太田述正コラム#11350(2020.6.14)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その51)>(2020.9.5公開)

 「・・・もともと徳川家と家臣の三河武士団は浄土宗の信仰に厚く、江戸開府に当たっては増上寺を菩提寺としたが、天海を知って天台宗にも関心を持つようになった。・・・
 天海<は、>・・・上野の地を賜り寛永寺を建立し<たところ、徳川家は、同寺を>増上寺と並ぶ・・・菩提寺とした。
 <また、>東照宮の創建ににより、家康の神格化を天台の山王一実神道<(注155)>の形式で実現した。

 (注155)「山王神道<は、>・・・日枝山(比叡山)の山岳信仰、神道、天台宗が融合した<神道>・・・である。・・・
 天海は、家康の歿後、山王神道説をもとに山王一実神道(さんのういちじつしんとう)へと発展させ、山王一実神道に依拠して家康の霊を権現(東照大権現)の神号で祀ることを主唱した。山王一実神道では、山王権現とは大日如来であり、天照大神であると説いた。これには伊勢神道の影響も見られる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%8E%8B%E7%A5%9E%E9%81%93 前掲

⇒豊国神社は、真言宗と反本地垂迹説(神本仏迹説)の吉田神道の合作でできた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E7%A5%9E%E9%81%93
ことから、それと同じというわけにはいかないこともあって、東照宮は天台宗の山王一実神道(注155)で造ったというところでしょう。(太田)

 家康は「東昭大権現」<(注156)>として最終的に日光に祀られ、徳川の政権を守護することになる。

 (注156)「家康の死後、問題となったのは「神号」でした。「明神」(みょうじん)号を主張する・・・崇伝・・・と、・・・「亡君豊国大明神のちかきためしを覚して…」と豊国大明神の悲惨な末路を引き合いに出し、・・・「権現」(ごんげん)号を主張する・・・天海との間で激論になりましたが、・・・秀忠による裁定で「権現」号に決まりました。その後、幕府は朝廷に神号を奏請し、朝廷からは東照大権現、日本(ひのもと)大権現、威霊(いれい)大権現、東光大権現の4つが示され、幕府は東照大権現を選び、家康の神号が決定しました。」
http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/ieyasu/contents6_04/
 ちなみに、「天海は・・・東照大権現<を>・・・薬師如来の垂迹である、<とした。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%8E%8B%E7%A5%9E%E9%81%93 前掲

 日光を管理する輪王寺は門跡寺院として宮家から住職を迎え、同時に<東叡山>寛永寺住職・天台座主を兼ねることで、延暦寺を超える権威となった。<(注157)>

 (注157)「寛永寺<の>・・・貫主は「輪王寺宮」と尊称され、水戸・尾張・紀州の徳川御三家と並ぶ格式と絶大な宗教的権威をもっていた。・・・歴代輪王寺宮は、一部例外もあるが、原則として天台座主を兼務し、東叡山・日光山・比叡山の3山を管掌することから「三山管領宮」とも呼ばれた。東国に皇族を常駐させることで、西国で皇室を戴いて倒幕勢力が決起した際には、関東では輪王寺宮を「天皇」として擁立し、気学における四神相応の土地相とし、徳川家を一方的な「朝敵」とさせない為の安全装置だったという説もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E6%B0%B8%E5%AF%BA 前掲

 日光と寛永寺に護られる江戸は、比叡山に護られる京を超える日本の中心として位置づけられた。

⇒京都に天皇を残しておいて、将軍のいる江戸が「京を超える日本の中心として位置づけられ」るわけがないでしょう。(太田)

 しかし、そこには弱点があった。
 東照宮が天台教学によって権威づけられるとしても、それはアマテラス-天皇という国家の神話的系譜の中に位置づけられないために、仏教の権威が落ちれば、その根拠づけを失うことになる。

⇒「山王一実神道によって家康が祀られたにも関わらず、家康や日光への崇敬は別として、山王神道</山王一実神道>そのものは、江戸幕府の将軍から厚遇を受けることはなかったとされる。そして、山王神道</山王一実神道>は、江戸時代の神仏習合の神道の中では最も活動的であったのに、近代の神道の諸派と互角に競う力も持てなかったとされる。このことは、江戸幕府が宗教をさほど重視しておらず、特に神道については、幕府の主要な関心事とならず、二次的地位であったことを示しているといわれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%8E%8B%E7%A5%9E%E9%81%93 前掲
という説明の方が、私は腑に落ちます。(太田)

 そして実際、幕末の尊王論の高まりの中で、東照宮は幕府を十分に支える論拠となりえなかったのである。」(115~116)

⇒私は、そんなことよりも、前にも(コラム#11171で)述べたように、(林羅山の登用によって、家康がそのきっかけを作ったところの、)徳川幕府の儒教重視が、儒教が内包する論理により、尊王論を高めてしまったことが大きい、と考えているわけです。(太田)

(続く)