太田述正コラム#11872006.4.16

<ユダの福音書(続)(その2)>

 (以上の問題に関心ある方は、http://www.slate.com/id/2139781/(4月14日アクセス)も参照されたい。)

3 キリスト教の多様性についてどう見るか

 ユダの福音書発表を契機に、プロテスタント系の一部信徒の間から、初期のキリスト教がこれほど多様であったのだとすれば、現在のキリスト教の多様性は当然で自然なことだと考えるべきだという議論が出てきています。

 これに対しては、初期のキリスト教においても、ユダの福音書は、異端の書としての位置づけであったのであり、この福音書の存在をもって初期のキリスト教の多様性の表れであると解するのは誤りだ、という反論が投げかけられています。

 (以上、http://www.csmonitor.com/2006/0414/p01s02-lire.html(4月14日アクセス)による。)

 そこへ、カトリック教会の総元締めである法王ベネディクト16世の断が下ります

 法王は、ユダの名誉回復をすべきだとする議論に釘を刺す、以下のような説教を行いました。

  「<ユダは強欲な嘘つきであり、>彼はイエスを権力(注2)と成功の観点からのみ評価した。彼にとっては、権力と成功が全てなのであって、愛などどうでもよかったのだ。・・カネ(注3)が、イエスとの精神的なつながり(communion)よりも、そして神や神の愛よりも大事だったのだ。・・<この謀反人たる13人目の使徒の嘘は、彼に惨めな下降をもたらしたのであって、>彼は頑なになり、放蕩息子のままついに回心することなく、破綻した生活に身を持ち崩した。」

(注2)法王が「権力」に言及したのは、ユダも、イエスに付き従った他の多くの人々同様、イエスがユダヤ人の君主としてローマの支配からユダヤ人を解放してくれると期待していた、という最近の神学者の説を踏まえたものであると考えられている。

(注3)ユダが、30片の銀と引き替えにイエスを官憲に引き渡したことを指している。

このようなベネディクト16世のユダ観は、「権力」への言及に若干の目新しさはあるものの、前任者のヨハネパウロ2世が、1994年に出版された著書でユダに若干なりとも希望の芽を見出しているのに比べても、これまでのカトリック教会のユダ観の中では最も厳しいものだ、という声が挙がっています(注4)。

(以上、特に断っていない限りhttp://www.guardian.co.uk/pope/story/0,,1754385,00.html(4月15日アクセス)による。)

 (注4)ちなみに、カトリック教会が、ユダヤ人をイエス殺害の罪から無罪放免したのは、今から30年ほど前の1975年だった(スレート前掲)。

4 感想

 ユダヤ教が、人類史において初めて出現した非寛容イデオロギーであるとすれば、キリスト教のユダヤ教からの分離・誕生は、人類最初の、非寛容イデオロギー集団の内ゲバであったと見ることができます。

 この内ゲバは、圧倒的に優位に立ったキリスト教徒によるユダヤ教徒への陰湿な虐めへと変質し、その行き着いたところが、20世紀のユダヤ人ホロコーストです。

 私は、ユダの福音書発表が、遅ればせながらも、キリスト教が寛容イデオロギーへの脱皮を果たす契機となることを願って止みません。

 このような観点からは、ベネディクト16世の頑なな姿勢は残念と言うほかはありません。

(完)