太田述正コラム#11772(2021.1.11)
<亀田俊和『観応の擾乱』を読む(その28)>(2021.4.5公開)

 「一方足利義詮は、父と叔父が講和したにもかかわらず、いまだに丹波国に在籍していた。
 その勢いはなお強大であったとも噂された。・・・
 尊氏が書状を送って説得に努め、ようやく義詮に帰京を決意させた。
 とはいっても、実際に彼が上洛したのはやっと10日になってからである。
 義詮は顕氏を伴って夜に到着し、まず錦小路邸の直義を訪問した。

⇒義詮は、警戒して、一貫して単独では直義に会わないわけです。(太田)

 それから以前と同様、三条殿に居住した。
 こうして見ると、直義に対して、義詮の方が父尊氏よりもはるかに強硬な態度を取っていることがよくわかる。
 義詮の直義に対する反感は、この後も消えることがなかった。
 そしてこれが、観応の擾乱第二幕の大きな要因となっていく。
 義詮が直義を激しく嫌った理由も推測になるが、高師直の件が大きかったのではないかと考える。
 ・・・師直は尊氏の意を承けて義詮を二代将軍にするために奮闘した。
 師直に大変な恩義を感じる義詮が、その師直を殺害した直義に反発を抱いた可能性は十分に存在するだろう。・・・」(118~119)

⇒足利氏は鎌倉時代以降、北条氏と縁戚的に殆ど一心同体だった、と何度も申し上げてきたところですが、母親も正室・・しかもたった一人の妻・・も北条氏ではなかった・・但し、この妻の母親は北条氏であった・・直義、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E5%B7%9D%E8%B2%9E%E9%A0%BC
と、正室だけは北条氏であった尊氏、と、母親が北条氏で、その正室の母親も北条氏であった義詮
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E5%B7%9D%E5%B9%B8%E5%AD%90
と、では、それぞれの、北条氏、ひいては鎌倉、に対する思い入れにおいて大きな差があったこと、すなわち、かかる思い入れ度において、直義<尊氏<義詮、であったこと、が、その背景として大きかったのではないか、というのが私見です。
 尊氏と義詮の間でさえ、この点で違いがあったことは、それぞれが墓所をどこにしたかが、雄弁に物語っています。
 つまり、どちらも京都で亡くなったところの、尊氏の墓所は京都の等持院<(注48)>であるのに対し、義詮の墓所は鎌倉の浄妙寺<(注49)>にあります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E5%B0%8A%E6%B0%8F
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E8%A9%AE

 (注48)尊氏建立とされるが、直義建立説が通説化しつつある。足利氏の菩提寺となり、足利歴代将軍木像が安置されている。(ただし足利義量(第5代将軍)、足利義栄(第14代将軍)の木像はない。)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%89%E6%8C%81%E9%99%A2
 (注49)「足利義兼による・・・1188年・・・の創建と伝えられる。初めは極楽寺という密教(真言宗)の寺院であったが、建長寺開山蘭渓道隆の弟子、月峯了然(げっぽうりょうねん)が住職となってから禅刹に改め、ついで寺名も足利貞氏の法名をとって浄妙寺と称した。・・・
 1199年・・・源頼朝・足利義兼が没し、北条政子は前年作成の荒神・不動を寺門の右の小高いしげみの「本寂堂」に安置したという。<また、>・・・1212年・・・源実朝は足利義氏に命じて造営を加え、母北条政子の白檀の弥陀の立像と新造の釈迦像を安置したという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%A6%99%E5%AF%BA_(%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%B8%82)

 なお、直義の墓所も鎌倉の浄妙寺です
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%9B%B4%E7%BE%A9
が、これは、尊氏に最終的に敗れた直義が、幽閉され、終焉を迎えた場が浄妙寺であった(上掲)、という特殊事情によるものです。
 何が言いたいかというと、足利氏としてのアイデンティティしか持ち合わせていなかった直義に対しては、足利氏と北条氏の二重のアイデンティティを持っていて、とりわけ、自分の母と自分自身の命を助けてくれた北条氏に対して深い恩義と愛着の念を有していた義詮としては、物心がついて以来、生理的に相いれない部分があったのではないか、ということです。
 ちなみに、義詮の同母弟の足利基氏・・その正室の母親は不詳・・は、瑞泉院と号されていた鎌倉の寺を中興し、瑞泉寺と改め、この寺を墓所とし、以後、瑞泉寺は鎌倉公方足利家の菩提寺になっています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E5%9F%BA%E6%B0%8F
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%A0%E5%B1%B1%E5%AE%B6%E5%9B%BD
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%91%9E%E6%B3%89%E5%AF%BA_(%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%B8%82) (太田)

(続く)