太田述正コラム#11562(2020.9.28)
<大津透『律令国家と隋唐文明』を読む(その23)>(2020.12.21公開)

 「・・・唐令には、官人本人やその親族が工商を家業とする場合は出仕できないと規定がある・・・。
 しかし養老選叙令に対応する条文はなく削除された。
 唐と異なり、古代日本では「工」=技術者は官僚制にくみこまれている。・・・

 (注70)「<支那>では伝統的に土地に基づかず利の集中をはかる「商・工」よりも土地に根ざし穀物を生み出す「農」が重視されてきた。商人や職人に自由に利潤追求を許せば、その経済力によって支配階級が脅かされ、農民が重労働である農業を嫌って商工に転身する事により穀物の生産が減少して飢饉が発生し、ひいては社会秩序が崩壊すると考えたのである。これを理論化したのが、孔子の儒教である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AB%E8%BE%B2%E5%B7%A5%E5%95%86

⇒「注70」には直接の典拠が付されていませんが、もっともらしいですね。
 儒教は、「士」と「農工商」とを、そして更に、「士農」と「工商」とを、差別したところの、徹頭徹尾、差別のイデオロギー以外の何物でもない、と、私は思っています。(太田)

 養老戸令16没落外蕃条は、外国に没落した者が帰還した時と、外国人が帰化した時の奏上や、どこの戸籍に付すかなどの規定である。・・・
 この内容は唐令・・・とほとんど同じである。
 しかし大宝令には文末に「もし才伎有らば、奏聞して勅を聴け」という注文があったことが・・・知られる。
 これは帰化人のなかに特殊な技術をもっている人がいたら天皇に奏上して勅の処分を待てという日本独自の規定である。・・・
 この注文は、養老令編纂にあたり削除された。・・・
 律令国家の体面と矛盾するとして削除されたのだろう。・・・

⇒日本の律令は養老律令に至って不磨の大典になった(コラム#省略)ところ、それまでの間には若干の諸修正が施されることはあったということでしょうが、養老律令下でどんどん令外官ができていったように、およそ律令なるものに規範性があったとは思えない以上、「もし才伎有らば、奏聞して勅を聴け」という運用が引き続きなされたであろうことは容易に想像がつく、というものです。(太田)

 堀敏一<(注71)>氏は、日本への帰化人(渡来人)の流入は、魏晋南北朝期の大規模な民族移動・流民の一環と考えるべきで、日本における帰化人の役割は、胡族政権下での流民知識人の政治的役割や、農民手工業者の生産技術提供と似た面があると指摘している。

 (注71)ほりとしかず(1924~2007年)は、東大文(東洋史)卒、同大東洋文化研究所助手、東洋文庫研究員、明大文専任講師、教授。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E6%95%8F%E4%B8%80

 民族移動についていえば、五胡十六国といわれ、歴史を騒がせた中原に流入した異民族、胡族はどこへ消えてしまったのか。
 それはみな漢族になってしまったのである。
 こうした民族融合が、唐代より以前の東アジア世界の特色であり、宋代以降の征服王朝の時代(遼・金・元・清)と大きく異なっている。

⇒大津が誰の説に拠っているのか知りませんが、私見では、「唐代より以前<の>・・・五胡十六国<の時代>」も「寮・金・清・・・の時代」も同じ、漢人と胡人・・私の言うところの、騎馬遊牧民・・の融合であって、漢人文明ならぬ、中華文明(コラム#11557)の時代である点で同じです。
 唯一違うのが元の時代であって、モンゴル人は漢人と融合はしなかった、と。(太田)

 関晃氏は名著『帰化人』において、60年以上前に、「帰化人は我々の祖先なのである」「彼らのした仕事は、日本人のためにした仕事ではなくて、日本人がしたことなのである」と述べている。
 この言葉をかみしめるべきであろう。」(116~118、120~121)

⇒漢人文明は、胡人の流入により滅亡し、中華文明が生まれたのに対し、日本の場合は、プロト日本文明(コラム#11557)が弥生人が縄文人と融合して生まれたていたところ、爾後の帰化人の流入は、このプロト日本文明を変容させることはなかった、というのが私の見方です。(太田)

(続く)