太田述正コラム#11712(2020.12.12)
<福嶋亮大の日本文化論(その1)>(2021.3.6公開)

1 始めに

 福嶋亮大「受容と階層–日本文化論への一視角」(學士會会報No945(2020-VI)、PP49~52)のさわりをご紹介し、私のコメントを付します。
 実は、連載を終えたばかりの前コラムシリーズで取り上げた本の著者の坂井孝一が、その本のあとがきで、「とくに意識したのが、・・・政治面・軍事面だけではなく文化面にも目を配ることであった。」(261)と記しているのですが、全然同シリーズ中では文化面に触れませんでしたよね。
 その理由は、文化面を取り上げた部分が本全体の流れの中にうまく位置づけられておらず、また、それ自体としても啓発的な中身がなかったからです。
 そんなところへ、福嶋の論考に接し、その論考が、坂井の本が取り扱った時代の文化の特徴、意義を、折口信夫を引用して、坂井よりは啓発的なことを書いていたので、ご紹介する気持ちになった次第です。
 なお、福嶋(1981~)は、京大文(中国文学)卒、同大博士(文学)、立教大文助教、サントリー学芸賞、やまなし文学賞、早稲田大坪内逍遥奨励賞受賞。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B6%8B%E4%BA%AE%E5%A4%A7
という人物です。

2 福嶋亮大の日本文化論

 「・・・丸山眞男のように、日本が伝統との対決を経ないまま外国の諸思想をつまみ食いし、あいまいに「雑居」させてきたことを批判する近代主義者にせよ、・・・岡倉天心のように、極東の日本がアジアの諸文明を「博物館」のように蓄えてきたことを評価するロマン主義者にせよ、日本は海外のものを無節操に受け入れてしまう国だと考えたことに違いはない。
 この二つの見方をさしあたり、日本=雑居ビル論および日本=アーカイヴ論と呼んでおこう。・・・
 私から見ると、ともに一つの基本的な問いを軽んじていたように思える。
 それは、いったい日本の誰が外来文化を受容したのかという問いである。・・・
 本家の中国では、漢詩や漢文の作者はもっぱら男性の士大夫によって占められてきた。・・・
 そして、・・・この「士」という階層はおおむね儒教的な価値観の担い手でもあった。
 それに対して、・・・日本の漢文学の歴史は、仏教徒の知識人なしには考えられない。
 加えて、漢文学の教養は男性のエリート以外にも共有されており、そのことが「物語」の母胎となった。
 例えば、紫式部は『史記』をはじめとする漢籍の影響のもとで、長大な『源氏物語』を構成した。・・・
 事実を尊重する伝統中国の基準から言えば、フィクションの成分の多い『源氏物語』や、作者の正体のよく分からない『平家物語』や『太平記』は、せいぜいサブカルチャーにすぎないだろう。・・・
 司馬遷や班固は国家の官僚として公的な史書を執筆したが、紫式部のような物語作家は、政治の中枢にいたわけではない。・・・

⇒司馬遷も班固も「政治の中枢にいたわけではない」し、他方、紫式部だって「政治の中枢」に近い所にいた「役人」ではあったのであり、このくだりは、ちょっとおかしいですね。(太田)

 この担い手の問題に早くから注目していたのが、・・・折口信夫である。
 例えば、折口は「女房文学から隠者文学へ」<(注1)>という有名な論考のなかで、日本文学の文芸顧問としての「女房」と「隠者」について論じている。

 (注1)全文。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/46958_27475.html

 折口の考えでは、だいたい後鳥羽院の時代に、日本文学の主流が平安朝以来の女房文学から隠者文学へと変わる。
 その大きな分岐点があった。
 鴨長明、西行、藤原俊成を三人の代表的な隠者<(注2)>として挙げながら(彼らはみな12世紀の生まれである)、折口は隠者たちによる「連歌・俳諧の発想法」の成立を「日本の精神文明の上の大事件」として高く評価している。・・・

 (注2)「第一義の、原郷世界に至るべく、世俗世界を離脱する人。隠遁者(いんとんじゃ)、遁世者、世捨て人ともいう。人跡まれな山奥や人里離れた海のほとりなど、世俗世界の辺境を漂泊し、そこに隠れ住む人。そのありようは多様であるが、出身からいって3種類に分けられる。
 第一は、官人貴族が出家剃髪した場合。出家剃髪のきっかけは、政治的失脚、老齢、病気、失恋、昇進遅滞の恨みなど、さまざまである。慶滋保胤(よししげのやすたね)や西行、鴨長明、吉田兼好などが知られるが、藤原道長や平清盛、あるいは藤原俊成なども隠遁している。西行らが隠者として知られるのは、隠遁後の歌人あるいは文人としての活躍の華々しさにある。中古の官人貴族にとって、出家剃髪することは理想であった。十全とはいえないにせよ、彼らの大多数は隠者として生涯を終えている。隠遁へのあこがれは、古く『懐風藻』や『古今和歌集』にも色濃く現れている。
 第二は、官僧が隠遁した場合。僧官僧位を捨て、公請(くしょう)を辞し、官寺を離れ、別所や深山の草庵にこもり、あるいは渡守(わたしもり)や乞食(こつじき)に身をやつす。玄賓(げんびん)や増賀(ぞうが)、明遍(みょうへん)などが、『閑居友(かんきょのとも)』『発心集(ほっしんしゅう)』において願わしかるべき隠者として説話化され、一般に知られる。源信や法然、さらには明恵にも、隠者のおもかげがみいだされる。
 第三は、庶民が隠遁した場合。役行者(えんのぎょうじゃ)のような呪術を事とした聖(ひじり)や、遊行女婦(うかれめ)あるいは私度僧(しどそう)など、その源流は古い。中古以後も、高野聖のように官寺の周辺にあって勧進などの雑務に携わりつつ、修行に励む人々は多かった。夢幻能(むげんのう)のワキとしてしばしば登場する「諸国一見(いっけん)の僧」もまたこの隠者である。」(佐藤正英)
https://kotobank.jp/word/%E9%9A%A0%E8%80%85-32893
 慶滋保胤(933年以後~1002年)は、「文章生から大内記兼近江掾となる。・・・若い頃より仏教に対する信仰心が厚く、息子の成人を見届けると、・・・986年・・・に出家して比叡山の横川に住し<、>・・・藤原道長に戒を授けたこともあ<る。>・・・著書『池亭記』は、当時の社会批評と文人貴族の風流を展開し、隠棲文学の祖ともいわれている。また、浄土信仰に傾倒して『日本往生極楽記』を著した。漢詩は『本朝文粋』(ほんちょうもんずい)及び『和漢朗詠集』に、和歌は『拾遺和歌集』(1首)に作品が収載されており、現代まで伝えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E6%BB%8B%E4%BF%9D%E8%83%A4

(続く)