太田述正コラム#11476(2020.8.16)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第二章以下』を読む(その35)>(2020.11.7公開)

 「・・・八代将軍吉宗は、紀州藩主の時から率先武芸に励んでいたが、将軍になるといっそう奨励に拍車がかかる。<(注101)>・・・

 (注101)「一六三八<年>の島原の乱からおよそ百年を経た吉宗期、戦乱から程遠い太平の世にあって武士は次第にその戦闘能力を失いつつあった。その様な時代にあって<吉宗によって>武芸が奨励されたということは、幕末に至るまで武士から「尚武」の気風が失われなかったこと、また実際の軍事的技量が維持・発展させられこと、また実際の軍事的技量が維持・発展させられたことの要因をなしている。そして、その歴史的意義として、19世紀の国際情勢の下、アジアの諸国が相次いで欧米列強の植民地となっていくなかで、国家の独立を堅持し、軍事の面における日本の近代化を達成していくうえにおいて大きな意義を担うことになった」(横山輝樹(てるき)「江戸幕府武芸奨励策の研究 : 画期としての徳川吉宗」の注記・抄録より)
https://ci.nii.ac.jp/naid/500000581817/
 「<吉宗の武芸奨励は、>武芸上覧に代表される模擬的・仮想的武芸と、狩猟に代表される実地的・実践的武芸という二本柱によって成り立っていた。」(横山輝樹「徳川吉宗治世下に於ける江戸幕府武芸奨励策について」より)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/budo1968/40/Supplement/40_2/_article/-char/ja/
 横山輝樹(1980年~)は、総合研究大学院博士。近鉄文化サロン上本町講座講師、伊賀市歴史研究会臨時職員
https://www.hmv.co.jp/artist_%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E8%BC%9D%E6%A8%B9_000000000720125/biography/

 その後も武芸の奨励はたびたびくり返されているが、馬に乗れない武士はますます増えた。・・・

⇒吉宗の将軍時代は1745年までですが、大御所になった彼が亡くなったのは1751年です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%90%89%E5%AE%97
 ところが、1790年には昌平坂学問所が設立され、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8C%E5%B9%B3%E5%9D%82%E5%AD%A6%E5%95%8F%E6%89%80
幕臣を主対象として文官教育がなされ始める(コラム#省略)ことで、幕府においては、吉宗の武芸奨励政策は継承されないことがはっきりしたわけであり、「その後も・・・馬に乗れない武士はますます増えた」としている点で、高橋が正しく、横山の認識は誤りです。(太田)

 それが、18世紀末以降になると、幕府や藩の改革の必要で、家業の世襲から能力本位の人材登用へと流れが変わり、改めて武が見直され、試合剣術が流行、堂上での剣術稽古が盛んになってゆく。

⇒「幕府や藩の改革の必要で、家業の世襲から能力本位の人材登用へと流れが変わ<った>」のが事実かどうか疑問ですし、いずれにせよ、最低限の典拠を高橋に付けて欲しかったところです。
 また、仮にそうだったとしても、どうして、それが「武が見直され、試合剣術が流行、堂上での剣術稽古が盛んになってゆく」ことにつながったのかについての説明、と、その最低限の典拠を付けることも必要でした。
 横山の表現を借りれば、「国家の独立を堅持し、軍事の面における日本の近代化を達成していくうえにおいて大きな意義を担うことになった」のは、幕府(の昌平坂学問所)ではなく、藩内で封建制的統治を続けていた薩摩藩(コラム#省略)や、文武両道教育・・但し、武には武芸だけでなく兵学が含まれていた・・を行ったところの、外様系を中心とする諸藩(の藩校群)だった(コラム#省略)、というのが、私の見解なのですからね。
 なお、高橋の言う「武芸」、や、横山の言う「軍事的技量」、の中には、兵学が含まれていないように思われるところ、この点でも両者に大いに物足らなさを覚えます。(太田)

 <すなわち、>それまでの・・・世襲の家禄を有する「士」<たる>・・・武士の・・・弓・馬・槍・剣の・・・四芸<(注102)>としての剣術(形稽古(かたげいこ)と心の修養を重視)とは異なる<ところの>、対人で自由乱打に打ち合う形式の撃剣<(注103)>(げきけん)流派(鍛錬性と試合の実技を重視)の形成である。

 (注102)一般には、「四種類の芸。琴、囲碁、書、絵画の称。」
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%9B%E8%8A%B8-1329647
 「近世初頭の『甲陽軍鑑』や『清正記(せいしょうき)』<で>は、馬、兵法(ひょうほう)(剣)、弓、鉄砲の四つをあげ<て>、武芸四門とよんでいる。このうち鉄砲は幕府の統制強化のため後退を余儀なくされ、ついで中期には、武士のたしなみとして弓・馬・剣・槍(やり)の四つが重視され、これに柔・砲・兵学を加えて七芸と称したり<した。>」
https://kotobank.jp/word/%E6%AD%A6%E8%8A%B8-617688
 「室町時代から戦国時代にかけて<も、>・・・あくまでも剣術は、戦場での総合的な戦闘技術である「兵法」の一種であった。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%A3%E8%A1%93
 (注103)「剣道<に関しては、>・・・平安時代から鎌倉時代ころは〈太刀打(たちうち)〉,室町時代後期から江戸時代初期にかけては〈兵法(ひようほう)〉<という名称>が多く用いられたが,江戸時代は〈剣術〉が最も多く,ほかに〈剣法〉〈刀法〉〈剣技〉などの名称も用いられた。明治時代は〈撃剣(げつけん)〉が多く用いられるようになる。大正時代になって〈撃剣〉から〈剣道〉が中心になり,昭和に入ってからは〈剣道〉以外の名称はほとんど用いられなくなった。」
https://kotobank.jp/word/%E6%92%83%E5%89%A3-489665

⇒高橋のような「四芸」や「撃剣」の用法は、江戸時代において、一般的ではなかったようですが・・。(太田)

 これは足軽同心らが担い手となって村落で盛んにおこなわれていた武術が四芸の剣術に波及し、それを巻き込み活性化させたものであった。」(152~154)

⇒残念ながら、このことを裏づけるものを、ネット上で見つけることができませんでした。
 なお、その過程で発見したのが「注104」ですが、改めて、薩摩藩のユニークさについて考えさせられました。(太田)

 (注104)「室町時代から戦国時代にかけて・・・甲冑を装着した武者同士の太刀による戦闘方法は、当然、巨人がただ太刀を振り回せばよいものとは異なり、介者剣術(もしくは介者剣法)と呼ばれ、深く腰を落とした姿勢から目・首・脇の下・金的・内腿・手首といった、鎧の隙間となっている部位を狙うような戦法であった<が、>・・・袈裟(鎖骨・頚動脈)に斬り込むことが主流であったともいわれて<おり>、示現流やその流れを組む剣術(薬丸自顕流等)を習得した薩摩藩士の戦いぶりにおいて、その斬殺死体のほとんどが袈裟斬りを受けて即死に至っていたともいわれる。・・・
 江戸時代<、>・・・死傷者の生じる木刀での立ち合い(試合)は幕府によって禁止され、約束動作の形稽古が中心となり、のちに竹刀と防具が発明され、安全性を確保しながら技を試し合うようになった。・・・いわゆる「撃剣」である。剣術史上のエポックといえる開発であったが、その得失について賛否両論があった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%A3%E8%A1%93 前掲

(続く)