太田述正コラム#12882006.6.10

<ザルカウィの死(その2)>

4 ザルカウィの特異性

 (1)特異性の起源

 ザルカウィ(本名はAhmad Fadil Nazal al-Khalayleh)は、ベドウィンのベニハッサン族(Beni Hassan tribe of Bedouin)の一員として、ヨルダンの首都アンマンの近郊の工業と犯罪の町であるザルカ(Zarqa。彼の通称の由来)で生まれますが、父親を亡くし、一家の生活が窮乏すると悪事に手を染めるようになり、17歳で学校をドロップアウトして街のギャングとしての生活に入ります。婦女暴行で入獄したこともあります。

 その彼の転機になったのは、やはりギャングが横行していたパレスティナ難民キャンプに彼が出入りするようになり、そこでイスラム過激派の思想に接したことです(注3)。

 (以上、http://www.guardian.co.uk/Iraq/Story/0,,1793632,00.html及びhttp://www.guardian.co.uk/Iraq/Story/0,,1494965,00.html(6月9日アクセス)による。)

 (注3)それ以降の、ザルカウィのビンラディンとの出会いと両者の関係の紆余曲折や、ザルカウィのイラクとの関わりが米国をして対イラク戦を決意させた要因の一つとなったこと、等については、上記二つのガーディアン記事及びhttp://www.guardian.co.uk/Iraq/Story/0,,1793709,00.html(6月9日アクセス)参照。また、ザルカウィ一味が実行したヨルダン内でのテロ、イラク内での国連機関・米国等の部隊及び機関等・新生イラク政府・シーア派聖職者や一般住民、等に対するテロについてはhttp://www.nytimes.com/2006/06/08/world/middleeast/08cnd-assess.html?pagewanted=print(6月9日アクセス)参照。

(2)残虐さ

 ザルカウィは、氏も育ちもサウディの名門の財閥に生まれ育ったビンラディンとは月とスッポンであり、ビンラディンのようにイスラム教「理論」を口にするような能力もまた持ち合わせてはいませんでした。

彼の唯一の取り柄と言えば、ギャング時代に身につけた残虐さくらいであり、人々を震撼させ、多くの人々の反発を呼んだところの、人質の首をナイフで切り落とさせたり、場合によっては自分で切り落としたりする彼の残虐さのおかげで、彼の悪名は世界に轟きました。

(以上、http://www.guardian.co.uk/Iraq/Story/0,,1494965,00.html上掲による)。

(3)シーア派への攻撃

 イラクのスンニ派不穏分子に向かって、最初にシーア派への攻撃を促したのはザルカウィでした。

 彼が2004年の初期に発出した書簡には、「<スンニ派とシーア派の間の>セクト間戦争」こそ、シーア派の反撃とこれに対するイラク外からのスンニ派を結集した再反撃をもたらすことにより、イラクのスンニ派不穏分子が勝利を収める展望を開く唯一の方法だ、と記されていますNYタイムス上掲)。

 私には、これもまた、彼がギャング間抗争から学んだ手法のように思えてならないのです(注4)。

 (注4)もっとも、これをザルカウィに吹き込んだのは、シーア派神政国家イランだという説もある(http://www.slate.com/id/2143305/nav/tap1/。6月9日アクセス)。イラク国内の同朋たるシーア派を塗炭の苦しみに陥らせるようなことをイランがやるわけがない、と思われるかも知れないが、イラク国内の混乱が続くことは、米国のイランに対する圧力を弱めることとなるし、またその混乱がイラクを超えて、シーア派が多数居住する湾岸全体に波及すれば、イランの覇権を湾岸一帯に確立する契機になる、とイランが考えている可能性を全く否定することはできない。

(続く)