太田述正コラム#11842(2021.2.15)
<呉座勇一『応仁の乱–戦国時代を生んだ大乱』を読む(その15)>(2021.5.10公開)

 「畠山弥三郎は大和に落ちのびた。
 かつて持国に苦杯をなめさせられた成身院光宣がいたからである。
 光宣が弥三郎を受け入れたことで、大和で再び戦乱が巻き起こった。・・・
 甲斐氏<(注37)>は斯波氏の家臣でありながら、斯波氏を介さずに将軍から直接命令を受けることも少なくなかった。

 (注37)「佐野氏の一族とされ、出自は下野であると思われるが、判然とはしていない。・・・
 甲斐氏は室町幕府が成立し、斯波氏が越前守護となった頃にその執事として入京した。・・・
 将教(法名:祐徳(ゆうとく))は越前・尾張・遠江の守護代となり、その後甲斐氏が越前・遠江の両守護代職を世襲するようになる(尾張守護代は織田氏が世襲するようになる)。将教の子将久(ゆきひさ、法名:常治)の代となって最盛期となり、陪臣でありながら、将軍の出行を得られるほどにその家格は高かった。
 しかし、長禄合戦直後の・・・1459年・・・8月12日に常治が亡くなると、台頭著しい朝倉氏に特に越前で圧迫されるようになる。
 応仁の乱で甲斐敏光(将久の子)は西軍に与するが、同じく西軍にあった朝倉孝景の東軍寝返りにより窮地に立たされる。最終的に甲斐氏は越前での基盤を失った。以降、遠江に本拠地を移し遠江守護代として活躍する。
 しかし越前の朝倉氏・尾張の織田氏のように戦国大名に発展することは無かった。これは隣国駿河の今川氏の激しい遠江侵攻による。その後歴史の表舞台から退場していく。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E6%96%90%E6%B0%8F
 「佐野氏<は、>・・・秀郷流の系統。藤姓足利氏(源姓の足利氏とは別)庶流。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E9%87%8E%E6%B0%8F
 「但馬には、開化天皇の後裔とも孝徳天皇の後裔とも伝わる日下部氏が、平安時代から大武士団を形成し栄えていた。朝倉氏は、この日下部氏の流れをくむ氏族のひとつである。・・・
 越前朝倉氏は南北朝時代、足利氏の一族である斯波氏に仕えた朝倉広景から始まる。通字は「景(かげ)」。
 次代の朝倉高景は斯波高経に仕えて、高経が守護に任じられた越前国に所領を与えられた。高経が室町幕府によって越前守護を追われて討伐された貞治の変の際には、幕府軍に寝返って所領を安堵されている。その後、外来の武士ながら越前国に定着して勢力を築いた。斯波氏が越前守護に復帰すると帰参するが、既に越前に勢力を築いていた朝倉氏の存在を斯波氏も無視する事は出来ず、室町時代に入ると、甲斐氏・織田氏とともに守護代に任ぜられるようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%80%89%E6%B0%8F
 「織田一族の発祥地は越前国織田荘(現・福井県丹生郡越前町)にある劔神社である。本姓は藤原氏(藤原北家利仁流?、のちに桓武平氏資盛流を称する)。実際は忌部氏の流れを汲むとされる。甲斐氏、朝倉氏と同じく、三管領の斯波武衛家の守護代であり、序列は甲斐氏に次いで二位であった。室町時代は尾張国の守護代を務める。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E6%B0%8F

 つまり、将軍の直臣に近い扱いを受けていたのである。
 室町幕府創設段階では、斯波氏は足利一門の中で家格・実力ともに将軍家に次ぐ位置を占めていたため、代々の将軍は甲斐氏を重用することで斯波氏を監視・牽制したのである。・・・

⇒このあたり、下剋上の端緒的なものが窺える点は面白いのですが、それはさておき、呉座には、お家騒動の個々の話に首を突っ込むよりは、どうして、広義の戦国時代の様相が深まって行ったのか、その構造的原因の追求に注力して欲しかったと思います。
 というわけで、彼のこの後の記述は大幅に端折りました。(太田)

