太田述正コラム#11886(2021.3.9)
<鍛代敏雄『戦国大名の正体–家中粛清と権威志向』を読む(その11)>(2021.6.1公開)

 「鎌倉以来の名門、吉川<(注28)>・小早川<(注29)>の両川(りょうせん)を併合した元就は、・・・1557<年>11月25日付けで、毛利隆元・吉川元春・小早川隆景に宛てて、「三人心持の事」<(注30)>と始まる自筆の書状をしたためた。

 (注28)「吉川氏(きっかわし)は、藤原南家工藤流の流れをくむ日本の氏族。・・・吉川国経の娘<(妙玖)>を毛利元就が、国経の嫡男・元経が元就の姉を、それぞれ娶った関係から、毛利家と吉川家は姻戚関係となる。しかし元経の嫡男で、吉川家を継いだ興経は、大内方と尼子方への背反を繰り返し、特に天文11年(1542年)から始まる大内義隆による出雲国攻めの際には尼子方に寝返りの末、大内軍は敗走。結果、元就も窮地に追い込んだ。
 元就の正室妙玖<(みょうきゅう)>の死後に、元就による吉川家への調略が始まり、吉川家重臣は興経から離反し毛利元就へ味方し、興経は元就の次男・元春を養子に迎え、隠居に追い込まれる。そして・・・1550年・・・に元就の謀略で興経が謀殺され、藤姓吉川氏嫡流は滅亡することになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B7%9D%E6%B0%8F
 (注29)桓武平氏土肥氏の分枝⇒清和源氏流平賀氏⇒大江氏流毛利氏(⇒豊臣氏流羽柴氏) ※⇒は養子。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%97%A9%E5%B7%9D%E6%B0%8F
 (注30)「一族協力を説いた倫理的な意味だけでなく、安芸の一国人領主から、五ヶ国を領有する中国地方の領主に成り上がった毛利氏にとって、戦国大名としては独自の「毛利両川体制」とも呼ぶべき新体制をとることを宣言した政治的性格をおびている。それで、「兄弟が結束して毛利家の維持に努めていくことの必要性を説き、元就の政治構想を息子たちに伝えた意見書であり、単なる教訓とは異なる」「毛利家の公式文書としての色合いが強い」とされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%AD%90%E6%95%99%E8%A8%93%E7%8A%B6

 エピソードとして有名な「三矢(さんし)の教訓」<(注31)>のもととなる手紙である。

 (注31)「教訓状には「三本の矢」については記述がない。そもそも史実では、元就が死の間際に3人の息子に教訓を残すことは不可能な状況であった(隆元は元就より8年も早く亡くなり、元春は山中幸盛らの率いる尼子再興軍との戦いで出雲国で在陣中であり、元就の死を見届けたのは隆景と輝元のみ)。」(上掲)

 条目で14ヶ条ある。・・・
 尼子晴久<(注32)>は・・・1543<年>5月、本拠出雲の月山富田(がっさんとだ)城を攻撃する大内義隆軍を退けた。

 (注32)1514~1561年。「宇多源氏佐々木氏流尼子氏・・・正室:尼子国久の娘」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BC%E5%AD%90%E6%99%B4%E4%B9%85
 「京極氏(きょうごくし)は、・・・宇多源氏の流れを汲む近江源氏、佐々木氏の別家である。・・・
 尼子家(宮内少輔家)<は、>京極高久(尼子高久)に始まる家。近江尼子の地を本貫地とする。京極氏の有力一門として室町幕府に仕え外様衆に列し、時に将軍家に近侍した。当主は宮内少輔を代々称す。奉公衆。その庶流は出雲で尼子氏となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E6%A5%B5%E6%B0%8F

 <1551>年9月、義隆は重臣の陶隆房(すえたかふさ)(のち晴賢)に攻められ、自刃する。
 晴久は、翌<1552>年・・・8ヶ国の守護に就任、中国地方における戦国の大大名になった。・・・
 この2年後<の1554年>、尼子一族衆の新宮党<(注33)>(しんぐうとう)にたいする粛清が断行された。
 尼子氏家督の晴久は、叔父国久<(注34)>(くにひさ)とその子誠久(さねひさ)、新宮党3000人を殺害した。

 (注33)「新宮党は、・・・尼子氏家中の精鋭として知られた軍事集団。居館を月山富田城(島根県安来市広瀬町)の北麓、新宮谷に構えていたため、新宮党を称した。・・・新宮党は尼子経久の次男尼子国久が継承し、引き続き尼子一門の藩屏として活躍する。この頃の新宮党は、国久の養子先である吉田氏が所有する出雲国東部地域、そして謀反を企てて追討された国久末弟塩冶興久の遺領である出雲国西部地域の塩冶も引き継いで支配しており、出雲国内の勢力は非常に大きいものがあった。宗家とは別の独立した権限も所有しており、経久死後は当主尼子晴久の裁判権等に度々介入を行っている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%AE%AE%E5%85%9A
 「晴久は定例の評議のため登城した国久・誠久・敬久ら新宮党を襲い、ことごとく殺害してしまった。その際、誠久の五男孫四郎のみは乳母に抱かれて逃れ、のち京都東福寺の僧となる。・・・
 尼子氏は晴久が・・・1560<年>十二月に急死したため義久が跡を嗣ぐが、もはや往年の勢いはなくジリジリと毛利軍の侵略を許し、ついに<1566>年十一月に元就に降伏開城するという結末を迎えることになる。
 なお、尼子氏の重臣山中鹿介<(幸盛)>は主家再興を目指し、後に京都に隠棲していた勝久を当主として担ぎ出すことはよく知られているが、夢を果たすことなく播磨上月城で自刃した尼子勝久こそ、この事件の際にたった一人生き残った孫四郎その人である。」
http://www.m-network.com/sengoku/data2/tenbun231101.html
 (注34)1492~1554年。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BC%E5%AD%90%E5%9B%BD%E4%B9%85
 「山中氏<は、>・・・尼子氏の一門衆である。・・・
 <山中>幸盛の死は尼子再興運動の終幕ではあったが、上月城陥落時に尼子氏庶家亀井茲矩率いる部隊は秀吉に従い難を逃れていたため尼子遺臣団の完全な解体とはならなかった。尼子遺臣団の一部は庶家たる亀井家の家臣団として再編成され近世大名への道を歩み始め・・・津和野藩4万3000石として幕末を迎えた。・・・
 長男とされる山中幸元(鴻池新六)は父の死後、武士を廃して摂津国川辺郡鴻池村(現・兵庫県伊丹市)で酒造業を始めて財をなし、のちに大坂に移住して江戸時代以降の豪商鴻池財閥の始祖となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%AD%E5%B9%B8%E7%9B%9B

 この大粛清によって尼子軍は半減し、晴久の子義久の代に富田城が陥落、尼子氏滅亡の遠因となった。・・・」(39~41)

⇒「大内氏は百済の聖王(聖明王)の第3王子である琳聖太子の後裔と称している<が、>・・・代々、周防国で周防権介を世襲した在庁官人の出であること以外、実態は不明である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E6%B0%8F
ところ、その大内氏が、これまた、もともとは武家ではなかったところの大江流の毛利氏によって滅ぼされるとは、中国地方はユニークな戦国時代史を持ったものです。
 ちなみに、陶晴賢の陶氏は、「大内氏の庶家・右田氏の分家であり、大内氏の重臣の家柄」でした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B6%E6%99%B4%E8%B3%A2 (太田)

(続く)