太田述正コラム#11370(2020.6.24)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その61)>(2020.9.15公開)

 「荻生徂徠<(注192)>もまた『政談(せいだん)』<(注193)>を将軍吉宗に献策したが、その基本は適切な制度による社会秩序の確立というところにある。

 (注192)1666~1728年。「父は5代将軍・徳川綱吉の侍医・荻生景明。弟は徳川吉宗の侍医で明律研究で知られた荻生北渓。・・・
 兵法にも詳しく、『孫子国字解』を残した。卓越した『孫子』の注釈書と言われている。・・・
 支那趣味を持ち、・・・漢籍を読むときも訓読せず、元の発音のまま読<んだ。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%BB%E7%94%9F%E5%BE%82%E5%BE%A0
 また、「《満文考(満字考)》を著し,満州文字の構成をわかりやすく示そうとした。」
https://kotobank.jp/word/%E8%8D%BB%E7%94%9F%E5%BE%82%E5%BE%A0-17726
 (注193)「8代将軍徳川吉宗の諮問に応じ、幕府政治の改革すべき点についての徂徠の意見を述べたもので、著述の時期は不明であるが、1725年・・・ないし27年ごろと推定される。
 内容が政治上の機密に関係しているため、徂徠は門人にも見せず、自筆のまま上呈する旨を末尾に記しているほどで、公表されることはなかったが、18世紀後半になると、写本がつくられて、しだいに世間に流布し、幕府倒壊後の1868年(明治1)には京都で出版されている。・・・
 徂徠の改革案の主眼は、・・・武士や庶民を土地に定着させること(土着論)と、・・・武士と町人・百姓との分限に即した・・・生活水準の規制<等、>諸制度の確立・・・(制度論)とに置かれて<いる。>・・・
 <改革案には、>参勤交代の廃止、・・・貨幣経済の発達抑制<、>・・・銭貨の大量鋳造、人材の登用など<も含まれている。>」
https://kotobank.jp/word/%E6%94%BF%E8%AB%87-86205

 徂徠は、その制度は天=理によるものではなく、「古(いにしえ)の聖人」が制定したものだと考える。
 聖人の作った制度は確かに普遍性な実用性があり、有効性が大きい。
 しかし、天=理の必然性を持つわけではないから、天皇の存在よりも根底的というわけではない。
 天皇論は棚上げして論外に置き、あくまでも実際問題として武家の支配する社会の安定した制度の確立を目指すことができる。<(注194)>

 (注194)「「道」とは、先王(古代<支那>の帝王)が天下を治めるために作為した・・・客観的な物である・・・「礼楽刑政」すなわち政治制度のことであるとし、道徳よりも政治の方法に重点を置く独自の思想を主張し・・・このような・・・道になにゆえ従わなくてはならないかを明らかにする方法として,制度文物とおのおのの時代状況との連関を問う古文辞学<を>位置づけ<た>。・・・
 <このように、>道とは・・・道徳にはかかわらないと説いたため,人の内面は完全に儒学の拘束から解放されることになった。」
https://kotobank.jp/word/%E8%8D%BB%E7%94%9F%E5%BE%82%E5%BE%A0-17726 前掲
 「この<結果、>経世思想(経世論)が本格的に生まれてくる。・・・『経済録』を遺した弟子の太宰春台や、孫弟子の海保青陵は市場経済を消/積極的に肯定する経世論を展開した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%BB%E7%94%9F%E5%BE%82%E5%BE%A0 前掲

⇒荻生徂徠については、中断されている「丸山眞男『日本政治思想史研究』を読む」シリーズを再開した時にでもより詳細に取り上げるとして、今、直感的に私見を申し上げれば、封建制は「古の聖人」の「道」であるがゆえにその制度に回帰すべきだ、と徂徠は主張し、将軍を王だとすれば、支那の封建制において、王より上位の存在はなかったので、天皇の位置付けは棚上げせざるをえなかった、ということではないでしょうか。(太田)

 それでは、その具体策はどうなるのであろうか。
 その基本は上下の秩序を明確にすることであり、また農を中心として、武士もまた領地に戻り地域に密着すべきだという。
 ただ、上下の秩序に関して大きな問題点を指摘する。
 官位は<形の上にせよ(太田)>朝廷から受けるもので、その点では将軍も諸侯も同等になってしまう。
 だから、世も末になって将軍の武威が衰えれば、朝廷のほうが本当の主人だと考える人も出るかもしれない。
 それゆえ、武家独自の官位秩序を作るべきだと指摘する。

⇒支那の封建制においては官位制はなかったので、論理的には、徂徠は、むしろ、官位制の廃止を主張するのが筋でした。
 なお、日本の官位制とは一体何なのか、についての徂徠の考えを聞いてみたいところです。
 私見については、27日に公開する、次回の東京オフ会「講演」原稿でお示ししますが・・。(太田)

 結局、それは実現できず、徂徠の不安は的中することになった。」(131~132)

(続く)