 1464<年>12月、足利義政の弟の浄土寺義尋が還俗し、足利義視<(注38)>(よしみ)と名乗った。

 (注38)1439~1491年。「6代将軍足利義教の十男として誕生。母は義教正室の正親町三条尹子に仕えていた女房の小宰相局で、庶子として扱われた。・・・
 ・・・1443年・・・に出家して、天台宗浄土寺の門跡となり、義尋(ぎじん)と号した。・・・1464年・・・11月・・・に実子がなかった兄・義政に請われて僧侶から還俗することとなった。当時義尋のほかに義政の兄弟で生存していたのは、義政の兄に当たり、古河公方に対抗させるために還俗していた政知のみであった。12月・・・に正式に還俗して、・・・義視を名乗った。
 翌・・・1465年・・・・7月26日に<義政の正室の>富子の同母妹良子を正室に迎えたが、これは義政と富子のすすめによるものであった。・・・。同年の11月23日に義政と富子の間に甥義尚が誕生し、将軍世嗣とされたが、特に義視の立場に変化はなかった。・・・当時は子供の生存率も低く、世代に差があるため義視は中継ぎとして見られていたとされている。・・・1466年・・・1月6日には従二位となっている。またこの頃京都では徳政一揆が度々起こっているが、義視は義政と別個に大名への軍事命令を出している。従う大名は殆どなかったが、斯波氏の前当主斯波義廉の家臣朝倉孝景はこれに応じている。
 ・・・1466年・・・8月25日、義政は斯波義敏を越前国・遠江国・尾張国守護に任じ、斯波義廉を討伐するよう諸大名に命令した。しかし山名宗全・畠山義就らはこれに反対し、義敏を支援する伊勢貞親らと対立していた。9月5日、貞親は義視が反逆をもくろんでいると訴え、義政に誅殺を求めた。義視も義廉に近く、義政の乳父であり、「御父」と呼ばれていた貞親の動きはこれに対抗するためのものだった。
 義視は宗全の屋敷に逃れ、ついで元管領細川勝元に無実を訴えた。翌6日には貞親が讒訴の罪を問われ、貞親と義敏、季瓊真蘂、赤松政則ら貞親・義敏派が失脚した。・・・
 <この文正の>政変後も義視の扱いに変化はなく、・・・1467年・・・1月11日には正二位に叙せられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E8%A6%96

 男子のいない義政が自身の後継者になってほしいと弟に頼んだのである。
 しかし、<1465>年11月、義視の元服直後に、義政の実子(のちの義尚(よしひさ)・・・)が誕生したことで、事態は複雑化した。
 義政は義視→義尚という順での将軍継承によって解決しようとしたと見られるが、当時の幕政は義政の鶴の一声で動かせるものではなかった。
 この時期、幕府には三つの政治勢力があった。
 第一は、伊勢貞親<(注39)>・・・を中心とする義政の側近集団である。

 (注39)さだちか(1417~1473年)。「伊勢貞親教訓(いせさだちかきょうくん)は、・・・伊勢貞親が嫡男貞宗に対して著した教訓状である。全38条の本文及び執筆意図について記した覚書(末文と和歌1首)により構成されている)。・・・「神仏への崇敬」「公私における主従関係の徹底」「武芸を重視した教養の習得」「日常からの礼儀作法の厳守」という4点は、伊勢氏に限らず武家一般の基本的なあり方について論じている部分が多く、鎌倉幕府の北条重時による『北条重時家訓』と並んで後世に影響を与えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E8%B2%9E%E8%A6%AA
 「伊勢氏(いせし)は、・・・桓武平氏維衡流と称した氏族。・・・桓武平氏という点については疑問も呈されている。・・・少なくとも鎌倉時代末期には足利氏の近臣であったと推定され<る。>・・・南北朝時代の・・・1379年・・・に、俊継の孫にあたる伊勢貞継が足利幕府政所執事となって以降、政所執事を世襲するようになった。・・・
 戦国大名後北条氏の祖となる北条早雲こと伊勢宗瑞は・・・庶流の備中伊勢氏の出自だと目されている。早雲の一族が「北条」と名乗るのは、早雲の死後の息子北条氏綱の時代以後と考えられており、厳密に言えば早雲時代の北条家は「伊勢家」と呼ぶのが正しい。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E6%B0%8F 

 義尚の乳父(養育係)である貞親は、義視の将軍就任には反対であった。
 義政が将軍を続け、成長した義尚が後を継ぐことこそ望ましい。・・・」(63、66~67、72)

⇒偉大なる家訓を残したところの、北条氏と伊勢氏の双方の血を引くとされる後北条氏の無様な最後を見るにつけ、いや、それ以前に、北条氏と伊勢氏のそれぞれの惨めな凋落を想起するにつけ、家訓なんぞ三文の値打ちもない、ということが分かりますね。(太田)

(続く)