太田述正コラム#11342(2020.6.10)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その47)>(2020.9.1公開)

 「ここに「神国」はキリスト教を排除するという新しい意味を与えられることになった。
 その論法は江戸期のキリシタン弾圧や鎖国の際に継承されることになった。

⇒末木はキリシタン禁制のタテマエにだけ注目し、安全保障という、秀吉や徳川幕府のホンネを無視しています。(太田)

 秀吉は、その上で方広寺の大仏を拠点に仏教界の統合を図ろうとして、[天台宗の]方広寺に諸宗の僧を招いて千僧供養<(注143)>を行った(1595)。

 (注143)「1595年・・・9月25日・・・秀吉自身の祖父母の供養のため寺内の・・・巨大な経堂で千僧供養会を行った。天台宗、真言宗、律宗、禅宗、浄土宗、日蓮宗、時宗、浄土真宗(一向宗)の僧が出仕を要請された。千僧供養は以後豊臣家滅亡まで、毎月行われた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E5%BA%83%E5%AF%BA ([]内も)

⇒秀吉が「仏教界の統合を図ろうとし」た、とはぶっとんだ新説ですねえ。末木には、ぜひとも自説の具体的根拠を示して欲しかったところです。(太田)

 それは、自己の権力を宗教界にも徹底させようというものであり、日奥ら日蓮宗の一派のみが、不受不施(ふじゅふせ)<(注144)>の原則のもとに出仕を拒んだ(注145)。

 (注144)「信仰の違うものからは施しを受けない、信仰の違うもののために祈らない。独立自尊の精神」
http://www.shoueiin.jp/tayori/back_number/2019_6.html
 (注145)「1595年10月13日・・・豊臣秀吉が主催した方広寺大仏殿千僧供養会への出仕状が、奉行・前田玄以から法華宗に届いた。その後、京都本圀寺に於いて京都十六本山の会議が始まり、多くの法華宗の寺院は豊臣秀吉の意向に逆らうことは、法華宗の破滅に繋がるとし、出仕して供養を受けることに決定した。日奥は法華信者ではない豊臣秀吉の供養会に出仕して供養を受けることは、法華宗の宗義に反する行為であるとして反対した。1596年11月3日・・・日奥は法華宗の宗義を破ることは、法華宗を壊滅させることであるとして、豊臣秀吉に「法華宗諌状」を提出して京都妙覚寺を出寺し、丹波小泉に蟄居した。1598年9月18日・・・豊臣秀吉が没すると、京都十六本山が法華宗の名義で、日奥は公命違背として訴えられた。1600年1月6日・・・徳川家康が両者を大坂城で<行わせたところの、>・・・受布施を主張する京都妙顕寺・日紹と不受不施を主張する京都妙覚寺・日奥との対論<で、>・・・日奥・日紹ともに予め提出した訴状を読み、その結果、袈裟・数珠を剥ぎ取られ、その後、日奥は対馬に流罪となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%AF%BE%E8%AB%96

 彼らは江戸期に入ってもその態度を貫き、禁止されて、地下に潜ることになった。
 秀吉は、最終的に自らが神として祀られることを望み、朝廷から豊国(とよくに)大明神の神号を与えられて、吉田神道の形式で豊国社に祀られた。(注146)

 (注146)「1598年9月18日・・・に亡くなった豊臣秀吉の遺体は火葬されることなく伏見城内に安置されていたが、死去の翌年の・・・1599年・・・4月13日、遺命により東山大仏(方広寺)の東方の阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬され・・・、その麓に・・・廟所が建立されたのに始まる。廟所は秀吉の死後間もなく着工されたが、着工時はまだ秀吉の死は伏せられていたため「大仏の鎮守社」と称していた。・・・秀吉は奈良東大寺大仏殿を鎮護する手向山八幡宮に倣い、自身を「新八幡」として祀るように遺言したといわれる。「大仏の鎮守」として着工された社は、秀吉の死が明らかになるのに合わせるように「新八幡社」と呼ばれるようになる。
 ・・・1599年・・・4月16日、朝廷から秀吉自身の望みとは相違して豊国乃大明神(とよくにのだいみょうじん)の神号が与えられた・・・。・・・日本の古名である「豊葦原中津国」を由来とするが、豊臣の姓をも意識したものであった。神号下賜宣命には豊国大明神は兵威を異域に振るう武の神と説明されている。4月18日に遷宮の儀が行われ、社は豊国神社と命名された。4月19日には正一位の神階が与えられた・・・。なお、豊国神社は豊臣秀頼の希望により大坂城内にも分祀された。秀頼自身は本社創建の際には参列しておらず、・・・1611年・・・の二条城訪問の折に最初で最後となる参拝を行っている。大明神号となったのは、八幡神は皇祖神であるから勅許が下りなかったとする説や、反本地垂迹説を掲げる吉田神道による運動の結果とする説がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82)
 「豊臣秀頼は吉田兼見を社務に,兼見の弟神竜院梵舜を社僧に,孫の萩原兼従(かねより)を神主に任命した。」
https://kotobank.jp/word/%E8%B1%8A%E5%9B%BD%E5%A4%A7%E6%98%8E%E7%A5%9E-1380030

⇒豊国神社も、当然、神仏習合形態・・但し、反本地垂迹・・だった、というわけですね。(太田)

 大坂夏の陣で豊臣氏が完全に滅ぼされて、豊国社も壊された<(注146)>が、政治的権力者が死後に神として祀られたのは、これが最初である。

 (注146)「1868年・・・閏4月、明治天皇が大阪に行幸したとき、秀吉を「皇威を海外に宣べ、数百年たってもなお寒心させる、国家に大勲功ある今古に超越するもの」であると賞賛し、豊国神社の再興を布告する沙汰書が下された。同年5月には鳥羽・伏見の戦いの戦没者も合祀するよう命じられた。1873年・・・、別格官幣社に列格した。1875年・・・には東山の地に社殿が建立され、萩原兼従の子孫である萩原員光が宮司に任命された。1880年・・・、方広寺大仏殿跡地の現在地に社殿が完成し、遷座が行われた。旧福岡藩主の黒田長成侯爵・蜂須賀茂韶侯爵らが中心となり境内の整備が行われ<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82) 前掲

 これは従来の御霊神とはまったく異なる種類の神であり、顕彰神とも称することができる。

⇒「鶴岡八幡宮境内に・・・頼朝を祀る・・・白旗神社があり、社伝によると北条政子が朝廷より白旗大明神の神号を賜り・・・1200年・・・に創建したとされる。源頼家の創建とも伝わる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%9C%9D
というのですから、末木の「これが最初である」、とか、「これは従来の御霊神とはまったく異なる種類の神であり、顕彰神とも称することができる」、とか、その自信は、一体どこから来ているのでしょうね?
 なお、明治天皇が豊国神社を再興させたのは、秀吉は当時の歴代天皇の意向に反して朝鮮出兵をした人物であったけれど、その出兵目的自体は嘉した、ということなのでしょうが、何よりも、徳川家康が天皇が設置を認めた神社を破壊したことはあるまじきことであり是正されるべきだ、という思いだったのではないでしょうか。(太田)

 後に家康は東照宮に祀られ、さらに明治維新以後に多数の新しい顕彰神が祀られるようになった。」(100~101)

(続く)