太田述正コラム#11884(2021.3.8)
<鍛代敏雄『戦国大名の正体–家中粛清と権威志向』を読む(その10)>(2021.5.31)

 「1550<年>、毛利元就<(注24)>は譜代の重臣井上元兼<(注25)>の一党を粛清した。・・・

 (注24)1497~1571年。「1500年・・・、幕府と大内氏の勢力争いに巻き込まれた父の弘元は隠居を決意した。嫡男の毛利興元に家督を譲ると、松寿丸は父に連れられて多治比猿掛城に移り住む。
 ・・・1501年・・・には実母が死去し、松寿丸10歳の・・・1506年・・・に父・弘元が酒毒が原因で死去した。松寿丸はそのまま多治比猿掛城に住むが、家臣の井上元盛によって所領を横領され、城から追い出されてしまう。この困窮した生活を支えたのが養母であった杉大方である。杉大方が松寿丸に与えた影響は大きく、後年半生を振り返った元就は「まだ若かったのに大方様は自分のために留まって育ててくれた。私は大方様にすがるように生きていた。・・・10歳の頃に大方様が旅の御坊様から話を聞いて素晴らしかったので私も連れて一緒に2人で話を聞き、それから毎日欠かさずに太陽を拝んでいるのだ。」と養母の杉大方について書き残している。
 ・・・1511年・・・、杉大方は京都にいた興元に使いを出して松寿丸の元服について相談し、兄の許可をもらって松寿丸は元服した。そして、多治比(丹比)元就を名乗って分家を立て、多治比殿と呼ばれるようになった。
 ・・・1516年・・・、長兄・興元が急死した。死因は酒毒であった。家督は興元の嫡男・幸松丸が継ぐが、幸松丸が幼少のため、元就は叔父として幸松丸を後見する。毛利弘元、興元と2代続く当主の急死に、幼い主君を残された家中は動揺する。毛利家中の動揺をついて、佐東銀山城主・武田元繁が吉川領の有田城へ侵攻。武田軍の進撃に対し、元就は幸松丸の代理として有田城救援のため出陣する。元就にとっては毛利家の命運を賭けた初陣であった。
 安芸武田氏重鎮であり、猛将として知られていた武田軍先鋒・熊谷元直率いる軍を元就は撃破し、熊谷元直は討死。一部の防備の兵を有田城の包囲に残し、ほぼ全力で毛利・吉川連合軍を迎撃し、両軍は激突する。戦況は数で勝る武田軍の優位で進んでいたが、又打川を渡河していた武田元繁が矢を受けて討死した結果、武田軍は混乱して壊滅。安芸武田氏は当主の元繁だけではなく、多くの武将を失い退却する。この有田中井手の戦いは武田氏の衰退と毛利氏の勢力拡大の分水嶺となった。そしてこの勝利により、安芸国人「毛利元就」の名は、世間に知られるようになる。
 この戦いの後、元就は大内氏から尼子氏側へ鞍替えし、幸松丸の後見役として安芸国西条の鏡山城攻略戦(鏡山城の戦い)でも、その智略により戦功を重ね、毛利家中での信望を集めていった。
 ・・・この頃に吉川国経の娘(法名「妙玖」)を妻に迎える。27歳で長男の隆元が生まれているので、初陣から27歳までの間で結婚したと言われている。
 ・・・1523年・・・7月、甥の毛利幸松丸がわずか9歳で死去すると、分家の人間とはいえ毛利家の直系男子であり、家督継承有力候補でもあった元就が志道広良をはじめとする重臣たちの推挙により、27歳で家督を継ぎ、毛利元就と名乗ることになった。しかし、毛利家内では家督について揉め事があったらしく、この家督相続に際して毛利氏の重臣15名による「元就を当主として認める」という連署状が作成され<る。>・・・
 家督を継いだ時点では小規模な国人領主に過ぎなかった毛利家を、一代で山陽道・山陰道10か国を領有する戦国大名の雄にまで成長させた(しかも、完全な老境に入ってから版図を数倍に拡大させている)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E5%85%83%E5%B0%B1
 (注25)いのうえもとかね(1486~1550年)は、「安芸井上氏は清和源氏の流れを汲む信濃源氏井上氏の一族である。もとは毛利氏と対等関係にある国人であったが、毛利氏との縁戚関係を経て一門の多くが毛利弘元の家臣団に組み込まれ、弘元に知行を給されて、家中においては近習同様に仕えることとなった。
 元兼は主に財政面において活躍した。また、・・・1523年・・・、毛利氏の宿老15名が連署起請文を提出して弘元の子・毛利元就の家督相続を要請した際には、井上就在・元盛・元貞・元吉ら他の井上一族と共に署名するなど、元就の補佐を務めて大いに功績をあげた。ところが家中で専横を極めたことに加え、家中における影響力や権威の強さから(一説には井上元盛が元就の所領の猿掛城領を横領したとも)、それを危惧した元就によって、・・・1550年・・・に子の就兼、叔父の元盛ら一族もろとも[30余名が]粛清された。
 一方で、父・光兼は高齢のため、叔父・井上光俊や従弟の井上就在は元就への忠誠心の厚さから、粛清を免れている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E5%85%83%E5%85%BC
 「安芸井上氏<は、>・・・南北朝時代ごろに<信濃国から>安芸国に移<ったもの>。・・・助命された井上就在の子孫<から>、明治の元勲である井上馨が出ている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E6%B0%8F#%E5%AE%89%E8%8A%B8%E4%BA%95%E4%B8%8A%E6%B0%8F

