太田述正コラム#1150(2006.3.28)
<イスラムの病弊(その1)>
1 始めに
 現代イスラムの病弊に関わる話題を二つ提供しましょう。
 アフガニスタンでの、イスラム教からキリスト教に改宗した男性に対する裁判の話と、英国のチャールス皇太子がサウディの宗教大学で大胆な発言をした話です。
2 アフガニスタンでの話
 アフガニスタン出身の男性が、16年前にパキスタンで西側の援助団体で働いている時、同じ職場のキリスト教徒の影響でイスラム教からキリスト教(カトリック)に改宗しました。
そのことを快く思わない妻は離婚し二人の娘を連れてアフガニスタンに帰っていましたが、先般この男性(41歳)が、故郷のアフガニスタンに戻り、妻が連れ帰っていた子供達を取り戻そうと裁判に訴えたところ、イスラム教の棄教(apostasy)を許さないシャリアに違反したので死刑に処せられるべきだ(注1)として逮捕・訴追されるという事件が起こりました。
 (注1)唯一神アラーの言葉とされるコーランでは、「宗教において強制はあってはならない」(al-Baqarah, 256)と、むしろ宗教の自由が謳われている。しかし、預言者ムハンマドの言行録であるハディスには、「自分の宗教を変える者は殺されなければならない」とある。(http://news.bbc.co.uk/2/hi/south_asia/4850080.stm。3月28日アクセス)
     2004年に制定された新生アフガニスタンの憲法は、宗教の自由を謳う一方で、イスラムの至上性も謳っており、一定の分野でのシャリアの適用を認めている。(アフガニスタンの刑法では、イスラム教の棄教を罪とはしていない。)(http://www.nytimes.com/2006/03/24/international/asia/24convert.html?pagewanted=print、3月25日アクセス)。
ちなみに、イスラム教棄教者は死刑となるタテマエをとっている国としては、アフガニスタンのほか、サウディ・イラン・スーダンがある。これら諸国では、イスラム教以外の宗教を布教することも死刑となるタテマエだ。なお、宗教の自由が認められていることになっているイスラム教国であるエジプトやパキスタンでも、実際に上記布教や棄・改宗を行うことは、公私にわたって有形無形の圧力が加えられることから、ほとんど不可能だ。
 これに対し、米国・独伊加各国(いずれもアフガニスタン派兵国)・法王庁から批判がアフガニスタンのカルザイ(Hamid Karzai)大統領に寄せられる一方で、アフガニスタン国内では、イスラム学者達はもちろん、一般民衆の間でもこの男性を死刑にすべきだとの声が高まり(注3)、大統領は板挟みになって苦慮していましたが、結局、この男性は、精神状態に問題があるとして、訴追が取り消されるに至り、大統領は事なきを得ました。
(以上、http://www.csmonitor.com/2006/0327/p01s04-wosc.html(3月27日アクセス)のほか、既に典拠として付した記事によった。)
 (注3)アフガニスタンでは、グアンタナモ米軍基地に収容されているテロ被疑者の所持品たるコーランを米兵が冒涜したとされる2004年の事件や、昨年のムハンマドの漫画騒動(コラム#1069、1078??81、1084、1087、1090、1096)等を通じ、欧米諸国がイスラム教を冒涜しているという怒りが高まっている((http://www.nytimes.com/2006/03/25/international/asia/25convert.html?pagewanted=print。3月25日アクセス)。
 一神教の信奉者が少ない日本の住民である私だからこそ、あえて言わせてもらいますが、この欧米諸国とイスラム保守派とのせめぎ合いを見ていると、(米国こそ、両極端に分裂しつつあり、いささか様相を異にするものの、)同根の一神教信奉者のうち、信仰を捨て去りつつある者と、いまだに信仰にしがみついている者とのせめぎ合い、という趣がします。
 すなわち、中世キリスト教におけるスコラ学の泰斗、トマス・アクィナス(Thomas Aquinas。1224??74年)(コラム#552、568等)は、異端者たる個人の処刑はもとより、フランスの異端のカタル(Cather)派に対するアルビジャン十字軍(Albigensian Crusade。1209??29年)による、カタル派信徒の大量虐殺まで正当化しましたが、カトリック教会による異端者の処刑は、実に1826年(スペイン・ヴァレンシアにおける、自然神教(Deism)信奉(注4)教師の処刑)まで続いたのですから・・(http://www.atimes.com/atimes/South_Asia/HC28Df01.html。3月28日アクセス)。
 (注4)啓示や伝統ではなく、理性こそが宗教の基礎でなければならないとする考え方(http://en.wikipedia.org/wiki/Deism。3月28日アクセス)。