた時、幕府は摂関家の藤原頼経を将軍に向え、第六代の宗尊(むねたか)親王以後は皇族の将軍が続いた。

⇒藤原頼経は、「摂関家の藤原頼経」であった以上に、頼朝の同父母姉妹である坊門姫のひ孫であった(しかも、頼経の両親がどちらも坊門姫の孫であった)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%A0%BC%E7%B5%8C
ことが大きかったのではないでしょうか。(太田)

 その間、承久の乱(1221)によって、幕府側は朝廷側を打ち破り、後鳥羽上皇らを流罪にするという実力を見せつけたが、それでも朝廷をなくすことはしなかった。」(55~56)

(続く)