太田述正コラム#11340(2020.6.9)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その46)>(2020.8.31公開)

 「・・・キリスト教は、大名を含めて多くの信者を獲得したが、他方で王権により禁圧の動きも続いた。
 早くに正親町天皇<(注141)(コラム#8297、8854、9330、9322、9381)>はキリシタン嫌いで「大うすはらひ」<(注142)>(1587)の命を出したが、実際に大きな影響力を持ったのは秀吉の伴天連(ばてれん)追放令(1587)であった。であった。

 (注141)1517~1593。天皇:1557~1586年。「後奈良天皇の崩御に伴って践祚した。当時、天皇や公家達は貧窮しており、正親町天皇も即位後約2年もの間即位の礼を挙げられなかったが、・・・1559年・・・春に安芸国の戦国大名・毛利元就から即位料・御服費用の献納を受けたことにより、・・・即位の礼を挙げることが出来た。さらに、本願寺法主・顕如も莫大な献金を行っており、天皇から門跡の称号を与えられた。これ以後、本願寺の権勢が増した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E8%A6%AA%E7%94%BA%E5%A4%A9%E7%9A%87
 (注142)「「大うす」とはデウスのこと。「すす払い」にひっかけてある。 」
https://harvesttime.tv/assets/PDF/Seminars/2013NakagawaText.pdf
 「1560・・・年、・・・パデレ・ガスパル・ヴィレラ・・・は将軍足利義輝に謁見し、布教許可の制札を得た。また当時の畿内の実力者<の>三好長慶・・・も訪問し、布教の許可状をえている。・・・京都での布教が進められてい<くことにな>ったのである。・・・
 1563・・・年、比叡山は三好長慶の被官松永久秀に、宣教師が神仏の廃亡を謀ったとして、その都よりの追放を要求した。・・・
 正親町天皇<の>・・・綸旨の獲得に直接的に働いたのは、・・・熱烈な法華衆徒であった・・・<ところの、当時>正三位の公家<の>・・・武内季治・・・<と、松永久秀に仕えていた弟であった。>・・・そして季治<ら>は、同じく法華宗徒である・・・久秀を動かし、・・・宣教師を京都から追放するに至った。・・・
 1568・・・年9月、織田信長は足利義昭を擁して京都に入り、三好三人衆を阿波に追い落し、松永久秀を降服させ・・・10月、義昭は将軍に任ぜられた。
 ・・・翌・・・1569・・・年4月、・・・天皇の反対があった<が、>フロイスは上京し信長・義昭に謁した。
 そして、・・・4月24日・・・には宣教師の京都での居住を許可し保護を与えるという信長の朱印状が、・・・<そして、>信長の不在中の・・・5月1日・・・には義昭の制札が出された。・・・
 <しかし、同じ>5月1日、・・・朝山日乗・・・らの画策によって、・・・再び正親町天皇より宣教師追放の綸旨が下された。・・・
 信長<は、>・・・<この>宣教師追放の綸旨に対して一定の敬意を払<いつつも、>・・・<宣教師の>保護を<フロイスに確約した。>・・・
 正親町天皇<は、>・・・当代随一の名医であり、天皇・将軍・武将らとの関係も深く、・・・政治家としての才能もあ<り、>・・・第一流の文化人であり、とりわけ茶の湯のたしなみも深かった・・・曲直瀬道三・・・<が>・・・1584<年に>・・・入信<すると、>・・・天皇<は、それを譴責している。>」
https://rikkyo.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=1170&item_no=1&page_id=13&block_id=49 (村井早苗「キリシタン禁制をめぐる天皇と統一権力 : 統一政権成立過程における」より)
 村井早苗(1946年~)は、日本女子大文(史学)卒、立教大博士課程単位取得退学、日本女子大博士、日本女子大教授、退任。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%BA%95%E6%97%A9%E8%8B%97
 朝山日乗(あさやまにちじょう。?~1577年)。「日蓮宗の僧。・・・荒廃した皇居の修理費を勧進する念願を上奏し、後奈良天皇から日乗上人の号を賜ったという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%B1%B1%E6%97%A5%E4%B9%97
 曲直瀬道三(1507~1594年)。「それまでの観念的な治療方法を改め、道三流医道を完成させ、実証的な臨床医学の端緒を開<いた。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B2%E7%9B%B4%E7%80%AC%E9%81%93%E4%B8%89

 そこでは、「日本は神国であるのに、キリシタン国から邪法を授けるのはあってはならないことだ」として、日本が神国であることを、キリスト教を受け入れない根拠としている。
 この「神国」は神仏を含み、日本はそれで充足しているので、外から新しい「邪法」を必要としないという論法である。」(100)

⇒正親町天皇は、私見では、私がそれぞれ言う、第一次弥生モードから第二次縄文モードへの転換の端緒を作った天皇です(コラム#8296)ですが、秀吉や江戸幕府のキリシタン禁制の魁たる綸旨を出した天皇でもあった、というわけです。
 しかも、この天皇と「連携」してキリシタン禁制の実現を画策したのが日蓮宗信徒達であったことも面白い、と言うべきか。(太田)

(続く)