太田述正コラム#11408(2020.7.13)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第二章以下』を読む(その2)>(2020.10.4公開)

 「この期も保元の乱<(注4)>(1156年)を境に前後二段階に分ける方がよいだろう。

 (注4)「鳥羽法皇と崇徳上皇とは皇位継承をめぐって対立していたが,1155年後白河天皇が即位すると上皇の不満は高まった。また摂関家では藤原忠通・頼長の兄弟が関白・氏長者(うじのちょうじゃ)を争っていた。1156年(保元1年)法皇が死ぬと,上皇は頼長と結んで源為義・為朝・平忠正らの武士を招き,後白河天皇,関白忠通を討とうとした。天皇方は為義の<長>子源義朝,忠正の甥平清盛らの兵をもって上皇方を破り,上皇は讃岐に配流,頼長は戦<傷>死,為義<・忠正>らは斬られた。・・・
 藤原忠通の子の僧慈円<は、>《愚管抄》に〈鳥羽院ウセサセ給ヒテ後,日本国ノ乱逆ト云コトハヲコリテ後,ムサ(武者)ノ世ニナリニケル也〉と記し<ている。>・・・
 源為朝<は、>・・・九州中を掠領し,訴えられたが朝廷の召喚にも応じなかったため,1154年・・・父為義が解官(げかん)された。やむなく上洛したところ56年・・・7月保元の乱が起こり,為朝は父為義に従って崇徳上皇方として参戦した。軍評定(いくさひようじよう)で夜襲を献策したが藤原頼長に退けられ,逆に義朝の献策をいれた後白河天皇方に夜討をかけられた。」
https://kotobank.jp/word/%E4%BF%9D%E5%85%83%E3%81%AE%E4%B9%B1-131933

 第一段階では、軍事貴族は、もっぱら王家や摂関家の手足として使役され、まだ十分な自立性を持たなかった。

⇒「手足」とか「自立」といった表現は適切ではなく、源平藤原姓の武家達は、天皇家(王家と摂関家)との間で身内意識を互いに抱き続けていた、と、私は見ています。
 なお、保元の乱の際、どちら方でも源氏の武者が軍略の中心的役割を果たしていたことに、同席していたはずの平氏の武者達との比較の観点から、注目すべきだと思います。(太田)

 たとえば、白河院は下北面<(注5)>(げほくめん)に大小の武士を登用した(中下級貴族の上(じょう)北面にたいし五位・六位の侍を下北面という。北面の武士、院の親衛軍)。

 (注5)「北面の武士<は、>・・・白河院政開始後ほどなく創設され,はじめのうちは〈御寵童〉なども含んでいた。諸大夫以上を上(しよう)北面,五,六位の譜代の侍を下(げ)北面と呼ぶ。下北面は白河院死去のときに合わせて80余人に及んでいたが,そのなかには武士が多くとりこまれていた。」
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%8B%E5%8C%97%E9%9D%A2-466100

 それを立身の契機としたのが、伊勢平氏の正盛<(注6)>(まさもり)である。

 (注6)?~1121年。「反乱を起こした源義親を討つ命令が父親の源義家に下るが、義家が死去したため、その後継者である義忠に義親討伐の命令が下る。しかし義忠は兄を討てないと躊躇したため、義忠の舅である正盛が代わりに討伐に向かい、・・・1108年・・・に乱を鎮圧したとの知らせがもたらされた。・・・白河上皇の院政に伊賀の所領を寄進するなどして・・・白河法皇のお気に入り<になっていたと思われ、既に>・・・検非違使・追捕使として諸国の盗賊を討伐するなどして活動し<ていた、北面の武士たる正盛は、>・・・<この新たな>功績<もあ>り但馬守に叙任。後、・・・丹後守、・・・備前守を勤めた。ただし、義親の討伐において、実際に義親を討つことに成功したのかは不明であり、・・・当時も勇猛な義親をそれほど武に優れているとは認知されていなかった正盛が討ったのかについて、疑問があった<。>・・・
 源義忠に息女を娶わせるなど、先行の軍事貴族である河内源氏とも連携を図り、義忠は<正盛の子の>忠盛の烏帽子親とな<り、>義忠死後に河内源氏が衰退するのと入れ替わるように、伊勢平氏は源氏の与党を従わせつつ勢力を伸ばしていった。・・・
 平氏は正盛の子、忠盛<は、そ>の時代に飛躍的に勢力を拡大し全盛期を現出させる。その地盤固めをしたのが正盛の時代であり、平氏興隆の基礎を築いた人物と評価され<てい>る。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%AD%A3%E7%9B%9B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E7%9B%9B([]内)

⇒「平氏興隆の基礎を築いた」正盛は、武功はないが財力を用いたゴマスリ、と、フェイク功績を騙ること、に長けていた、というわけです。(太田)

 その子忠盛<(注7)>は貴族社会にふさわしい洗練と経済的貢献によって、院の眼鏡にかなった。

 (注7)1096~1153年。「[<北面の武士たる平忠盛は、鳥羽上皇の>院庁に・・・進出して院領荘園の支配にも腕を振るい、九州の神崎荘(かんざきのしょう)(佐賀県神埼(かんざき)市)で日宋貿易を行ったりした。そうした経済力を背景に、]1132年・・・、上皇勅願の観音堂である得長寿院・・・を寄進する。その功績により内昇殿を許可された。・・・内昇殿は武士では摂関期の源頼光の例があるものの、この当時では破格の待遇だった。・・・
 1135年・・・4月・・・西海の海賊追討について忠盛と源為義のどちらが適当か議論となったが、備前守を務めた経験を買われ、「西海に有勢の聞こえあり」という理由で忠盛が追討使に任じられる・・・。8月には日高禅師を首領とする70名の海賊を連行して京に凱旋した。もっともその多くは忠盛の家人でない者を賊に仕立てていたという・・・
 歌人としても知られ、家集『平忠盛集』がある。・・・
 忠盛は公卿昇進を目前としながら58歳で死去する。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E7%9B%9B (上掲)
https://kotobank.jp/word/%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E7%9B%9B-92222 ([]内)

⇒忠盛は、父正盛同様、武功はないが財力を用いたゴマスリとフェイク功績を騙ることに長けていた上、貴族的教養をひけらかすこともでき、伊勢平氏の地位は確固たるものになった、というわけです。
 伊勢平氏は、正盛、忠盛だけを見ても、河内源氏と姻族関係にあるところ、それにも関わらず、一族の気風が、単純に言えば、前者が「文」、後者が「武」、と全く異なっていたことは面白いですね。(太田)

 彼は12世紀前半、白河院の晩年から鳥羽院政期にかけて、北面の武士全体を差配・統括するリーダーの地位を占めた。」(66)

(続く)