太田述正コラム#11546(2020.9.20)
<大津透『律令国家と隋唐文明』を読む(その17)>(2020.12.13公開)

 「調として納めるアワビ・カツヲ・ワカメなどは、いずれも干鮑や鰹節などのように乾して加工して長期保存できるようになっている。
 都へ運び税として中央で消費されるための必要な技術である。
 一方で贄<(注49)>(にえ)といって、新鮮な海産物を含め、天皇の食事用に献上する制度もあるが、アワビもワカメも両者に共通し、本来は重なり合っていた制度である。

 (注49)「神などに供える神饌(しんせん)をさす場合と、天皇の食膳に供されるために諸国から調進される食物をさす場合がある。制度上では後者が重要である。贄の制度は『古事記』『風土記(ふどき)』の伝承のなかに記されており、律令制度が導入される以前、大和朝廷の時代からあった日本独自の制度といわれ、征服された人々が征服者に食物を貢進する服属儀礼の一種と考えられている。律令制度が整備されてゆくと、古い「贄」の制度は再編され、一部は調となり残りは贄となったが、租・庸・調などと異なり、令の規定外の制度として存続した。律令制下で贄の制度が残された理由については、調に含めにくいもの、たとえば生鮮食品が残ったという説と、服属儀礼が伝統として、もしくは積極的に支配装置として残ったという説がある。『延喜式』の規定によると、贄には「年料」の贄、節句の宴にあてる「節料(せちりょう)」の贄、10日ごとに貢進する「旬料(しゅんりょう)」の贄があり、木簡では、月ごとに貢進される「月料」の贄が確認される。その内容は魚貝類、海藻を中心に動物の肉、果物があり、生鮮食品のみとはいえないが、贄の本質は即応性、季節性にあったとみられる。また、律令に規定されなかったのは、律令を超越した天皇の食物であったためという。そのため収納事務には、大蔵省は関与せず、宮内省が検領の事務にあずかり、収納場所も内膳司(大膳職)ないし、内裏の贄殿(にえどの)というように天皇家の家産的色彩を強く帯びていた。荷札としての贄木簡には国・郡・郷名まで記載し、個人名は記していないのが普通で、記す場合も「海部(あまべ)」の集団名が記されており、特定の集団を対象とした制度とみられ、その集団の成員は贄人(にえひと)と称し、平安後期には特権的集団として活動した。やがて贄の制度は消滅するが、中世においても江人(えひと)、網曳(あみひき)、鵜飼(うかい)など(供御人(くごにん))、天皇に結び付く集団が存在した。」
https://kotobank.jp/word/%E8%B4%84-590985

 贄は、生贄というように本来は神に捧げるもので、それが天皇への献上仏になった。
 調という税制もまた、神そして天皇への供え物という宗教的性格をもつのが、日本古代の特色である。・・・
 <次に租(注50)だが、>田租は、唐の租と異なり、正丁でなく、班田額に応じて賦課される。・・・

 (注50)「租は、田1段につき2束2把とされ、これは収穫量の3%~10%に当たった。原則として9月中旬から11月30日までに国へ納入され、災害時用の備蓄米(不動穀)を差し引いた残りが国衙の主要財源とされた。しかし、歳入としては極めて不安定であったため、律令施行よりまもなく、これを種籾として百姓に貸し付けた(出挙)利子を主要財源とするようになった。一部は舂米(臼で搗いて脱穀した米)として、1月から8月30日までの間に、京へ運上された(年料舂米)。
 また、戸ごとに五分以上の減収があった場合には租が全免される規定(賦役令水旱虫霜条)があり、そこまでの被害が無い場合でも「半輸」と呼ばれる比例免の措置が取られるケースがあったが、当時の農業技術では、全免・比例免を避けることは困難であった。そこで、1つの令制国内において定められた租の総額に対して7割の租収入を確保することを目標として定めた「不三得七法」と呼ばれる規定が導入されたが、これを達成することも困難であったため、大同元年(806年)に旧例として原則化されるまでしばしば数字の変更が行われた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%9F%E5%BA%B8%E8%AA%BF

 田令1田長条で田積を定めるが、そこに付けたりの形で規定される。
 ・・・<いわゆる>二束(そく)二把(わ)(不成斤)規定はすぐに一束五把(成斤、度量衡の改定により実質は同じ)に戻るが、もともと稲一束とれる土地を一代(シロ)とする原始的な田積法があり、「熱田百代租稲三束」だったことを継承している(100代=二段なので段租は一束五把である)。
 これは「令前租法」と呼ばれているので、大宝令以前から(おそらく浄御原令で)すでに田租(タチカラ)が成立していたらしい。
 田地に賦課され収穫の3パーセントと税率がきわめて低くその後も変更されず、独立した条文で規定しないことなど、租は律令国家にとっていわゆる租税と認められなかったという指摘がある。
 その田地でとれた収穫の初穂を神に捧げる初穂貢納に起源をもつためで、宗教的な意味をもっていたと考えられている。・・・」(88~89)

⇒3パーセント(と「注49」内の10%)、及び、一束五把ないし二束二把との関係がよく分からないのですが、大津は3パーセントと書いているので、それが正しいとすると、確かに税としては低過ぎて、これまた、大津が書いているように、「宗教的な意味をも」つ「初穂」的なものであったと考えざるをえませんし、そうである以上、日本の律令における租は、大津が書いているように浄御原令からなんてことではなく、それより更にずっと遡った時代に起源を持つと見るべきではないでしょうか。(太田)

(続く)