 粛清・・・直後の7月20日付けで、熊野牛玉宝印(くまのごおうほういん)を翻し、その料紙の裏に、福原貞俊以下238人の毛利家家臣団が・・・十八ヶ条の・・・連署起請文を書いた。・・・
 ただし、毛利元就・隆元父子の専制化と即断するわけにはいかない。
 家中として連帯することを目的とした一揆の法が見てとれるからだ。
 井上党の粛清後、家督の隆元のもと、譜代の三奉行・・・と元就の二奉行(桂<(注26)>・児玉<(注27)>)の五奉行が家中の行政を担った。

 (注26)「毛利氏家臣の桂氏は本姓は大江氏。家系は毛利氏の流れで、その庶家坂氏の分家にあたる。・・・その末裔に、桂小五郎/木戸孝允(大江孝允)や木戸幸一、桂太郎(大江清澄)などを輩出している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E6%B0%8F
 (注27)「武蔵七党での有力な一族である児玉氏を先祖とし、1221年・・・の承久の乱で戦功を挙げ、安芸国豊田郡竹仁村の地頭職を与えられた。文永・弘安の役において、武蔵国より一族が下向して、在地領主となった。南北朝時代には足利直冬に属するも、後に大内氏側に転じ、後に毛利時親に従って安芸国に下向して、譜代重臣として仕えた。戦国時代となり、毛利元就が当主の頃には、児玉就忠が元就の側近として、桂就忠とともに奉行人となった。・・・
 幕末期<に>末裔・児玉源太郎<を出した。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%90%E7%8E%89%E6%B0%8F

⇒この時点で、桂やら児玉やらが登場したことに驚きましたが、幸い、桂小五郎が大酒飲みだったことが分かっている
http://rekishi-yomoyama.hatenadiary.jp/entry/2018/03/24/212316
ことから、その先祖筋であるところの、元就の父親や兄、が亡くなった「酒毒」が、アルコール依存症の合併症
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%AB%E4%BE%9D%E5%AD%98%E7%97%87
であったことが推測できます。(太田)

 奉行衆による官僚政治を執ったのである。
 その最初の仕事は、井上一党から没収した遺跡(ゆいせき)(所領や財産・権益)の分配だった。」(37、39)

(続く)