太田述正コラム#11566(2020.9.30)
<大津透『律令国家と隋唐文明』を読む(その24)>(2020.12.23公開)

 「・・・先に触れた<ように、>・・・日本では文書行政といっても案巻処理は行なわれず、主典が文書を読み上げて、それを長官以下判官以上が口頭で決裁をした。
 つまりこれは、文書を直接扱って、文字を読むのは主典だけであるということで、判官以上は口頭で聴くだけで、文書にさわらないのである。
 かつて文書を書き記し、読むことができたのが帰化人の史部<(注72)>であり、マヘツキミ<(前出)>は読み上げをきいて、口頭で決裁していたというあり方があり、それが律令制では主典はもはや帰化人だけに限らなくなったのであるが、なお政務の方式は伝統として続いたように思われる(大隈清陽<(注73)>氏の教示をうけた)。・・・」(126)

 (注72)ふびとべ。「古代の部(べ)の一種。朝廷において文筆にかかわる職務に携わったトモの集団である。ほとんどが大陸や半島よりの渡来人の系譜をひくものとみられる。一般の部とは異なり、姓(かばね)「史」を賜り称している。「東西史部(やまとかわちのふひとべ)」と称せられるように、大和(奈良県)に本拠を置く倭漢直(やまとのあやのあたい)氏一族の文直(ふみのあたえ)氏と、河内(大阪府)に本拠を置く西文首(かわちのふみのおびと)氏が二大勢力を構成していた。ところが6世紀以降、新たに渡来した王辰爾(おうしんに)の後裔を称する船史(ふなのふひと)、津(つ)史、白猪(しらい)史の諸氏が勢力を伸ばし、西文首氏に同化、しだいに史部を独占するに至った。」
https://kotobank.jp/word/%E5%8F%B2%E9%83%A8-620106
 (注73)きよはる。山梨大助教授、准教授、教授。
https://nrid.nii.ac.jp/ja/nrid/1000080252378/
 「河合隼雄<(コラム#629、3979、4413、5377、11209)>氏は一九八二年に発表した『中空構造日本の深層』(中央公論社)で、日本の天皇は第一人者ではあるが権力者ではなく、その周囲にある者が中心を擁して戦ってきたと説明した。おなじ事実を中村哲氏は、虚政つまり天皇は君臨すれども統治せず、実際の政治権力は天皇家以外の家系がにぎってきたといい(『宇宙神話と君主権力の起源』法政大学出版局、二〇〇一年)、大隈清陽氏は、天皇制永続の原理を、日本の古代社会の基層にあった呪術性や神話的特性にもとめた(「君臣秩序と儀礼」『日本の歴史8 古代天皇制を考える』講談社、二〇〇一年)。
 中空、虚政、呪術性、神話的特性と、ことばはちがっても、内容には共通性がある。王権の中枢に位置する天皇家は、祭祀や信仰をになう主体であって、実際の政治の権限は、周辺の政治・官僚機構がになっていたという指摘である。・・・
 王権の空白性、空洞性とむすびついて、外側にあった存在が、王権をその存在や歴史の拠り所にしてきた。外側の第一のグループは、貴族、官僚、公民など、第二のグループは、被差別民、渡来人、芸能人、職人、遊女など、さらにこれらと関りをもちながら、独自の存在領域を確保していた放浪の民などである。・・・
 網野善彦氏は、・・・おおよそつぎのように解説した(網野義彦・上野千鶴子・宮田登『日本王権論』春秋社、一九八八年)。
 「古代以後、日本の天皇をささえてきた一本の柱は、一般の公民であり、彼らがおさめる調や庸によって律令国家がささえられた。もう一本の柱の非農業民は贄をおさめることによって天皇をささえた。」
http://suwaharuo.livedoor.blog/archives/4407756.html
 中村哲(あきら。1912~2003年)。東大法卒、台北帝大助教授、教授、法政大法学部教授、法学部長、常務理事、総長、参院議員(日本社会党)。「戦時中は「日本の国家はいかなる理想目標に向って進むべきであるのか。その内在的な理念が明らかにされなくてはならない。それは日本の国体がつねに宣明し来った一君万民の統治を実現することであって、聖徳太子の十七条憲法のいうように『君云いて臣承り上行えば下靡く』政治を実現すべきであって、これこそ日本の国体の根本理念にもとづく政治力の結集である」(昭和十六年九月『日本評論』誌掲載「政治力の条件」)という文章や、「八紘一宇の東亜政治の理想をその内在的な理念とする戦争論が樹立されねばならない」(昭和十七年二月『改造』誌掲載「民族戦争と強力政治」)という文章を書いていたにも関わらず、戦後左派の論客となった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E5%93%B2_(%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%AD%A6%E8%80%85)

⇒既に記した私の「仮説の仮説」的なものを、この際、少々敷衍しておきますが、「漢字(かんじ)は、<支那>古代の黄河文明で発祥した表語文字<であって、>・・・文字として使用できる漢字ができあがったのは紀元前1300年ごろのことだと考えられる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E5%AD%97
ところ、弥生時代の始まりは紀元前1000年頃であると考えられており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%99%82%E4%BB%A3
この時点で日本列島に渡来した弥生人は華南(江南)出身でもあり、文字を持たないまま、縄文人をエージェンシー関係の重層構造的に「統治」することとなったのではないか、と、私は想像しているのです。
 それまで、縄文人は、無政府状態で生きてきていて、初めて統治・・但し、弥生人が縄文人に感化されたところの人間主義的統治!・・を経験させられることになったけれど、稲作技術を引っ提げて渡来した弥生人を歓迎し、この技術を教えてもらった感謝の意を弥生人に贄を捧げる形で現わし、これが習いとなった、とも。
 で、後に、漢字を身に着けた帰化人が渡来してきた時以降には、日本列島において、文書も用いる統治が始まったけれど、統治の基本に係る部分については、爾後も文字を介さない、口頭、口伝による統治が続いた、と。
 その上で、私が何が言いたいかというと、古代日本の税は全て贄的なものであり続けたのではないか、そして、その後日本列島では初めて戦争のようなものが頻発する時期を経て、天皇家による中部以西の日本列島の一元的統治が確立してからも、天皇のみならず、天皇を含む統治者達の総体が、被治者達に対して、引き続き比較的には人間主義的な統治を続けたところ、その統治は、傍から見れば、「中空、虚政、呪術性、神話的特性」的なもの、より端的に言えば無政府主義的なもの、として映り続けたのではないか、ということです。
 なお、天皇家(広義の天皇家である藤原氏や武家の棟梁家を含む)に係る、権威と権力の分離の生起は、このような人間主義的統治という背景がなければあり得なかったことは確かではあるけれど、この両者はあくまで別のことなのではないでしょうか。(太田)

(続く)